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もう1ヶ月以上前のものだが見過ごせない記事に行き当たってしまった。
札幌教区カテドラル(北一条教会)ホームページの2014年4月17日付エントリである。
http://katedorarujp.blogspot.jp/2014/04/blog-post_17.html
【以下引用】
・・・今夜の司教様のお説教の一部をご紹介します。
『第2バチカン公会議以降、聖体をひざまずいて口で受けることは公には勧められていませんが、過去の習慣などによる個人的な理由で、ひざまずいて口で受けたいと希望する信者の方もいます。聖体の秘跡の意味は、共同体の交わりと一致を表すものなので、本来なら他の信徒に合わせ、同じように立って手で受けるということが基本になると考えられます。
しかしこの例のように共同体の在り方ということに関して、外面的な側面ばかりでなく、内面的・本質的なことも同時に考えていく必要があります。たとえ聖体拝領などの所作が一見、外面的には一致しているように見えていたにせよ、内面的に周囲から受け入れられていないと感じている人がいるならば、それは本来の意味での一致とは言えません・・・
【引用終り】
ここには事実に反しているだけでなく、信者の心を傷つける言明が含まれている。
記事の執筆者が司教様の話を聞きまちがえた、あるいは筆が滑っただけと信じたいが、もしも本当にそのような発言があったとすれば大問題だ。いずれにせよ、早急に訂正し、教区民の誤解を解く必要がある。
ひざまずき口で受けるのが正式かつ教会の望み
記事によれば、勝谷司教は「第2バチカン公会議以降、ひざまずいて口で聖体拝領することは公には勧められていません」と述べている。しかし、端的に言ってそれは事実ではない。
確かに日本をはじめ多くの国で、立ったまま手で受ける者が多数派になっている。しかし、全世界共通の公式の拝領方法は「ひざまずいて口で受ける」というものである。
『ローマ・ミサ典礼書の総則』に、信者は「口で、あるいは許可されている場合は手で秘跡を受ける」とあるとおり、手で受けるのは使徒座が個別に許可する例外的な方式に過ぎない。
「ひざまずき口で受ける」のと「立ったまま手で受ける」のとでは、どちらがより適切かといえば、もちろん前者である。
ひざまずきが礼拝を表し、キリストの代理者である司祭から直接口に受けることで謙遜と神への信頼が示されているのに対し、後者は敬意の表現として劣り、落とす危険もあるという点で、前者に比べれば不完全な拝領方法であるといえよう(秘跡の効果ではなく拝領方法の話である、念のため)。
そのため、立ったまま受ける場合には拝領の前に別途ふさわしい尊敬を表すべきとされているし、たとえ許可があっても汚聖の可能性がある場合には手に授けることは禁じられるなど、ひざまずいて口で受ける場合とは異なり様々な制限・安全策が課せられている。
教会は寛大にも、そのような方法で信者が拝領することも(場合によって)「許可」してはいるものの、本来的にどちらが望ましいかは言うまでもない。
当ブログでも紹介しているとおり、教皇様も、全ての信者がひざまずいて口で受けるようになることを望んでおられるのである。
http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/54901804.html
したがって、繰り返しになるが「ひざまずき口で受けることが公には勧められていない」などというのは間違いであり、むしろ「立ったまま手で受けることが一般に広まっていますが、教会はひざまずいて口で受けることを勧めています」と言うべきであろう。
ひざまずき口で受けることを望むのは主を愛するから
勝谷司教によれば、一部の信者がひざまずいて口で受ける聖体拝領を望むのは、「過去の習慣などによる個人的な理由」なのだそうだ。いささか無茶な決めつけではないだろうか?
ひざまずき口で受けることを望むのは、主イエズスを愛しているからに他ならない。
愛する主に最大限の礼拝と讚美を尽くしたいのである。聖書にも、「すべてのものはイエズスのみ名においてひざをかがめ」とあるとおりだ。
司教様の目には、それが「習慣を変えたがらない怠惰な人間」に映るのだろうか。
「個人的な」理由というのもおかしな話だ。
上で見たとおり、ひざまずいて口で受けるのが教会の「公的な」拝領方法である。
典礼秘跡省の指針『あがないの秘跡』は、「おのおのの信者は、聖体を口で受ける権利をつねに持っている」と明記している。何らかの理由で(わざわざ許可を得てまで)立ったまま手で拝領することこそ、個人的な趣味嗜好によるものと言うべきである。
根拠なく多数派への同調を強要するのは「数の暴力」だ
上記記事を読む限り、勝谷司教は、聖体は共同体の一致を表すので「本来なら他の信徒に合わせ、同じように立って手で受けるということが基本になる」と考えておいでのようだ。
良心よりも多数派に従え、とは何というストレートな全体主義(笑) 正平協が黙っていないのではあるまいか。
冗談はさておき、司教様は『ローマ・ミサ典礼書の総則』の「すべての参加者が共通の姿勢を守ることは、典礼のために集まったキリスト者共同体の成員の一致のしるしである」という文言を念頭に置いてらしたのだろう。
しかし、上記の規定はミサの祭儀中に全員が一斉に行う公的な祈祷について言及したものであり、拝領時の個人個人の姿勢を定めたものではない。
事実、同じ『総則』が、「ひざまずいてまたは立って」「口でまたは許可があれば手で」と複数の選択肢を用意しているのであるから、「他の信徒に合わせて同じようにするのが基本」というのは無理がある。
先ほども引用したとおり、「信者は口で受ける権利をつねに持っている」のである。
全信者につねに認められた権利を、たまたまある場所で「少数派だから」という理由で制限するのは、真理にも愛にも背くことではあるまいか。
善意の発言ではあるが、事実誤認であり、マイノリティ差別につながる恐れも
なお、上述の記事を最後まで読むと、勝谷司教は「ひざまずいて口で受ける人を『変わった人』と決めつけず、許して受け入れるのでなければ、共同体の真の一致はない」という意味合いのことを仰っていて、全体としては、教区民に愛徳と寛容を求める趣旨の、善意からのお説教だったものと推察される。
しかしながら、これまで見てきたとおり、ひざまずいて口で拝領するのは教会の規定に沿った正しい行為であり、他人に「許して」もらう筋合いなどない。
誰かが無実の罪を着せられてリンチされている時に、「彼は悪人だけど、暴力は良くないよ」と言うのが正義だろうか? 被害者に濡れ衣を着せているという点では同じではないだろうか?
不当な同調圧力に屈しない少数者について、その正当性を擁護するどころか、事実に反して「多数派の方が正しい」と言ってしまうのでは、たとえ「差別は良くないけれど」と言い足していても、現実問題として少数者差別を助長しかねない。
正義と真理との光明なるイエズス・キリストを信じる者の一人として、特にその発言が比類なき権威を帯びる司教様の説教という重大さを鑑み、僭越ながら記事の速やかな訂正をお願いするものである。■
なお、誤解のないように言い添えておくが、筆者には立ったまま手で拝領することを望む信者を非難する意図は一切ない。個人の感じ方や好みは様々であるから、教会の許可が出ている限りそれを責めるのはお門違いであろう。
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