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プロテスタント教徒による通俗的なカトリック批判として、「カトリックは信仰ではなく善業によって救われるとしており、外面的な慈善や信心業に精を出す偽善者である」というものがある。もう耳にタコである。
救済は神の恩寵によるもの
残念ながら、「義とされる根底が信仰であること」「救いが恩寵のみによること」なぞカトリックにとっては当たり前で、教えてもらうまでもない。
むしろ我々カトリックからすれば救済は徹底して恩寵によるものなので、何かしら信仰という人間側の営為に依存するかのように説くルターこそ、ペラギウス的な自力救済説に近づいているように感じられるのである。
信仰とは「啓示された真理を神の助けによって承認すること」であるが、この信仰が救いの基礎とされる。なぜなら「信仰がなければ神を喜ばせることはできない」(ヘブレオ11・6)からである。
しかして救いは「神の恩寵のみによって無償で」(ローマ3・24)与えられる。というのも、人間側のいかなるものも救霊の恵みには値せず、信仰自体も恩寵によるものだからである。エフェゾ2章にも、救いは信仰ではなく恩寵によると繰り返し言明されている。
救済と善業の関係
では、救いに善業は不要か。ここからが異端と正統との分かれ目になりそうである。
プロテスタント教徒は、もちろん善業を禁ずるわけではないが、「不要なり」と答えるのであろう。一方カトリックは善業によって救われると説くのではなく、恩寵によって義化されたからには善を行うべきだと説くのである。
実に主キリスト御自身が「命を受けたいのなら掟を守れ」(マテオ19・17)と愛徳の業を命じておられる。使徒聖パウロも、「まだ時のある間に、人々に善を行え」(ガラツィア6・10)と記している。
なぜなら「義人はまた義を行い」(黙示録22・11)、「日々に新たになる」(2コリント4・16)べきであり、「行いによって完全にされた信仰」(ヤコボ2・22)即ち「愛によって働く信仰だけに価値がある」(ガラツィア5・6)からである。
善業を信仰生活に無関係とするプロテスタント的理解と、恩寵を受けた者は愛徳の実践で信仰を完成させるべきだというカトリック的理解と、どちらが理に適い、また聖書の記述にも合致しているか明らかであろう。
人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるものではありません。
息をしない体が死んだものであるのと同じように、行いの伴わない信仰もまた死んだものです。
(ヤコボ2・24, 26)
プロテスタントはどこで間違ったのか
プロテスタンティズムは「聖書のみ」「信仰のみ」「恩寵のみ」を絶対的な至上命題としている。
これらのうち「信仰のみ」「恩寵のみ」は、正しく解釈する限りは、正統キリスト教信仰に反するものではない。ルターはただこれらの理解が不正確であったために、破滅の淵へ堕ちていったのである。
ただし「聖書のみ」に関しては、これは支離滅裂で明白な誤謬である。いかなる意味においてもキリスト教徒がこの命題を受け入れることは不可能であると言わねばならない。この件については別稿で論じることとしたい。■
Keywords: 善行 宗教改革 信仰義認 免罪符
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