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2015年6月15日発行の日本カトリック司教協議会文書『新しい「ローマ・ミサ典礼書の総則」に基づく変更箇所』が、2015年末からミサ中にひざまずくことを禁止すると述べているように読めるため、正常な神経を持っている信者をビックリ仰天させています。
詳細な検討は別の機会に譲り、取り急ぎ論点をまとめたいと思います。
結論。 今年の待降節以降も、ひざまずいて問題なし!
結論から言いますと、司教協議会文書に記載されている「総則の変更箇所」を読む限り、
新しいミサ総則を根拠として「ミサ中にひざまずくことが禁止される」と主張するのは論理の飛躍です。
以下に、ひざまずきに関して抑えておくべきポイントを挙げます。
新総則はひざまずきを禁止していない
司教協議会は、信者の動作と姿勢について、使徒座の承認を得て、自国独自の適応を導入することができます(ローマ・ミサ典礼書の総則390)。日本の司教協議会が、日本のミサでの信者の基本姿勢を「立つ・座る」と定め、使徒座の承認を得たのは嘘ではないのでしょう(それ自体も噴飯物のスキャンダルではありますが)。
しかしながら、基本姿勢は「基本」であって、それ以外の姿勢がただちに「禁止」されるわけではありません。
実際、総則本文にはひざまずきを禁止する明文はありません。
その点において、司教協議会の解説文書(総則そのものではない)が「日本の適応として、パンとぶどう酒の聖別のとき、会衆はひざまずくのではなく立ったまま手を合わせます」(下線引用者)と解説しているのは明らかに拡大解釈です(ま、司教団の本音なんでしょうけれど)。
「日本の適応として、ひざまずきを禁止する」と総則本文に書いてしまえば、いくらなんでも使徒座の承認が下りるわけがありませんから、総則ではひざまずきには言及せず承認を取って、運用の際にはひざまずきを禁止してやろうという作戦ですかね。だとすればバレバレです。
とにかく、使徒座が承認したのはあくまで基本姿勢であり、ひざまずきの禁止を容認したのではない、という点が重要です。
新総則は立たないことも認めている
同じ新総則43では、信者が立っている箇所(聖変化を含む)が列挙された後、「ただし日本では、健康上の理由や、他の重要な理由がある場合はこの限りではない。」と記されています。立っている替わりにどうするのかは指定されていません。
身体上の理由もそうですし、より重要である「良心」に関わる理由から、立つ替わりに着席したり、ひざまずいたりできるということです。まぁさすがに伏拝して寝そべってしまっては周囲の邪魔になりそうですから、その辺りには配慮が必要でしょう。
このように、総則本文では立たないことも許容する一方、立たない替わりにどうするかは書かれていません。
その点において、司教協議会の解説文書(総則そのものではない)が「立つことが定められている場合でも、健康上の理由や他の重要な理由がある場合は座ることができます」(下線引用者)と解説しているのは根拠のない限定です。
「座る」という敬意の劣る動作が許される一方、「ひざまずく」という礼拝(より深い敬意)を示す動作が許されない、というのは論理的にあり得ません。
「日本の適応として、聖変化のときには座ってもよいが、ひざまずきは禁止する」と総則本文に書いてしまえば、いくらなんでも使徒座の承認が下りるわけがありませんから、総則では立たない場合の動作は指定せず承認を取って(以下略)
「参加者が共通の姿勢を守ること」よりも大事なことがある
総則42では、「参加者が共通の姿勢を守ることは共同体の一致のしるし」だと書かれています。これを盾にとって、「皆が同じ姿勢でなければダメだ、お前だけひざまずくのは許さない」と言ってくる面倒くさい人が出てきそうです。
そんな人には、「それほどマスゲームがお好きなら北朝鮮に移住してはいかが?」と華麗に切り返してやりましょう。
冗談はさておき、前述のとおり「聖別の際に立たない」ことが明確に容認されているのですから、参加者全員がぴったり同じ姿勢になるという理想(?)はそもそも破綻しています。
そして、外的な一致も大切ですが、内的に一致して神に祈ることが最も大切なのは言うまでもありません。
聖アウグスチノでしたか、「ひばりのように歌えないなら蛙のように歌え」という言葉があります。歌い方が同じでないからといって一方を排除するのはキリスト教的ではありませんね。(この場合どちらがひばりでどちらが蛙かはご自由にお考えください)
「個人的な好みや自由裁量」の文言はブーメラン
同じく総則42には、「個人的な好みや自由裁量」という文言が否定的なニュアンスで使われています。これを盾にとって、「ひざまずきたいというのはお前の個人的な好みに過ぎない。公的祭儀であるミサに、お前の自由裁量を容れる余地はない」と言ってくる司教・司祭も少なからずあると思われます。
しかしこの論法は、もともとの文脈から考えると的外れであるばかりか、司教・司祭自身へ跳ね返ってくるブーメランに他なりません。
実のところ総則はこう述べています。
個人的な好みや自由裁量よりも、ローマ典礼の伝統と規範に従うことと、信者の霊的共通善に寄与することとが重要である、と。
これは信者ではなく、司教・司祭に対して向けられた言葉です。第2バチカン公会議後の典礼破壊運動の中で、多くの司教・司祭たちが、ミサに即興性やイベント性など、数々の思いつきを導入してミサの神聖さを汚してきました。総則のこの文言は、そのような逸脱を批判するものです。
信心の発露を否定し「信者の霊的共通善」を損なおうとしているのは誰でしょう。
ひざまずきという「ローマ典礼の伝統的実践」よりも自分自身の「好みや自由裁量」を優先させているのは誰でしょう。
ここで批判されているのは日本の司教様方ご自身です。
欧米なら「良心の自由の侵害」として大問題に
「個人的な好みや自由裁量」という言葉を信者に適用して自由な行動を制限しようとするのは、単に的外れであるだけではありません。
いかなる理由であっても、カトリック信者が自己の信仰のゆえにひざまずくのを強制的に禁止するというのは、良心の自由に対する暴力です。同じことを欧米でやろうとしたら、大問題になりますよ。
権力者が、個人の自由意志や、良心に基づく反対意見を封殺し、全員に同じ行為を強制する――こんなあからさまな全体主義が日本のカトリック教会にまかり通っているというのは恥辱としか言いようがありません。
司教団はさきごろ、戦後70年にあたり平和メッセージを出し、「教会は人間のいのちと尊厳に関する問題に沈黙できない」と高らかに宣言しています。
ならば、まさにその教会内で人間の尊厳、良心を踏みにじる試みが進められ、宗教的マイノリティーである信者の霊的生命が脅かされている現状を放置していてよいのでしょうか。
「人間性を尊重する理性はどこへ行ってしまったのでしょうか。」(戦後70年司教団メッセージより)
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