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hono_bono55様、一カトリック信徒としてあなたの「手紙」に返事できることを光栄に思います。以下、カトリック教会の公式見解ではありませんが、一信徒としての考えを記してみたいと思います。
あなたが「カソリックへの手紙」の中でお書きになった、現在のプロテスタンティズムが体現している政治的また宗教的の混乱に対する鋭いご指摘は、多くの人が納得されることと思います。
私がプロテスタンティズムの根本問題として考えるのは2点あります。
一つは、理性と信仰の乖離です。ルターが理性を娼婦と称したからなのでしょうか、あなたがおっしゃる通り、プロテスタントにおける「信仰」は熱狂(と言って語弊があれば「感動」と換言しても結構)のうちに「体感」されるもののようです。
一方カトリシズムにおいて、信仰とは次のように定義されます。
人間は創造主であり主である神に完全に依存しており、創られた理性は創られないことばに従属しているため、知性と意志とを啓示する神に完全に服従させるのである。そのためカトリック教会は、人の救いの始めである信仰を次のように定義する。信仰は超自然的徳であり、この徳によってわれわれは、理性によって認識した対象の内在的真理によってではなく、欺くことも欺かれることもない啓示する神の権威によって、神の恩恵の霊感と助けとをもって、神から啓示されたことが真実であると同意するのである。
以上は、第1バチカン公会議(1869〜70)の文書に記されているものです。
カトリックにとって、信仰とは「魂の盲目的な動き」ではなく、教会を通して示されている「神の啓示(即ちドグマ)に同意すること」を意味していることがお分かり頂けると思います。
カトリック信仰は「Credo quia absurdum(非合理なるゆえに我信ず)」ではなく「Credo quia rationale(合理的なるゆえに我信ず)」と言ってよい、と我が国の誇る知性、岩下壮一師も書き残しています。
有限の理性では把握しきれない啓示に対し、それを受け入れることこそが合理的であると理性的に判断を下す(神の助けが必要ですが)、これが「信仰の同意」とされています。
「信仰=ドグマの承認」から離れて、神秘体験の話をしてみましょうか。
聖人伝をお読みになれば、古くは第三天へ挙げられた使徒聖パウロから、十字架の聖ヨハネ、聖大テレジア、現代ではパードレ・ピオに至るまで、カトリック教会には数え切れないほどの神秘家ないし神秘体験をした人々がいることが分かります。
しかし、例えば今名前を挙げた十字架の聖ヨハネ、彼は中世を代表する神秘神学の大家ですが、彼は代表作『カルメル山登攀』中で繰り返し、神秘的な体験をしてもそれを一切重要視してはならない、何らかの声や啓示を感じても決して従ってはならないと述べています。それが「たとえ真に神から来たものであっても」拘泥してはならない、という点が重要です。
彼は何よりもまず、司祭つまり「理性の代表(チェスタトンは常識の擁護者と言っています)」であるドグマに属する者の意見を聞き、その指導に服すべきだと言います。
神はある種の信者には神秘体験の甘美さを用いて聖性に導きます。信者が感覚的喜びを通して信仰生活に慣れると、今度はそのような「飴」を伴わない真の信仰の高みへと呼び給うのです。その際に「飴」を喜びとして拘泥してしまうことは神のみ旨に背くことになります。
十字架の聖ヨハネが述べていることは現代でもなお通用します。
近頃わたしが不思議に思うのは、無分別な霊魂がたまたま心を静めている時に何らかのビジョンや声に接すると、それをすぐ神からのものとし、「神がお示しになった」とか「悩みに答えてくださった」と結論することである。しかしこれは単に自問自答しているに過ぎない。
カトリック教会には、「いやしくも自然において可能なことであれば、悪魔もこれを起こしうる」という格言があります。
あなたが指摘された「異言」も、もしかするとこの類かもしれません。仮にも人間が話している(話していた)言語であれば、どの人間にも潜在的にはその言語を話す能力があるということですから、悪魔がある人に彼にとって未知の言語を話させることも当然可能です。少なくとも、神よりのものと性急に結論はできません。
カトリックにとっては、神秘現象はドグマによって判断されるべきものです。
私は政治や経済について語る言葉を持ち合わせておりませんが、信仰が理性によって基礎付けられるべきなのと同様に、理性的営為もまた信仰によって照らされねばならぬ、というのがカトリックの立場です。
始めに、プロテスタンティズムにおいては信仰と理性とが乖離しているのではと申しました。
プロテスタントにおける「信仰」が理性による批評を逃れているのと同様に、プロテスタントにおける平日の(宗教から離れた)生活は、信仰(カトリック的な意味での)とは別の原理に立脚している可能性がありましょう。
私が考えるプロテスタントの根本問題の2つ目は、聖書の問題です。
聖書については、当ブログの「聖書のはなし。」という書庫にいくつか記事を書いておりますので、詳しくはそちらに譲ります(といっても、まだ少ししか記事がありませんが)。
あなたが「皮肉なことに、プロテスタントの基礎となる聖書は、カソリックによって編纂された書物だ」とおっしゃる通り、聖書に著作権があるとすれば、それはカトリック教会に帰属します。
聖書はカトリック教会の中でカトリック信徒によって書かれ、しかもその著者の多くは司教でありました(聖ペトロ、聖パウロ、聖ヤコボ、聖ヨハネなど)。
「聖書に目録なし」とよく言われるように、聖書の中には「これこれの書物が聖書である」という定義や目録はありません。数多く書かれた書物や手紙の中で、神の霊感を受けて書かれたものとして選ばれ集成されたものが聖書です。その集成を聖書として決定したのは、教皇であり、公会議でありました。
プロテスタントは、聖書が神の霊感の書であるとどうやって同意するのでしょうか? 私には分かりません。聖書が神感の書であるという彼の確信が客観的であり合理的であるという根拠がプロテスタントには無いのです。
カトリックは、教会が神感の書と保証するから聖書を認めます。キリストに直接教えを受け、教えを伝える使命を与えられた使徒たちの教会(真理の霊によって導かれるとの主の約束もある)が、数ある書物・手紙の中から神感の書として提示するので受け入れるのです。
プロテスタントは教皇や公会議を否認します。しかし、その教皇と公会議が編纂した聖書を疑うことなく聖書として受け入れるのはなぜなのでしょう?
プロテスタントは教皇(使徒の頭聖ペトロの後継者)の信仰と道徳における不可謬性を否認します。しかし、プロテスタントも初代教皇が信仰と道徳についていくつかの手紙を書いた時、不可謬性を持っていたことを認めているのではないでしょうか(聖書中の聖ペトロの書簡)。聖書はすべて誤りのない書物だというのですから。
プロテスタントは教皇の不可謬性を否認します。
一方で「<聖書のみ>を信仰の基礎とする」と主張しますが、聖書が信仰の基礎だとは聖書のどこにも書かれていません。ルターがそう言ったのです。
教皇の不可謬性は否定するが、「聖書のみ」を主張したルターの不可謬性は肯定するということでしょうか?
ことほどさように、プロテスタンティズムにおける聖書の位置付けは論理的に混乱していると言わざるを得ません。しかもその聖書が「信仰の源泉」とされているのですから、(単にカトリックのような教導権がないゆえに解釈の相違が宗派分立として無限に拡大するというだけではなく)、本質的に、つまりプロテスタンティズムの根幹において混乱がはらまれていると言えるのではないでしょうか。
否定的なことばかり書いているように思われるかもしれませんが、プロテスタントが聖書を保ち続けているのは神の恩寵であると私は考えています。
現代のキリスト教系の新興宗教は、教祖がでっちあげた本を聖典としたり、恣意的な誤訳に満ちた聖書を用いたりしています。
一方、プロテスタント諸教団はカトリック教会が定めた正典目録の枠内に留まっています。
宗教改革者たちが自らに都合が悪いからと除外した数書を聖書に含めていないのは残念ですが、少なくとも勝手な聖典を作る事はしていません。宗教改革から500年、このことは評価すべきだと考えます。
hono_bono55様、以前あなたはカトリックとプロテスタントへの思いを放蕩息子の例え話で語られましたね。
最後に私もそのお話を敷衍してみようと思います。
あなたがたとえられたようにプロテスタンティズムが弟、自ら父の家を離れ、家督を放棄した者であるとすれば、カトリシズムは「私のものは皆お前のものだ」との言葉を与えられ、父の家督を継ぐ兄にたとえられましょう。しかし、兄はその地位に安住し、時に務めにおいて怠惰であったかもしれません。一方、放蕩息子は回心して帰還し、父の家は喜びに溢れます。
弟の帰還の後に、兄は父から家督を継ぐ保証の言葉を与えられました。兄にとっても、弟が帰還しない限り父のもとで真に憩うことはできないのです。いつの日か、すべての兄弟が父の家で再びともに一つとなることを祈っています。
この手紙が、あなたの手紙への直接・適切な返事となっているかは自信がありません。
もしかすると、的外れなことばかり書いてしまったかもしれません。なにぶんにも若輩者ゆえ、おゆるし下さい。
「現代のキリスト教文明は混迷し、堕落しているとの批判」「プロテスタントの深刻な問題」を真摯に受け止め、「より深くカソリックについて知りたい」というあなたのお役に少しでも立てたらと願うばかりです。
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