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日本の司教団は、「2015年11月末から、日本のミサでの姿勢は『立つ』と『座る』だけになりました」としきりにアナウンスしている。
キリスト教において「跪く」ことは単なる敬意にとどまらない礼拝の表現である(特定の地域の慣習ではなくキリスト教固有の表現)。跪きをミサから排除しようとするのは、ミサからキリスト教的なるもの、カトリック的なるものを失わせようとする企てにほかならない。
なお、当ブログで何度か書いているように、跪くことが「禁止」されたわけではないし、前教皇ベネディクト16世は「もはやひざまずくことを知らないような信仰、あるいは典礼は、その核心において病んでいるのでしょう。ひざまずくことが失われたところでは、再び学ばなければなりません。」とまで述べておられる(『典礼の精神』)。
(参考記事)
【新しいミサ総則】ひざまずいても問題ない http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/64728972.html
それでも僕らはひざまずく http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/64933872.html
それはともかく、私が強烈に違和感を覚えるのは、「ミサに与る会衆の姿勢を規定する」という試みそのものだ。
本来のミサは会衆の姿勢にこだわらない
カトリック教会の伝統的なミサ(いわゆる特別形式ミサ)は一般に、何度も立ったり跪いたりお辞儀をしたりと、細かい規則が多いと思われている。
しかしながら実のところ、厳密に動作が定められているのはミサを執行する司祭(とそれを補佐する侍者)に対してであって、会衆に関しては必ずしも当てはまらない。
この事実を捉えて「昔のミサでは司祭が主役で、会衆は傍観者にすぎなかった」と言う者がいるが、的外れもはなはだしい。
ミサをささげる(犠牲奉献する)主体は会衆である(司祭自身もその一員である)。
さて神的な犠牲はそれにふさわしい道具と手順で取り扱われなければならない。薬を容れる器が滅菌されねばならないのと同様、神的なものを扱う器具は聖別(世俗の用途から切り離すこと)されねばならない。
つまり司祭は、会衆(および司祭自身)が犠牲をささげるための「道具」という位置づけであり、神的なものを直接手で触れるがゆえに厳密な司式手順が定められているのだ。
一方会衆は、犠牲をささげる主体として自覚的に「ミサを祈る」べきなのであって、それをどのような姿勢で行うかということは本質的な問題ではないのである。
ミサと犠牲と司祭と会衆
このことはミサの式文からも了解される。
序唱前、司祭は(有限なる人間である以上、神的犠牲を扱うのにまったくふさわしい存在とはなり得ないため)謙遜の心をもって会衆に呼びかけ、祈りと助力を請う。
Orate, fratres: ut meum ac vestrum sacrificium acceptabile fiat apud Deum Patrem omnipotentem.
祈れ、兄弟たちよ、我と汝らのいけにえが全能の父なる天主に受け入れられるものとなるように。(下線引用者)
それに対する応答は次のとおり。
Suscipiat Dominus sacrificium de manibus tuis, ad laudem et gloriam nominis sui, ad utilitatem quoque nostram, totiusque Ecclesiae suae sanctae.
主が、御名の誉れと光栄とのため、我らの益と主の聖なる全教会のために、汝の手からいけにえを受け給わんことを。(下線引用者)
ここでは、ミサのいけにえが「会衆と司祭自身」によってささげられるものであること、そして司祭が犠牲を神に奉献する際の器、道具であることが明らかに示されている。
規制をかける相手が逆ではないのか
以上みてきたように、本来のミサでは、犠牲をささげる主体である会衆は比較的自由であるのに対し、司祭は犠牲に直接接触する「道具」でもあるため厳密なルール、条件が課せられている。
一方、今の日本のカトリック教会を見ていると、司祭は自由気ままに式文を改変しアドリブを入れている(教皇庁は繰り返しこの風潮に警告を発しているが)一方、会衆に対しては画一的な姿勢を強制しようとしているわけだ。
はてさて、理にかなっているのは一体どちらだろうか?
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