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カトリック的。
信徒数13億人でも日本では知られていないカトリック。正統キリスト教会を気楽にご紹介します。

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宗教とは、人間の生き方に関わる世界観を提示する一種の「学説」のようなもの、という話を前回しましたが、覚えていらっしゃいますでしょうか。
その時にも少し触れましたが、学説に「真偽」つまり間違ってるとか間違ってないとかがあるように、宗教にも真偽があるのではないでしょうか。

私は、地球が丸いという立場をとっています。一方、Aさんは地球が平らだと信じているとしましょう。

「Aさんがそう信じているならそれでいいじゃないか。Aさんにとっては地球は平らなんだよ」


世間でよく耳にする相対主義的な反応ですけれども、そうでしょうか? そんな言説に何か意味があるでしょうか? 私やAさんが何を信じていようが、地球が丸いという事実は変わらないのですから。
「Aさんが主張する『地球が平らだ』という説は偽である」、それで済む話です。
「客観的な事実」と、「誰かの個人的な信念」とを混同するのは、おかしなことでしょう。

同じことが、宗教についても言えます。宗教だけ特別扱いなのは変ですよね。
「Bさんは○○という宗教の信者だけれども、その宗教の教えは偽である」、そう言うことができるということです。偽の宗教とそうじゃない宗教とを、区別できるということです。


さて、前回の論点は、「宗教が単なる学説と違うのは、宗教には道徳的な責任が関わってくる点である」ということでした。
「親に対する人の道」が「孝」と呼ばれるように、「神に対する人の道」が「宗教religio」だ、というのが宗教のおおまかな定義です。



宗教religioとは徳目のひとつ


日本語で「宗教」、英語では「religion」といいますよね。これは、ラテン語の「レリジオ(religio)」という言葉から来ています(学問の世界では「レリギオ」というのが一般的ですが、ここではラテン語に忠実な発音に従って「レリジオ」と書きました)。

この「レリジオreligio」、いったい何かと言いますと、徳の一つなんですね。
「徳」って分かりますでしょう? 節制とか友愛とか、美徳ってありますよね。学問の方では「徳virtusとは獲得された善きハビトゥスhabitus」だなんてコムズカシク言われますけれども、要するに、倫理的に善い習慣や行いってことです。

「善く生きる」には徳の実践が不可欠ですから、善い人間であろうと思うのであれば、正しい「宗教religio」がなければならない、ということになるんです。

はい。
ここで疑問が湧き上がってきていることと思います。

「キリスト教倫理」とか「仏教道徳」とかって言うじゃない? つまり、「宗教」と「倫理」は別でしょう? 「宗教」自体が徳目のひとつというのはどういうこと?


ごもっとも。 「宗教は個人の心の問題」と思い込んでいる現代の日本人にとって、「人としての生き方(道徳)」に「個人の問題(宗教)」が入っているなんて、違和感があるかもしれませんね。

しかし、です。 宗教を個人の主観のレベルにまで引きずり下ろしたのも、宗教と倫理とを切り離したのも、プロテスタンティズムに立脚する近代ヨーロッパ哲学の発想であって、決して当たり前のことではありません。
近現代の日本はプロテスタント国家から学問を輸入したので、今の私たちはついつい近代主義を当たり前のように思っているのですけれど、実はかなり偏った考え方をしているんです。

宗教に入ると、「あれしちゃいけない、これしちゃいけない」って色々と道徳上の制約が出てくるのでは…。


よく聞きますが、その発想自体が近代主義的なんですね。
本当は順序が逆なんです。

道徳的に正しく生きようとするならば、たとえば「人を殺しちゃいけない」「親を敬いなさい」といった、道徳上の制約が出てきますよね。そういった道徳上の制約の一つに「正しい宗教を実践する」ということも入っているんだよ、ということなんです。

さて、それでは宗教(レリジオ)とは、どのような徳なのでしょうか。


宗教religioは正義iustitiaに属する徳目


レリジオという徳目がどこに分類されるかと言うと、「正義iustitia」という徳の一つだということです。

それでは、正義(ユスティツィア)とは何でしょう。例えば、債務者は債権者に負債を返済する義務がありますよね。負うたものを返済する、帰すべきものを帰すべき相手に所属せしめる、それが正義と呼ばれます。
アリストテレスでは、正義とは「他者との関わりにおいて完全な徳」と記されています。自分と他者との間の偏りを是正し、あるべき秩序に戻そうとすることが正義の徳だということです。

人間は親に対して出産・養育の恩を負っているので、親孝行をすべきであるといわれます。
同様に、人間はその存在すべてを神に負うていますので、全人格をもって神に対してふさわしい崇敬をせねばならない、ということになります。
このような、正義iustitiaの中でも神に対する徳の実践のことを敬神religio(=宗教)というのです。

念のため聖トマス・アクィナスを孫引きしてみましょうか。

自然的理性は人間にたいして、かれが自らのうちに感じとっている欠陥――それらに関してかれは或る優れた者によって助けられ、導かれることを必要とする――のゆえに、或る優れた者に従属せしめられるべきことを命令する。そして、この<或る優れた者>aliquis superiorが何であろうと、それが万人において神と呼ばれている者にほかならない。しかるに、自然的事物において劣った者共は優れた者に自然本性的に従属せしめられているごとく、そのようにまた自然的理性は人間にたいして、自然本性的傾向性にもとづいて、人間の上位に在るところの者に、従属と尊崇を、人間の在り方に即して捧げるべきことを命令するのである。


つまり、レリジオという徳目を実践することは、理性によって万人に要求されていることなのだというわけですね。


具体的にどうすればよいのか


レリジオ(敬神、宗教)の徳を実践することは、万人に課せられた普遍的な法だということが分かりました。
「法」とはいっても政府や権力者が作った法律ではなく、すべての人が生まれつき持っている良心の法(例えば「殺すなかれ」「盗むなかれ」等)ですから、時代や地域によって異なるということはあり得ません。
いつの時代、どこの場所であろうが、正しいレリジオは万人共通だということです。

万人に普遍的ですから、例えば日本でも、そのようなレリジオの思想的萌芽が見受けられます。
「おてんとさまの下で恥じることのない」とか「天道に背かず」とか言いますよね。御天道様といっても別に太陽を崇拝しているわけではないでしょう。万人の上に等しく存在し、万人をはるかに超越している何か、それを「天」と呼び、またこの「天」に「従属と尊崇を捧げるべき」と、漠然と感じているのです。

それでは、天の恩にどうやって報いるればよいのでしょう。どうすれば神に対してふさわしい「従属と尊崇を捧げる」ことができるのでしょう。
残念ながら日本では、天に背かないよう徳を修め忠孝に励むべきことは説かれてきましたけれども、天の大恩そのものに対しては、どのように感謝し礼拝すればよいのか説かれたことがないようです。
神道でも、大自然の事象に対する細やかな美意識や畏敬の念はありますが、それら大自然の事象を創造したおおもとの存在に対して何をすればよいのかということは知られていないようです。


全人類に普遍的な、つまりは唯一の真正なレリジオは、実在しているのでしょうか。
真正のレリジオは理論上に存在しているだけで、この世に無数にある宗教はすべて間違っているのでしょうか。


カトリック教会は、カトリシズムこそが真正の宗教であると主張しています。
果たしてその主張の真偽やいかに? ・・・ご判断はお任せします。

ついに次回からは、カトリックとはどのようなものか、信経に即して見ていこうと思います。お楽しみに!


続きを読む http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/48912800.html

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