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(つづきです)
カトリックの祈祷文は、即興の祈りに劣るものなのだろうか。「形式的」なものだろうか。
私はなにも、自然に心から湧き上がってくる祈りを否定しているのではない。
主祷文(主の祈り)を除けば、定型の祈祷文といっても最初は誰かの心から湧き上がってきた言葉なのだろうし。
そうではなく、「定型の祈祷文を唱えるよりも、即興の祈りのほうが、常に、そしていかなる意味においても優れている」と主張する人がいるとすれば、その意見は正しくないと思う。
また、多くの定型文を大事にしているという表面的な事実から「カトリックは形式主義的だ」と結論づけるのも飛躍しすぎだろう。
最上の献げもの
旧約聖書を読めば分かるように、古代ユダヤ人は、すべては神からの贈り物であることを認め、家畜の初子、収穫の初穂、最上のものを神に捧げた。そして、その献げものは神に受け入れられた。
わたしたちキリスト者も、神に対して最上のものを捧げるべきだし、またそうしたいと思うのが当然だろう。
では、神に祈りを捧げる時、即興でそのような神にふさわしい言葉を思いつけるだろうか?
神に捧げるのであれば、その祈りは、神の教え(カトリック教理)に反するものであってはならない。また、時宜にかなったものである必要もある。さらに祈りの表現が美しければ、一層ふさわしいだろう。
・・・人は即興で、神学者と詩人との両方に変身できるものだろうか?
その点、教会の認可した祈りは神学的にも保証されているし、文章としても美しい。さらに祈祷書には、どのような時に唱えるのかご丁寧にも説明されている。たとえば前回とりあげた「聖母の御保護を求むる祈」は、仕事を終える時に唱えるのがよいということで、「終業の祈」の項目に入っている、といった具合だ。
心を尽くし、精神を尽くし
私たちは祈る時に、どのような心がけでいればいいのだろうか。
ルカ10・27には、
心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽して、あなたの神である主を愛せよ
と書かれている(マテオ22章、マルコ12章も参照)。
神を礼拝し讃美する時には、全身全霊をかけるように、ということだ。
短い文句を覚える手間すら惜しむようでは困る。
全身全霊で、というのはなかなか含蓄がある。肉体も精神も使え、ということだ。
カトリック嫌いの人は、「カトリックはひざまずいて敬虔そうに見せかけて、口先ばかりで決まった文句を唱える」などと悪口を言うが、それは違う。
カトリックは、心の中で神への愛を燃やすだけでなく、それを体でも表現し、言葉でも表現するべきだと考えているのだ。さらには霊魂(記憶・知性・意志)を動員して、(こむずかしい?)祈祷文をも学び覚えるのである。それを「形式的」などと言うことができるだろうか。
「心の中で神を愛してさえいれば良い」というのは、ちょっと聞くと敬虔なようだが、神から預かった他の能力を神のために使わないというのだから、ほめられた話ではないような気がする。
心を一つにして
主イエズス・キリストは、
もしあなたたちのうち二人が、どんな事でも地上で心を一つにして願うならば、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださるであろう。二、三人がわたしの名によって集まっている所には、その中にわたしがいる。(マテオ18・19-20)
とおおせになった。
「虚栄心から人前で敬虔ぶって祈ってはならない」ということから「祈る時は部屋にこもって一人で祈るがよい」という教えもあるが、別に複数の人が集まって共に祈ること自体が否定されているわけではない。それどころか、複数の人が心を合わせて祈ることには大きなお恵みが約束されているのである。
さて、心を一つにして祈ろうとする場合だが、めいめいが勝手に即興の言葉を唱えていたのでは、皆が心を合わせることなどありえない。
もちろん、一人が祈りを唱えて、他の全員がそれに心を合わせて静かに聞く、ということは可能だ。
ただそれにしたって、次にどんな言葉が飛び出してくるか分からないような状況では、本当に皆が心を合わせることができるのか、疑問が残るのではないだろうか・・・?
・・・なんだか脈絡なく書いてしまったが、要するに、
「あらかじめ言葉の決まった祈りよりも、即興の祈りのほうが良い」とは必ずしも言えない
「カトリックにはあらかじめ言葉の決まった祈りが多い」ということは「カトリックは形式主義だ」という論拠にはならない
ということを言いたかったのだ。
学才も文才もない私の書いた文章ゆえ、とても納得できん! という方も多いだろうとは思うのであるが、まあ、こういう意見もあるんだということでご了承いただきたい。
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