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前回まで、私たちが「宗教」という言葉をいかに偏った意味でしか捉えていないか、ということを見てきました。
「宗教」とは、(インチキ宗教でよくあるように)弱い人間が「すがる」とか「心の拠り所」とかそういうものではなくて、そんな個人の主観とか思い込みの話ではなくて、人間の思惑からは全く独立に、「世界はこういうものだ」「人間はこうすべきなのだ」という世界観や行動規範を提示するものなのです。
だから、ある人にとって「イワシの頭」を拝むのがどれほど「心の癒し」になろうとも、(イワシの頭は神でも仏でもないのだから)その信心はただの迷信であり、間違った宗教だ、という言い方ができるのです。
ある意味では、「宗教」は「学説」に近いと言えるでしょう。
私は、地球が太陽の周りを公転しているという説が真であると認めます。つまり、私は「地動説主義者」というわけです。地動説という一つの主張に賛成しているのです。
同じように、私はカトリック信徒です。カトリック教会の教理が真であると認めるからカトリックなのです。カトリシズムという一つの主張に賛成しているのです。
私が地動説を真と認めるのはなぜでしょうか? それは、地動説には信じるに足る根拠があると知っているからです。別に私が地動説に「心の拠り所」を求めているからではありません。これは皆さんが地動説を信じているのと全く同じだと思います。
地球の周りを星が巡っていると思うほうがロマンチックですし、場合によっては「心の癒し」になるかもしれません。けれども、私がどう思おうと、地球が太陽の周りを公転しているという事実には変わりないのではないでしょうか?
私はなぜカトリックなのでしょうか? それは、カトリシズムには信じるに足る根拠があると知っているからです。別に私がカトリシズムに「心の拠り所」を求めているからではありません。
カトリシズムであれ何であれ、信者になると「心が楽になるから」とか「癒されるから」信者になったって仕方ありません。私がカトリックに賛成しようが反対しようが、事実というものは変わりません。カトリックが正しければ、神は三位一体でキリストは受肉した神の第二位格ですし、カトリックが間違いならば、キリスト教なんてただの迷信だから世界から抹消すべきということにもなります(ちょっと過激ですが)。
そこに個人の感情や思い入れの関与する余地はありません。
「学説」と「宗教」との類似、お分かりいただけましたか?
けれども、学説と宗教とでは違いもあります。
学説の場合、正しい学説であると分かれば、誰もがそれを受け入れます。地動説だろうがなんだろうが、きちんと説明されれば誰もが納得して認めるわけです。
数学の証明もそうですよね。私のように数学が苦手だと説明されても分からないけれども、「分からない」のと「その主張は間違いだ」と言い張るのは違いますよね。私だって、分かるように説明されれば「あーなるほど、その通りだ」って認めますもの。
ここで、一つの疑問が湧いてきます。
カトリックであれ何であれ、その宗教の主張が真であれば全世界の人がとっくに受け入れているはずじゃないか。カトリックが全世界の5分の1の人口しかいないということは、真の宗教でないということにはならないか?
そこです。そこに、単なる学説と宗教との違いが出てくるのです。
学説の場合、それを真と認めたところで生き方には殆ど影響ありません。地球が公転していようがいまいが、正直どうでもいいとすら言えます。
ところが宗教の場合、主張されているのは「これこれすることが善である、あるいは悪である」「人はこのようにすれば救われる」といったことがらです。
つまり、ある宗教を真と認め、受け入れるということは、道徳的な責任を負うことにもなるわけです。
キリスト教の言っていることが嘘でないことは分かった。でもキリスト教的に生きるのは面倒だから拒否したい。・・・よくある話ですが、「真とわかっていながら受け入れない、実行しない」これって自己欺瞞ですよね。しかし自己欺瞞では自分のプライドが傷つくので、キリスト教そのものを否定する。そういう反応が出てくるのはごく自然のことです。
宗教とは、「これは真だからキリスト教徒になれ、仏教徒になれ」と言われてもすんなり受け入れられるようなものではないわけです。
また多くの人は、ある宗教が正しいか間違っているか調べようとしませんから、そもそも真偽を判断することからしてできない、ということもありますね。
ここまで見てきて、一つの考え方が出てきたことにお気づきでしょうか。
宗教とは道徳と密接な関係がある、ということです。
カトリックの教説を簡単に説明したものである「公教要理」では、
宗教とは「神に対する人の道」と定義されています。
「親に対する人の道」を「孝」と呼び、
「君に対する人の道」を「忠」といいます。
「道」という漢字には、「人道」「道義」という言葉があるように、倫理的な意味合いがあります。
さて、「神に対する人の道」とはどういうことでしょう?
次回からはいよいよ、カトリシズムにおける「宗教」の意味合いについて考えてみたいと思います。
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http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/30277539.html
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