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コメントありがとうございます。
仏教にも賛美の祈りがあるのですね。
私としては、宗教色を排した仏教が流行る現代日本の貧弱な宗教性、その原因の一つが、信仰対象の実在性を欠く「神なき霊性」によるものではないか(そしてもう一つの原因はプロテスタンティズムによる「信仰の私事化」ではないか)、と考えています。
この記事の続編のようなものもありますので、ご関心のある向きはどうぞ。
知られざる神に祈る http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/63250275.html[ カトリック的。 ]
2014/1/7(火) 午後 6:15
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こんにちは
仏教にも「讃仏」という概念はありますし、そのための祈りも存在します
ですが、今の日本で受けているのは、そういう宗教色の少ない、哲学としての仏教なのですね
だから、元記事を読んでおりませんので憶測ですが、その仏教研究家の方は「讃仏」というどっぷり宗教的な概念は省いて書かれたのかもしれませんね
初詣も、そこでご利益を願うのも本来の仏教ではないですね
神なき霊性の限界、というより、現代日本人の宗教性の限界ではないか、という気がします
通りすがり失礼いたしました。[ 流 ]
2014/1/5(日) 午後 2:47
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この話題は強い関心を呼んでいるようですね。
個人的な意見ですが、日本では大切なものを立ったまま受けるという伝統なんてあったのでしょうか。どうしても日本式にいきたいのであれば、聖体拝領の時には正座して押しいただくのが筋ではないかと思うのですが。
そもそも、聖体拝領は、神が自らパンとなって信者に与えられるという唯一無二の神秘です。神ならぬ「もの」を受け取るときの習慣をそのまま適用しようというのも、何か違うように思います。
最大級の敬意を示すために、またむやみに手で触れて落としたり手にかけらが残ったりという危険を避けるために、信者は口で受けるようになっていったわけです。この崇敬と畏怖の感覚は、もっと大事にされてもいいんじゃないかと私なんかは思っているのですが…。[ カトリック的。 ]
2013/12/26(木) 午後 8:14
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宗教はマインドコントロールの術でしかないのだが
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2013/11/14(木) 午後 10:29
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ありがとうございます。
Markさんもカトリックであれば、私たち人間は罪を徹底して憎み、避けるべきであること、また他人を、たとえそれが敵や罪びとであっても愛すべきこと、をご存じだと思います。我が国にも「罪を憎んで人を憎まず」という名言があるとおりです。
プロテスタンティズムが間違いであると指摘するからといって、プロテスタント信者を人格攻撃することにはなりません。プロテスタント信者の聖書に対する熱意には敬意を払いつつ、その信条は誤謬として退けているのです。この区別をご了承いただければと思います。
Markさんに平安のあらんことを。[ カトリック的。 ]
2013/7/28(日) 午後 4:05
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あくまで個人的な意見ですが、その場合の謙遜でない反応というのは、「あんたのような低レベルな者が私と交際しようだなんて、身の程をわきまえなさい」という態度(まァこれは極端かもしれませんが)だと思います。
謙遜な人であれば相手の気持ちは快く受け止めるでしょうが、さてその上で、交際するかしないかはまた別問題、自身で決めるべきことでしょう。[ カトリック的。 ]
2013/7/28(日) 午後 4:02
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大変勉強になりました。
私は成人洗礼組ですが、求道期間中から先祖代々カトリックという、所謂、旧信者と呼ばれる信者さん達のとの交流の中で過ごしました。
先祖がキリシタンだというその人達のお互いに祈り合い支えあう姿を見てきました。中には家族親族でもない私のためにミサを依頼して下さってる信者さんもいて、そういう体験の積み重ねが私にカトリックへの改宗を決意させたのかなと思います。
最近、「私のために祈って下さい」と言われると不快に思われる信者さんや「苦しみを捧げて下さい」の一点ばりで迫る信者さんに出会い、「私のために祈って下さい」は口にしては行けない言葉なのかと悩んでました。[ ミリア ]
2013/4/18(木) 午後 4:54
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なるほど、我々の愛国心を食い物にして数百万人の国民を死に追いやった戦中の国家神道はその好例ですね。
[ カトリック的。 ]
2014/1/24(金) 午後 8:21