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信徒数13億人でも日本では知られていないカトリック。正統キリスト教会を気楽にご紹介します。

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噂の真偽を確かめに、四谷のイグナチオ教会(麹町教会)を久しぶりに覗いてみました。
なるほど確かに信者席から取り出し式のひざまずき台が撤去されていますね。

ミサ中にひざまずくことが禁止されたわけでは決してない(注1)のですけれども、日本における基本姿勢は「立つ」か「座る」だけにしたいというお偉方の意向を受けての措置ということなのでしょう。

それにしても、ミサの前後や聖体拝領後に自席でひざまずいて祈るのはもちろん、ミサ以外のときに聖堂を訪問してひざまずいて祈ることさえ妨害する(注2)とは、どういうお考えがあってのことなのでしょうか。
何が何でも信者をひざまずかせない、という一種異様な執念を感じさせることでありますねぇ。教皇様はひざまずくことを勧めておられるのに、一体何がお気に召さないのでしょうか。

都心の好立地ゆえ信者・未信者を問わず多くの人が訪れるイグナチオ教会。
未信者の方がイグナチオだけを見て、「カトリックってこんなものか」と早合点なさらぬよう、祈るばかりです。


【追記】

ところで、信者の中には「ひざまずいて聖体拝領をするのは禁止になっている」と妙な誤解をしている方がいらっしゃるようです。
どうも「拝領の時にひざまずいてはいけない」とアナウンスがなされている模様です。

しかし、教皇庁は「すべての信者はひざまずいて聖体を受ける権利があり、信者の姿勢を理由に聖体授与を拒むのは違法である」とはっきりと通知しています(注3)。

まさか自分たちの主任司祭が真面目な顔で大嘘を並べ、違法行為を強行するとは、善良な信者には思いもよらぬことだと思います。
悲しいことですが、他の点では立派な神父様であっても、他人の礼拝の仕方に対してだけは、道理に反しても愛徳に反しても、石のごとく不寛容であるというケースがあるようです。

日本における司牧者たちの頑なな心をやわらげてくださるよう、主に祈りましょう。



(注1)
新しい『総則』を盾に跪きを禁じてはならない ―バチカン http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/65040908.html
【新しいミサ総則】ひざまずいても問題ない http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/64728972.html

(注2)
もちろん我々はひざまずき台があろうがなかろうが必要な時にはひざまずくが、祈祷台の設計上、ひざまずき台なしでひざまずくと手を置けなくなるとか祈祷書を載せても読みにくいなどの不便があるのは事実である。

(注3)
立ったままの拝領を強制するのは違法 ―典礼秘跡省 http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/64916844.html


2015年11月29日から『ローマ・ミサ典礼書の総則』の日本における変更箇所が導入された件については、これまで何回か取り上げてきました。
今回は、本事案に関するバチカンの回答をご紹介します。


まずは、日本版の文言がラテン語規範版とどう変わっているのかを見てみましょう。


■ラテン語規範版
(翻訳はカトリック中央協議会による)

43 […]また、適当であれば、拝領後の聖なる沈黙の間にも座る。
 健康上の理由や、場所が狭かったり、出席者の数が多かったり、他の重要な理由がないかぎり、聖別のときにはひざまずくものする。しかし、聖別のときにひざまずかない者は、聖別後に司祭がひざまずくときに、深く礼をしなければならない。
 しかし、ミサの式次第に記されている動作や姿勢を法の規定に従って国民性や民族の正当な伝統に適応するのは、司教協議会の権限である。ただし、祭儀の各部分の意味と性格に適ったものとなるよう指示すべきである。
 会衆が、感謝の賛歌が終わってから感謝の祈り(奉献文)の結びまで、また、拝領前に司祭が「神の小羊の食卓に招かれた者は幸い」を唱えるときにひざまずくことを続ける習慣があるところでは、これは尊敬をもって保たれる。

 同じ祭儀において[…]


■日本の新しい『総則』
43
 […]また、適当であれば、拝領後の聖なる沈黙の間にも座る。
 日本では、聖別のときは、会衆は立ったまま手を合わせ、聖別の後、司祭ならびに助祭とともに深く礼をしなければならない。

 同一の祭儀において[…]


おわかりいただけたでしょうか。ローマの規範版では「聖別のときにひざまずかなければならない」とされている上、(日本でも習慣となっていた)奉献文の間中ひざまずいたり、「神の小羊の…」のときにひざまずいたりすることも「尊敬をもって保たれる」と指示しているのですが、日本版では完全に無視されています。


『総則』43条を盾にひざまずきを禁じることはできるのか?

いずれにせよ、神に対してふさわしい礼拝と敬意を表したいと考える人や、日本独自の意味不明な新方式よりも教皇様と普遍教会のルールに従いたいと考える人は、これまでどおりひざまずき続けることでしょう。
また、座ったままではなく立って敬意を示さねばならないのであれば、より深い敬意を示すひざまずきを行なうことは当然、より称賛すべきことだ、という議論も成り立ちます。

そこで問題になるのが、日本版『総則』の「立ったまま手を合わせ…なければならない」という、一見したところ非常に限定的に思える文言です。
はたしてこの文言は、ひざまずくという選択肢を排除するものなのでしょうか?


実はローマの聖庁は、既に2003年にこの件について回答を出していました(Notitiae 39 [2003], 533)。

原文
(ラテン語)
[…]per praescripta Institutionis Generalis Missalis Romani, n. 43, intenditur ex una parte praestare latis terminis aliquam uniformitatem habitus corporis in congregatione pro variis partibus celebrationis sanctae Missae, simulque ex alia parte non moderari habitum corporis ita rigide, ut qui velint genibus flexis sistere vel sedere non amplius ad id liberi sint.

日本語訳

[…]『ローマ・ミサ典礼書の総則』の規定を通じて、第43項は一面において、ミサ聖祭の各部における信者の姿勢について、幅広い余地を残したうえで幾らかの統一性を与えようとしているが、他方で同時に、ひざまずき、または座ったままでいたいと望む信者が自由にそうできないほど厳格に姿勢を定めようとしているのではない。


ここから明らかなように、ローマ教皇庁は信者の姿勢について広い自由裁量を認めており、『総則』を盾にしてひざまずきを禁止することはできません


ひざまずくことを知らないような信仰、あるいは典礼は、その核心において病んでいる ― J. ラッツィンガー(教皇ベネディクト16世)



参考・出典

・『ローマ・ミサ典礼書の総則(暫定版)』(カトリック中央協議会、2004年)
・Notitiae Responses http://notitiae.ipsissima-verba.org/
・ヨセフ・ラッツィンガー『典礼の精神』(浜田了訳、サンパウロ、2005年)


関連記事


【新しいミサ総則】ひざまずいても問題ない (2015/07/14)
http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/64728972.html

ひざまずく度胸もないのにキリスト教徒を名乗るのか (2015/10/23) 
http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/64880328.html

立ったままの拝領を強制するのは違法 ―典礼秘跡省 (2015/11/16)
http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/64916844.html

それでも僕らはひざまずく(2015/11/28)
http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/64933872.html


日本でミサ中の基本姿勢が「立つ・座る」とされ、ひざまずきが義務でなくなるとかで、大騒ぎしている向きもあるようです。

海外では数十年前に流行し今は見直しの対象となっている馬鹿げた施策を今ごろ導入する日本のカトリック教会もどうかしてるとは思いますが、個人的には特段の影響はありません。
これまでと変わらず、ひざまずくべき時にひざまずくだけです。


ひざまずくことは現代文化にとり、異質なものでありうるかもしれません。その文化というのは、つまり、信仰から遠ざかってしまい、その方の前ではひざまずくことが正しく、それどころか、本来的に必要な態度であるような方を知らないのです。
そして、もはやひざまずくことを知らないような信仰、あるいは典礼は、その核心において病んでいるのでしょう。
ひざまずくことが失われたところでは、再び学ばなければなりません。
それによって私たちは使徒たちや殉教者たちと共に、宇宙全体と共に、イエズス・キリストご自身との一致のうちにとどまるのです。

(ラッツィンガー『典礼の精神』1999年、改行・太字は引用者)


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【新しいミサ総則】ひざまずいても問題ない (2015/07/14)
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ひざまずく度胸もないのにキリスト教徒を名乗るのか (2015/10/23) 
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イメージ 1






教皇庁 典礼秘跡省
指針『Redemptionis Sacramentum』(あがないの秘跡)

2004年3月25日


91 聖体の授与において、「聖務者は、適宜に秘跡を求める者に対し、その者がふさわしく準備しており、かつ法律上秘跡の授与を禁じられている者でないならば、それを拒んではならない*ということを忘れてはならない。
したがって、洗礼を受けたカトリック信者で、法律によって禁じられていない者はだれでも、聖体拝領を認められなければならない。
それゆえ、たとえばひざまずいて、あるいは立って聖体を受けることを望む信者に対して、そのことだけを理由に聖体授与を拒むことは適法ではない

92 おのおのの信者は、自分の選択によって、聖体を口で受ける権利をつねに持っている(以下略)


*
教会法 第843条 第1項

(太字は引用者、また読みやすさのため改行した)


典礼や祈りの口語化を推進している方々は、こんな風に考えてらっしゃるようです。

旧約時代のユダヤ人や中世ヨーロッパの人々は、神を遠くにおられる恐ろしい方、厳しい審判者として捉えていました。そのため、神に祈るのにもかしこまって、形式にこだわったり古めかしい言葉遣いをしたりしていました。
けれども、神は受肉して人となり、私たちのうちに住まわれました。新約の神は「インマヌエル」、私たちとともにある愛の神です。イエス様は使徒を「友」と呼ばれました。ですから、祈るときには堅苦しい言葉を使うのではなく、身近な人と話すときのような言葉遣いをするのがよいのです。

実はこれ、筆者がでっち上げたものですが、似た文章はよく目にします。実に香ばしいですね。真●会館辺りのたたずまいを彷彿させるかぐわしさです。


旧約の神は「厳しい神」、新約の神は「愛の神」?


旧約聖書や中世スコラ学に「神は愛」という理解が足りなかった、などという楽しい意見をご開陳くださる御仁が、カトリックの聖職者と称する人の中にもいらっしゃいます(『●庭の友』なんかを覗いてみると実に微笑ましい連載が続いていますね)。

しかしながら、古代ユダヤ人が愛である神を分かってなかったと決めつけるのは、ゴキゲン加減も少しばかりハイブローに過ぎる感じです。
神は「罰を与うべきものは見逃さず」、しかし同時に「情けあり、あわれみある神、恵み深く、まことの豊かなるもの、あまたの人に慈愛を示し、とがと、逆らいと、罪とをゆるすもの」と自らモーゼに語られました(出エジプト33・6)。
ダビド王も、「主は慈しみとあわれみ、怒るにおそく愛に満ちたもの」と歌い上げています(詩編102(103))。

中世ヨーロッパでは、カタリ派異端が猛威を振るいました。彼らの主張の一つが、旧約の創造主は、新約で啓示される愛の神とは別物だ、というものでした。そして、現世は神の憎むものであり、世を捨てて厳しい苦行生活を送る一部の宗教エリートだけが神に近づける、と説きました。
これに対し、ドミニコ会をはじめとする正統キリスト教会の論客たちは、旧約と新約との神は同じであり、すべての人を愛しておられる、ということを命をかけて論証したのです。
くだんの愉快な仲間たちにおかれましても、いやしくもカトリックを名乗る以上は軽々しく「中世は神の愛の側面を軽視していた」などと発言すべきではありませんね。

それでは結局のところ、愛である神に対してどう接すべきなのか。
前述の詩編102(103)にあるとおり、「主を恐れる者にはその慈しみがまさり、…主の愛は恐れかしこむ者の上に代々につきず」というのが正解、といったところではないでしょうか。


キリスト者とはどのような言葉遣いの人か


とはいえ論拠はどうあれ、「人間イエス」(笑)と語り合うのに文語は不適切だという御高説には、そう熱心にお説きになる御仁のやんごとなき御身分も加味されたりなんかして、疑うことなく受け入れてしまっている方も少なくないようですね。
しかし、ここは冷静に考えてみることにいたしましょうよ。

私たちカトリックは、主イエズス・キリストの弟子であります。
今から2000年前、主の弟子たちというのはどんな人たちだったでしょうか。使徒の頭聖ペトロの発言を聞きましょう。
「あなたは生ける神の子、メシアです」
(マテオ16・16)

それでは、キリストの弟子にならなかった人とはどんな人だったでしょうか。
彼らは、キリストを神だとは認めませんでした。彼らによれば、
「(イエズスは)死に値します。自分を神の子としたからです」
(ヨハネ19・7)
(イエズスを平手打ちし)「大司祭に向かってそんな答えをするのか」(ヨハネ18・22)

つまりキリストの弟子というのは、キリストが受肉した神であると認め、礼拝する人のことですね。
となると、キリストの神性を認め、神に対するのにふさわしい言葉遣いをする人はキリスト者、ナザレトのイエズスをただの人間として扱い、人間同士の会話と同じような話し方をする人は不信者の系譜に連なる者、と言うこともできてしまうのではないでしょうか?


受肉したのは御子のみ


「神は人となられたのだから、神に対して人間同士と同じ言葉遣いができる」、という主張自体が、はなはだ心許ないものです。
といいますのも、受肉したのは御子のペルソナなのですから、父なる神と聖霊、ならびに聖三位に対して祈る場合にはその論法は通用しません。

仮にそのロジックを貫徹しますと、ミサの集会祈願・奉納祈願・拝領祈願などでは、御子に向かう(比較的少ない)場合は口語でよいが、御父に向かう場合は文語で唱えなければならない、ということになってしまいませんかね?
もしも「ミサの祈願文や奉献文(典文)は御父に向けられているのだから文語にして、御子に向けられた祈願だけ口語にすべきだ」と主張される方がいらっしゃったら、私はその首尾一貫した姿勢を尊敬いたしますねぇ。


教皇庁は典礼の口語化を禁止している


以上、長々と冗談を書き連ねてしまいました。
実のところ、カトリック教会としてはこの問題はとうに決着済みです。

典礼秘跡省は2001年、指針『Liturugiam authenticam』(リトゥルジアム・アウテンティカム、副題:ローマ典礼書の発行における各国語の使用について)を出しています。そこでは、典礼で用いるのは文語か口語かという問題について、次のように述べられています。

11. In illa ratione etiam dilucide distinguatur ab hac parte inter linguas, quae universe ad communicationem pastoralem recipiantur, ab altera parte eas, quae in sacra Liturgia adhibeantur.
11. その地域で司牧上のコミュニケーションに一般的に用いられる言語と、聖なる典礼のために用いられるべき言語とは、明確に区別されなければならない。

つまり教皇庁は、典礼に口語を使用してはならないと明言しているのです。

日本のカトリック信者のほとんどは、2001年にバチカンが口語ミサを禁止したという事実をご存知ありません。
『リトゥルジアム・アウテンティカム』が発布されて10年以上が経過しましたが、日本の司教団はいまだに公式の日本語訳を出していないのです。

インターネットでこの指針の存在を知ったある信徒が司祭に問うたところ、「それは英語圏などの話であって、日本は関係ない」と説明された、という話も耳にしたことがあります。実際には、ローマ典礼のすべての国が対象なので、日本も例外ではありません。

8. […] Normas, quae hac praesenti Instructione contineantur, iudicetur ad translationem pertinere textuum usui liturgico destinatorum in Ritu romano, et, mutatis mutandis, in ceteris Ritibus Ecclesiae Latinae iure recognitis.
8. […] この指針で示される規則は、ローマ典礼様式、およびラテン教会で認可された他の典礼様式において、典礼に用いられるテクストの翻訳に対して適用される。


昔ならいざ知らず、この情報化社会でいつまで信徒に隠し続けられるとお考えなのでしょうかね。。。


日本語でミサをするなら文語でなくては。


現在の日本語ミサでも、信経は残念ながら口語が導入されてしまいましたが、「あわれみの賛歌」「栄光の賛歌」「感謝の賛歌」「平和の賛歌」は文語が残っています。それ以外のミサの式文も、文語にしてしまえばいいんですよ。朗読と説教、および共同祈願は口語のままで問題ないと思いますけれど。
口語にこだわるから、「逐語訳すると自然な会話文にならない」という無駄な悩みが発生するのです。典礼と日常会話とは違うものと分別するのが出発点です。

V.
聖父(ちち)と聖子(こ)と聖霊とのみ名によりて。
R.
アメン。
V.
われらの主イエズス・キリストの御恵(おんめぐ)みと、天主の愛、聖霊の交わりとが、汝ら皆にあらんことを。
R.
また御身の霊とともにいまさんことを。

…こんな具合にミサが始まったら、誰もが「おっ、厳かな式が始まったぞ」と感じるのではないでしょうか? 今の三文芝居じみた口語ミサより、よっぽどましだと思うのですが、いかがでしょうかね。■



参考:Liturgiam authenticam


原文(ラテン語)はこちら
http://www.vatican.va/roman_curia/congregations/ccdds/documents/rc_con_ccdds_doc_20010507_liturgiam-authenticam_lt.html

英語訳はこちら
http://www.vatican.va/roman_curia/congregations/ccdds/documents/rc_con_ccdds_doc_20010507_liturgiam-authenticam_en.html

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