|
「これを取って食べなさい」
この言葉は、今から2000年近く前の聖木曜日、主が聖体の秘跡を制定される際におっしゃったものです。ミサの中で司祭がホスチアを全質変化させる時の言葉の中にも入っています。
さて、この「取って」という言葉を根拠にして、信徒が手で受ける聖体拝領を弁護しようとする人がいるそうです。けれども、そのように解釈することができるでしょうか?
今回は、誤解の多い「これを取って食べなさい」という言葉について考えてみましょう。
「取る」とはどういう意味の言葉か
ここで「取る」と訳されている箇所は、聖書の原文(ギリシャ語)では、「持ち上げる」という意味の単語が使われているそうです。
「持ち上げる」とはどういう意味でしょうか。これは明らかに「奉挙」すなわち「神に向かってささげ持つ」ということを意味しています。
犠牲であるキリストを神にささげることは、「司祭の手を通して」行なわれますね。
ですからここは、信徒の拝領の手順を示しているのではなく、聖体の秘跡の手順を示しているということになります。聖体制定の場面なのですから、文脈からもそう読むのが自然です。
誰に対して語られた言葉か
語句の意味を離れて、聖書の流れからも見てみましょう。最後の晩餐には、主のほかに12人の使徒だけしかいませんでした。つまり、主の言葉は、使徒たちに向けられたものだということです。
さて、「使徒」は「司教」を意味しているということは、カトリックの重要な信仰箇条ですからご存知ですね。つまり、ここでの主の言葉を、信徒全員に向けたものだと解釈することは困難なのです。
聖職者と一般信徒を区別することは、差別ではありません。
この区別は、人間的な価値によるものではなく、神の自由な選びによる、仕事の分担を示すものです。主はご自分が選んだ特定の弟子たちにだけ、聖体の秘跡を執り行ない、神に犠牲をささげる役目をお与えになりました。
使徒聖パウロは言います、「皆が使徒であろうか」と。
キリストの体を手にとって神にささげる使命は、すべての人に与えられているわけではありません。神によって召し出され、その目的のために手に油を塗られた聖職者だけが、その務めを果たすのです。
どのような意図で語られた言葉か
「取って食べなさい」がすべての信徒に対してではなく、使徒に対して語られた言葉であることは、聖書本文からも簡単に理解できます。
キリストは聖体の秘跡を制定し、「これをわたしの記念として行ないなさい」と言われます。この言葉によって、司祭が罪のあがないの犠牲を世々にいたるまでささげ続けることが命じられたのです。
もしもこの場面の主の言葉が、すべての信徒に向かって言われたものだとしたら、どうでしょう? すべての信徒がミサを司式し、聖体の秘跡を執行するべきである、ということになってしまいます! それはどう考えてもおかしいですね。
「取って」だけではありません。「食べなさい」も信徒に向けて命じられたものではないのです。
ミサの規則でも、信徒が拝領することは必ずしも必須ではありません。仮に参列した信徒が誰も聖体拝領しなくてもよいのです。しかし、司式司祭は必ず拝領しなければならない、と定められています。
教会の基本ルールは口で受ける拝領
このように、「これを取って食べなさい」という言葉をもとにして、信徒が手で受ける聖体拝領を正当化することはできません。
もちろん、だからといって手で受ける拝領が絶対に禁じられている、ということではありません。全世界共通のルールは聖体を口で受けることですが、日本の信徒が手で受けることには教皇庁の許可が与えられています。
ただ、その際に教皇さまは「教会の望みは、手ではなく口で受けることです」とおっしゃった、ということを付け加えておきましょう。■
|