|
弟子 (何か行動を始める前に十字架のしるしをするのは、その行動が私たちの敵によって妨げられないように願うものでもある、とのことでしたが、)「私たちの敵」とは何ですか。
師匠 悪魔と、世間と、肉体とをもって敵というんだ。
弟 どういうわけでこの三つを敵と呼ぶのですか。
師 この三つは、私たちの霊魂に対して強制的に罪を犯させることはできない(注1)けれども、悪を勧めたり、罪へ誘ったりすることから、敵というんだよ。
弟 この三つの敵が悪を勧めたり、善業の妨げとなる誘惑tentatioを行うのを、天主がお止めにならないのはなぜですか。(注2)
師 私たちが誘惑に抵抗し、天主の助けを受けてこれに打ち勝つならば、一層の恩寵を与えようというのが天主のご意向なんだよ。(注3)
弟 悪魔はどのように誘惑するのですか。
師 悪魔は、人の心に悪い思いを浮かばせたり、罪を犯す機会を人の前に現したりするんだ。
弟 悪い思いをどのように防げばよいですか。
師 その方法はいくつもあるけれども、とりわけ三つの方法がある。一つには、悪い思いが起こった時に、善い考えに置き換えること。二つには、胸に十字架のしるしをすること。三つには聖水を額につける(注4)ことだね。
弟 どのようにすれば罪を犯すことを防げますか。
師 一つには、罪を犯す機会を避けること。二つには、祈りを唱えること。三つには、善い訓戒を聞き、善い書物(注5)を味読することだね。
注1 罪は強制されない
キリスト教において、罪とは「1.重大に天主に背くことがらについて、2.それが罪であると認識しながら、3.自らの意志で、それを実行しようと決意する」の3要件を満たすものをいう。従って、自分では承諾していない行為を強制され、あるいは、自分では意識しないうちに行なったのであれば、上記の要件を欠くため罪が成立しない。罪とは自覚的かつ故意の、個人の営為である。
http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/25431256.html も参照のこと。
注2 悪の問題
ここで提起されている質問の根底にあるのは、哲学で「悪の問題」と呼ばれるもの。即ち、「これほど世界が悪で満ちているのに、天主などあるものか」という、論理よりも感情に基づいた主張である。
「悪の問題」による無神論とは、「1.天主が存在する、かつ、天主はすべての悪の発生を阻止する、と仮定する。2.しかるに、世界には悪が存在する。3.ゆえに、天主は存在しない。」という理屈だが、これは明らかにおかしい。1.と2.から導かれる結論は、正しくは「天主は存在しない、または、天主は必ずしもすべての悪の発生を阻止しない。」である。
いみじくも聖アウグスティヌスが「天主は悪からより大いなる善を引き出すほどに全能である」と述べている通り、天主は善を増すために試練の存在を認めているのである。
注3 試練の意義
「神は彼らを試練にあわせ、ご自分にふさわしいものとされ、炉に入れる黄金のように試されてから、完全ないけにえのように、神に受け入れられた」(知恵3・5)
「神は忠実であるから力以上の試みには会わせたまわない。あなたたちが試みに耐えそれに打ち克つ方法をも、ともに供えたもうであろう」(1コリント10・13)
「私たちは、苦しみを堪え忍んだ者を幸いな者と呼んでいる」(ヤコボ5・11)
注4 聖水
司祭が塩を入れ聖別した水。準秘跡sacramentalia(秘跡sacramentumと違い間接的に、つまりそれを用いて信心を深めることにより天主の恩寵を受ける)の一つ。聖堂の入口に聖水盤を置き信徒が聖堂へ入る際に使うほか、種々の儀式や祝別などの際に用いられる。
注5 善い書物
原本では「よききやう(良き経)」。本書における「よし」の語の用例からは、「聖経」(つまり聖書)と直訳することもできるが、ここでは聖人伝や信心書など、キリスト者の生活のありようを教える書物を意味している。
『サントスの御作業』つまり聖人伝、そして『こんてむつす・むんぢ』、『ぎや・ど・ぺかどる』などの信心書が、当時の長崎において出版されていた。
|