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典礼秘跡省の長官、Sarah枢機卿が「今年の待降節よりすべてのミサを東面式 ad orientem にする」と発表し、世界中の良識あるカトリック信者から歓呼の声が上がっていましたが、バチカンは11日夕(現地時間)、「枢機卿の発言は誤解された」「ミサの方式について新たな指針を示すものではない」との声明を出しました。

http://www.news.va/en/news/lombardi-clarifies-comments-on-liturgy-by-cardinal


当ブログでも該当箇所を載せましたが、猊下は明確に「できるだけ早く、司祭と会衆が同じ方を向くやり方に戻すことがとても重要」と述べ、「すべての司祭」さらには「すべての司教」に対し、東面式を実行に移すよう呼びかけています。誤解もハチの頭もなさそうですが・・・。

どうやら猊下、梯子を外されたというか背後の友軍から撃たれたような格好です。
それにしても、仮にもSarah枢機卿はカトリック教会の典礼を主管する最高責任者。その発言ですら打ち消されてしまうとは、バチカンの闇はまだまだ深そうです。


天主の聖殿に悪魔の妖気が入り込んだ ――教皇パウロ6世、第2バチカン公会議後の教会を慨嘆して


私はすべての司祭に向かって訴えたい。
一年前(2015年6月12日)の『オッセルバトーレ・ロマーノ』に寄せた私の記事や、今年5月の雑誌『ファミーユ・クレチエンヌ』のインタビューをお読みになったでしょうか。そのどちらでも私は、「できる限り早期に、司祭と会衆とが同じ方向を向く従来のやり方に戻ることが非常に重要だ」、と述べました。
典礼の中で神に向かって呼びかけるときには、司祭と会衆が同じ方向――東の方角あるいは後陣――つまり来臨される主の方向を揃って向くべきなのです。

この東面式は、現行の典礼法規でも認められています。新しいミサでも完全に適法です。
東面式への回帰は実に、私たちの祭儀において真に主がその中心におられることを示すための、非常に重要なステップだと私は考えています。



ですから司祭のみなさん、どこであっても東面式でミサを行うようお願いします。

もちろん、実行に移すに当たっては慎重さと、また相応のカテケージスが必要でしょう。それだけでなく、司牧者は、これが教会にとって善である、我々に委ねられた人々にとって善である、という信念を持たなければなりません。

いつ、どのように東面式に移行するかは、司牧的な判断によるところではありますが、今年の待降節第一主日、「来臨の主」、「遅滞なき御方」と称える時節(参考:待降節第一週の水曜日のミサ入祭文)からとするのが非常に良いタイミングです。

司祭のみなさん、私たちは、預言者エレミアが伝える天主様の嘆きに再び耳を傾けなければなりません。「彼らはわたしに背を向けた」(エレミア2:27)。
さあ、再び主に向き直りましょう!



私の兄弟たる司教たちにも呼びかけたい。
あなたの司祭と人々を、特にご自分の教区の大きな祝日やカテドラルにおいて、東面式によって主の方へと導いてあげてください。
神学生たちには、我々は典礼の中心となるためではなく、ともに礼拝する者としてキリスト者を主へと導くために司祭職へと呼ばれているのだ、という事実を教えてください。

司祭と会衆とがともに同じ方向を向く、という単純だが深い意義のあるこの改革を、あなたの教区、カテドラル、小教区そして神学校において推進してくださるようお願いします。


(2016年7月5日、ロンドンにて、典礼秘跡省長官Sarah枢機卿)



出典:
http://www.catholicworldreport.com/Blog/4902/cardinal_robert_sarahs_address_towards_an_authentic_implementation_of_sacrosanctum_concilium.aspx


2016年11月27日の待降節第一主日より、世界中のすべてのミサは「東面式 ad orientem」でささげられるべし、と典礼秘跡省の長官Sarah枢機卿が発表しました。



今から50年ほど前に作られた新しいミサでは、司祭と会衆とが祭壇を挟んで向き合う「対面式 versus populum」が当たり前のようになっていますが、実はこれは第2バチカン公会議とは何の関係もありません。公会議後の典礼破壊運動のどさくさに紛れて広まった不適切な習慣なのです。


Sarah枢機卿は2015年6月や2016年5月にも「すべての司祭に東面式 ad orientem のミサを推奨する」と述べておられます。当ブログでもその都度、取り上げて来ました。

 枢機卿が痛烈批判! 「対面式ミサは公会議の精神に反している」
 http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/64683474.html

 【速報】典礼秘跡省長官、東面式ミサを要請
 http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/65183034.html


今回Sarah枢機卿は、司祭と会衆が向き合う「対面式 versus populum」は神ではなく司祭が儀式の中心になっている、と改めて批判しておられます。
そして「今年の待降節第一主日」と具体的な開始日の例を挙げた上で、「できる限り早く、司祭と会衆とが同じ方向を向くようにすることが非常に重要」と述べられました。
わたしたちは神に背を向けてしまったのです。主の方に向き直りましょう!」と。


ミサはどう変わるのか


現行のミサが東面式になると、司祭は祭壇の裏側ではなく手前に立つことになります。
そして、会衆に対して「主はみなさんとともに」と呼びかける際には、振り返って挨拶する(伝統的には時計回りに会衆を向き、反時計回りで祭壇に向きなおる)ことになるでしょう。

第2公会議以前に建てられた教会では、祭壇(しばしば美しく装飾されている)は内陣奥の壁に固定されています。しかしそれでは「対面式 versus populum」ができないということで、貧相な「食卓」が手前に設置され、ミサはそちらで行われているというケースが多々あります。
対面式ミサが廃止されることにより、テーブル型祭壇は撤去して従来の美しい祭壇を再び利用することになります。

聖堂の中に、カトリック教会らしい荘厳さが戻ってくるのではないでしょうか。
楽しみですね。Deo gratias!■


Sarah枢機卿の発言原文はこちら:
http://www.catholicworldreport.com/Blog/4902/cardinal_robert_sarahs_address_towards_an_authentic_implementation_of_sacrosanctum_concilium.aspx


典礼秘跡省の長官Sarah枢機卿が、ミサでは司祭は会衆の方を向くのではなく、会衆とともに東(=祭壇)を向く(ad orientem)べきだと述べられました。

http://www.catholicherald.co.uk/news/2016/05/26/vatican-liturgy-chief-urges-priests-to-celebrate-mass-facing-east/


ミサは本来、司祭と会衆が同じ方向(神)に向かい、ともに神に犠牲をささげるものです。

ところが第2バチカン公会議の後に吹き荒れた典礼破壊運動の中で、どういうわけか司祭と会衆が向き合って互いに言葉を掛け合う形式が一般的になっています。
ミサが犠牲であることを否定し、ホスト(司祭)と来客(会衆)の食事会にしてしまおうとする異端思想の影響が指摘されています。


Sarah枢機卿は、司祭と会衆が向き合う形式(対面式)は第2バチカン公会議の教父たちが意図したものではなく、ミサのとりわけ奉献の部では、司祭は会衆とともに東を向かなければならない、と強く求めておられます。

枢機卿は、すべての司祭は特別な許可を得る必要はなく自由に、会衆とともに神の方を向いてミサを挙行することができる、とも確言しておられます。
(司祭が東面式ミサを行うことを、司教が禁止することはできないという意味です)


日本でも、本来のあり方に近い東面式ミサがささげられるようになるとよいですね。
神聖さに対する感覚と、信念と勇気のある司祭が日本にもおられることを願ってやみません。■


あわせてお読みください:

枢機卿が痛烈批判! 「対面式ミサは公会議の精神に反している」
http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/64683474.html

ミサの姿勢は自由だ


日本の司教団は、「2015年11月末から、日本のミサでの姿勢は『立つ』と『座る』だけになりました」としきりにアナウンスしている。

キリスト教において「跪く」ことは単なる敬意にとどまらない礼拝の表現である(特定の地域の慣習ではなくキリスト教固有の表現)。跪きをミサから排除しようとするのは、ミサからキリスト教的なるもの、カトリック的なるものを失わせようとする企てにほかならない

なお、当ブログで何度か書いているように、跪くことが「禁止」されたわけではないし、前教皇ベネディクト16世は「もはやひざまずくことを知らないような信仰、あるいは典礼は、その核心において病んでいるのでしょう。ひざまずくことが失われたところでは、再び学ばなければなりません。」とまで述べておられる(『典礼の精神』)。

(参考記事)
【新しいミサ総則】ひざまずいても問題ない http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/64728972.html
それでも僕らはひざまずく http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/64933872.html


それはともかく、私が強烈に違和感を覚えるのは、「ミサに与る会衆の姿勢を規定する」という試みそのものだ。


本来のミサは会衆の姿勢にこだわらない


カトリック教会の伝統的なミサ(いわゆる特別形式ミサ)は一般に、何度も立ったり跪いたりお辞儀をしたりと、細かい規則が多いと思われている。
しかしながら実のところ、厳密に動作が定められているのはミサを執行する司祭(とそれを補佐する侍者)に対してであって、会衆に関しては必ずしも当てはまらない。


この事実を捉えて「昔のミサでは司祭が主役で、会衆は傍観者にすぎなかった」と言う者がいるが、的外れもはなはだしい。

ミサをささげる(犠牲奉献する)主体は会衆である(司祭自身もその一員である)。
さて神的な犠牲はそれにふさわしい道具と手順で取り扱われなければならない。薬を容れる器が滅菌されねばならないのと同様、神的なものを扱う器具は聖別(世俗の用途から切り離すこと)されねばならない。
つまり司祭は、会衆(および司祭自身)が犠牲をささげるための「道具」という位置づけであり、神的なものを直接手で触れるがゆえに厳密な司式手順が定められているのだ。
一方会衆は、犠牲をささげる主体として自覚的に「ミサを祈る」べきなのであって、それをどのような姿勢で行うかということは本質的な問題ではないのである。


ミサと犠牲と司祭と会衆


このことはミサの式文からも了解される。
序唱前、司祭は(有限なる人間である以上、神的犠牲を扱うのにまったくふさわしい存在とはなり得ないため)謙遜の心をもって会衆に呼びかけ、祈りと助力を請う。

Orate, fratres: ut meum ac vestrum sacrificium acceptabile fiat apud Deum Patrem omnipotentem.
祈れ、兄弟たちよ、我と汝らのいけにえが全能の父なる天主に受け入れられるものとなるように。(下線引用者)

それに対する応答は次のとおり。

Suscipiat Dominus sacrificium de manibus tuis, ad laudem et gloriam nominis sui, ad utilitatem quoque nostram, totiusque Ecclesiae suae sanctae.
主が、御名の誉れと光栄とのため、我らの益と主の聖なる全教会のために、汝の手からいけにえを受け給わんことを。(下線引用者)


ここでは、ミサのいけにえが「会衆と司祭自身」によってささげられるものであること、そして司祭が犠牲を神に奉献する際の器、道具であることが明らかに示されている。


規制をかける相手が逆ではないのか


以上みてきたように、本来のミサでは、犠牲をささげる主体である会衆は比較的自由であるのに対し、司祭は犠牲に直接接触する「道具」でもあるため厳密なルール、条件が課せられている。
一方、今の日本のカトリック教会を見ていると、司祭は自由気ままに式文を改変しアドリブを入れている(教皇庁は繰り返しこの風潮に警告を発しているが)一方、会衆に対しては画一的な姿勢を強制しようとしているわけだ。

はてさて、理にかなっているのは一体どちらだろうか?

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