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「カトリックは空虚な形式主義」という説は、けっこう広まっているみたいだ。
それにはいくつかの理由が考えられるが、ひとつには、カトリック教会で多くの「あらかじめ文章の決まった祈りの文句」が大事にされているという点があるようだ。
何種類も出版されているカトリックの祈祷書のどれをみても、主祷文(主の祈り)や天使祝詞(めでたし)に始まり、一日の主な行為や信仰生活に関わる様々な事柄に、教会の認可した定型の祈祷文が存在している。
この「祈りの多様性」を見て、キリスト教を知らない人は「その都度自分の言葉で祈ればいいじゃん」などと思ってしまうのかもしれない。
祈りを覚えるなんて面倒くさい! 祈祷書を見るのも疲れるし。
それよりも、神様に対して素直な心で、自然にあふれ出してくる言葉で祈るほうがずっと正直で、そのほうが聞き入れられるんじゃないの?
・・・ふむふむ、なるほど。でも、どうかな??
あらかじめことわっておくと、カトリックが「文章の決まった祈り」しか祈らない、というわけではない。
カトリック信徒は、毎日いろいろな時に神様に打ち明け話をしたり、手助けをお願いしたりする。「射祷」といって、一日に何度も「矢を射るように」短い祈りの言葉(「神に感謝」とか「み旨のごとくなれかし」とか)を、好みや状況に応じて口にすることも多い。
また、「念祷」など、神に関することがらを黙想して祈ったり、言葉を媒体としないで神の直観に近づこうとする祈りもある(ただしそれらは言葉で唱える祈りを踏まえた上での高次元の話なので、ここでは詳しく説明しない、別の機会に譲る)。
ただしカトリックでは、複数の人が集まって共に祈る時に、めいめいが勝手に祈りを即興で作って唱えるということはない。これはミサはもちろん、ちょっとした祈りの集いでも同様だ。
なぜなら、祈りの集いは、個人の体験や感情を披露する場ではないからだ。自己表現をしたいのであれば、公共の祈りの場ではなくて、別なところで個人的にすればいい。
また、教会を通して信徒に与えられている「祈り」、祈祷文と、個人それぞれの思いや願いごと(これを「意向」という)とは別のものだ。
だから、それぞれの意向を込めて祈りを唱える、という形になる。たとえば、「貧困に苦しむ人々のために」という意向で、皆で一緒に「主祷文(主の祈り)」を唱えて神様に捧げよう、という具合に。
個人で祈る時も同様で、たとえば何か困った時には、信徒の保護者である聖マリアに取次を頼んで神に助けてもらおうとするので、「聖母の御保護を求むる祈Sub tuum praesidium」などを唱えたりするわけである。
さて今度は、先に青字で書いた、カトリックに対する素朴な述懐を検討してみよう。
カトリックの祈祷文は、即興の祈りに劣るものなのだろうか。「形式的」なものだろうか。
(この項つづく)
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