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教皇(ローマ法王)フランシスコが2013年に登位してから約4年が経過した。
初のアメリカ大陸(アルゼンチン)出身者、初のイエズス会士、初の「フランシスコ」という教皇名、と初物づくしの教皇であり、庶民派との触れ込みも相まって、当初はキリスト教世界に変革をもたらすのではと大いに期待を集めた。
それが今では、彼の言動が報じられるたびに、「またかよ…いい加減にしてくれよ」「いつまでこの状況を我慢しなければならないんだ」と半ば諦めに近い怒りのコメントがネットに溢れる事態となっている。
日本の報道機関が教皇を取り上げることは少なく、また教会の御用メディアだけを追っていては気づかないだろうが、海外のカトリック信者の教皇フランシスコに対する視線は極めて辛辣なものである。
過去40年で最も嫌われる教皇
教皇が、(聖職者や御用メディアが賞賛するのと対照的に)一般信徒からこれほど不人気なのは、ここ数十年では異例と言える。
1978年に登位したヨハネ・パウロ2世はカリスマ的な人気を誇った。続く前教皇ベネディクト16世は、その正統的な姿勢が反教会的な世俗メディアからは憎まれ異様な程のバッシングを受けたが、彼のチャーミングな人柄を知るカトリック信者たちは、このドイツ人の大学者を敬愛して止まなかった(教皇登位前から世界規模のファンクラブのあった枢機卿は彼くらいだろう)。
それにひきかえ現教皇フランシスコは、どうしてこれ程までに信者たちをウンザリさせているのだろうか。
フランシスコが登位した時にカトリック教会が抱えていた喫緊の課題が、バチカンの裏側にうごめく不透明な資金の解明であった。彼は教皇庁官僚上がりではないため、既得権層にも切り込んでいけるものと期待された。
しかし実際は、新部局を作ったものの結局は権限を取り上げてしまうなど迷走が続き、ようやく外部機関の会計監査を受けると決めても監査が入る直前にドタキャンするなど、赤恥をさらす出来事が続いている。世界中が失望したのも無理はない。
バチカン官僚も頭を抱える失言大魔王
とはいえ教皇フランシスコの人気凋落の主因は別にある、と筆者は考える。
爆弾発言で教会を混乱させ無用の対立を煽る、という彼の芸風がもはや耐え難いレベルになってきているのだ。
世界10数億人を抱えるキリスト教会の最高責任者として発言に慎重を期した前任者と違い、フランシスコは肩肘張らない気楽なコミュニケーションスタイルを好む男(、というのがウリだ)。
非公式な場で記者たちにベラベラと(一介の神父が同じことを言えば譴責されそうなことさえ)話し、それが世界に報道されて波紋を呼ぶやバチカン報道官が「教皇聖下は教義を否認したのではない」「聖下の意図は別にあった」と火消しに走る、というのがお決まりのパターンである。
これは単なるドタバタコメディではすまされない。
というのもフランシスコの「非公式発言」が、教会のプロテスタント化や世俗的価値観への迎合を狙う一部の司教たちを増長させており、世界のあちこちで大っぴらに正統教説に逆らう動きが顕在化しているからだ。当然、正統的な司教たちはそれを批判せざるを得ない。
こうしてカトリック教会内に深刻な亀裂が生じている。
一般信徒にしてみれば、異端的な聖職者と世俗のメディア関係者を喜ばせるだけの「非公式」インタビューはもう受けないでくれ、という思いだ(それはバチカン官僚も同じだろう)。
解決済みの問題を蒸し返す教皇
フランシスコの問題発言には、神の啓示(人間が変えることはできない)や、教会が既に権威をもって判断を下している事案に対して、疑問を投げかけるタイプのものがある。
これはあたかも裁判官が、憲法の規定や最高裁で確定した判決を無視するような異常な状況だ。
最近話題になったものだけでも、次のような「事件」があった。
「女性助祭」再検討?
2016年5月に修道女たちを謁見した際の質疑応答で、教皇フランシスコは「女性が助祭になれるかどうかを検討する委員会を設立したい」と発言した。助祭とは司祭の前段階の聖職位階であり、女性助祭を検討するということは将来的に女性の司祭叙階を認めようという意図があるのではと大騒ぎになった。
正統キリスト教では、聖職に叙階されるのは男性に限られている。これは、キリストには男女多くの弟子がいたが使徒に任じられたのが男性だけだった事実に由来する。教皇ヨハネ・パウロ2世も1994年の使徒的書簡『Ordinatio Sacerdotalis』で、女性を聖職叙階することはできないと再確認している。
結局、新設された委員会では「女性の助祭叙階の可能性を再検討」ではなく、新約聖書に記録されている「女性執事diaconissa」(執事と助祭は同じ単語diaconusに由来する)の当時の役割を研究する、ということに落ち着いた(古代教会では慈善事業等に従事する役割の女性を「女性執事」と呼んでいたが、聖職位階としての助祭職とは直接つながるものではない)。
「同性婚」容認?
教皇フランシスコはたびたび不用意な言葉遣いで同性愛に言及し、メディアが「カトリックが同性愛や同性婚を容認するのでは?」と誤報する事態を招いている。
言うまでもないが、正統キリスト教で同性婚や同性愛行為が容認されることは、未来永劫絶対にない。旧約聖書でも新約聖書でも、同性愛行為は神と自然に背く重大な罪だと明記されている。
ただし、誤解してはいけないのは、教会は「同性愛的傾向を持つ人」を罪人として断罪しているのではない、ということだ。人は誰しも罪への傾きを持っている。私たちは金銭欲が強く他人の金を自分のものにしたいと思ったり、心が狭く他人の悪口を言いたいと思ったりする。それらの思いは試練ではあるが、実行に移さない限り「罪」ではない。
一連のフランシスコ発言も、根本的には従来のカトリック教会の教えと同じく「罪を憎んで人を憎まず」、同性愛行為は悪であるが同性愛的傾向という困難を抱えている人を差別してはならない、という意図と受け取るのが正解のようだ。
離婚・再婚した人も聖体拝領?
キリストは「神が合わせたものを、人間が離してはならない」「妻を離縁して他の女を娶る者は、姦淫の罪を犯すことになる」と仰せになった。有効な婚姻を放棄して別の相手と「再婚」しているということは、実際には本当の配偶者以外の異性と野合同棲している、罪の状態ということである。
聖書には「ふさわしくない状態で『主のパン』を食べたり、『主の杯』を飲む人があれば、主の体と血に対して罪を犯した者となる」という言葉があり、罪の状態で聖体を拝領することは許されない。離婚して教会外で再婚しているカップルも、(ミサへの参列は勧められるが)聖体拝領は認められない。
ところが、ドイツを中心にこの教会の伝統に批判的な高位聖職者のグループが存在し、その首領Kasper枢機卿が2014年、「離婚・再婚した人にも聖体拝領を認めよう」と提唱したことで世界的な大論争が沸き起こった。2014年と2015年の2回にわたり家族問題に関する司教会議(シノドス)が開催され、それを受けて教皇フランシスコによる使徒的勧告『Amoris Lætitia』が渙発されたが、その内容たるや、読み方によっては再婚者の聖体拝領を認めるとも取れるものだったため、論争はかえって大きくなる始末である。
実のところ、この問題は教皇ヨハネ・パウロ2世の使徒的勧告『Familiaris Consortio』(1981年)で「再婚者が互いに兄弟姉妹のように暮らす」という条件に限って拝領を認めるという結論が出ている。教理省も1994年にそれを再確認しており、今さら感が拭えない。
それにも関わらず『Amoris Lætitia』であえて曖昧な言葉遣いをして非正統的な実践を黙認するかのような教皇フランシスコに批判が集まった。さらにフランシスコが母国アルゼンチンの司教に、「(再婚者に聖体拝領を認める)あなたたちの解釈は間違っていないと思う」と内密にメッセージを送っていたことが発覚し、問題は収束する気配を見せていない。
ベルゴリオ神父は教皇の器ではなかったのか
教皇フランシスコは人格的に難がある、という指摘も数多くなされている。好々爺然とした外見とは裏腹に、自己愛的で世間の注目を浴びることにこだわる一方、「自分と考え方が違う」と感じた相手に対しては容赦のない攻撃を加える性質があるのだ。
前述の『Amoris Lætitia』の曖昧な記述のせいで、論争が終息するどころか加熱していることに業を煮やして、4人の枢機卿が2016年9月に質問状を教皇に送付し、再婚者の聖体拝領について明確な説明を求めた。ところが教皇は2か月以上たった今でも、完全無視を決め込んでいることが明らかになったのだ。
社会通念上も、公的な書状を黙殺するのは礼儀に反する。まして、世界十数億のカトリック信者の救いに関することについて、非公式な示唆を続けるだけで公式の回答を避けるというのは、「地上におけるキリストの代理者」としての責任感を疑われても仕方ないだろう。
フランシスコのお気に入りのテーマは、異教徒や疎外された人々への愛と寛容だ。一方で正統的なカトリック信者に対しては嫌悪感を隠さない。キリストの福音(喜ばしい知らせ)を人々と分かち合おうとする信者は「改宗至上主義proselytism」、教会の教えに忠実であろうとする信者は「律法主義」と罵倒し、「精神的に問題を抱えている」とまで言い放つ。
彼の持つ二つの顔のあまりの落差には多くの人が衝撃を受けている。
2016年11月に報じられたインタビューでは、フランシスコは「人々の話に耳を傾けることは、福音を宣べ伝えるために不可欠なことだ」と語った。
しかしその舌の根も乾かぬうちに、「若い人々が、それまで与ったこともない伝統的なラテン語ミサに惹かれるのは理解できない」と発言したのである。「どうしてあれほど頑ななんだ? 掘れ、掘れ、あの頑なさには絶対、危険な何かが隠れているぞ」。若者の話に耳を傾ける気はないらしい…。
人の意図を悪く推量することを邪推と呼ぶ。キリスト者の愛徳に反することは言うまでもない。
それでも我々はパパ様を敬愛し、彼のために祈っている
これまで教皇フランシスコのネガティブな面を論じてきたので、筆者や他のカトリック信者が彼を教皇と認めていないのでは、とか、軽んじているのではないか、と思われた向きもあるかもしれない。それはまったくの誤解である。
私としては、確かに現教皇のことを前教皇ベネディクト16世ほどには愛せないかもしれない。だが、もしも教皇フランシスコに拝謁する栄誉があれば、最大限の敬意を示すことに何らの躊躇もない。
歴史を振り返れば、邪悪な教皇も多くいたことが分かる。稀代の毒殺者として知られた者もいる。だからといって、カトリック信者の教皇に対する敬意が失われることはない。我々は一人の男が教皇にふさわしい徳性を持つから敬愛するのではない(それは人間崇拝である)。聖霊が自由に与え給う職位に対して敬意を払い、ひざまずくのである。
我々カトリックは日々、教皇のためにも祈る。
通常形式のミサで会衆が教皇のために祈るのを聞くことはほとんどないが、伝統的ラテン語ミサ(特別形式ミサ)の折には毎回、「教皇のためにする祈」が唱えられている。ネットを見ても、フランシスコの不適切な言動が報じられるたびに「聖下のための祈りを倍加しよう」と伝統主義的な信者が互いに呼びかけ合っているのが観察される。
皮肉なことだが、教皇フランシスコが毛嫌いする正統派信者こそが最も彼のために祈っているのかもしれない。
Oremus pro Pontifice nostro Francisco! ■
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