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[バチカン 2007年6月27日 CWNews.com] ドイツ語ニュースサービスKath.netによると、長らく待ち望まれていた伝統的なラテン語のミサを自由化する教皇ベネディクト16世のmotu proprio(教皇自発教令)が、7月7日に公布される。

Kath.netはバチカン国務長官タルチシオ・ベルトーネ枢機卿が27日、バチカンで30人の司教たちにmotu proprioの本文を紹介した、と報じた。Kath.net storyによれば教皇ベネディクト16世も短時間その会合に現れたという。

6月27日の会合では、世界各地の司教たちが集まった。彼らは教皇自発教令について前もって説明を受けるためにバチカンへ招かれたのである。ベネディクト16世はこの改定への反対を最小限にとどめることを望み、世界中の司教たちがこのmotu proprioに対して十分に準備することができるよう特に苦心された。教皇はまた、司教たちがこの教令を報道によって知るのではなく、教皇自身から個人的に伝えることを望まれた。

このmotu proprio自体は3ページの文書であり、教皇から世界中の司教に宛てた解説用の書簡とともに公表される。なおこの書簡は教令よりも若干長く、4ページにわたっている。

教令はローマ典礼の一体性を強調しており、教皇は、ミサの2つの形式が互いを豊かにすることを望む、と説明している。
ローマ典礼の通常の形式は引き続きノブス・オルドのミサで、1962年のミサ典書に則ったラテン語ミサは臨時的な形式ということになるだろう。

http://www.cwnews.com/news/viewstory.cfm?recnum=52051
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待ちに待ったmotu proprio がついに公布される運びとなりました。
今までは、第2バチカン公会議以前の伝統的なミサ聖祭を献げるには司教の許可が必要だったのですが、この教皇自発教令によって、すべての司祭が、誰の許可も受ける必要なく、自由に聖伝のミサを祝うことができるようになるのです。

噂が流れてから1年近く・・・。一部には強硬な反対もあったと伝え聞いていましたが、やっとやっと、カトリック信徒が教会の本来の典礼に再び触れることができるようになるのですね。

引用した記事の末尾にもあるように、現実には、当分の間は今のノブスのミサが主流であって、聖伝のミサが献げられる機会はすぐには増えないと思います。けれども、聖伝のミサが決して過去の遺物ではなく、教会が保っていくべき宝だということが公的に宣言されることの意義は大きいでしょう。


ところで、時々誤解されているようなのですが、「伝統的なラテン語のミサを復興する」というのは、「今の(各国語の)ミサをラテン語で行う」という意味ではありません。

第2バチカン公会議に従うなら、本当は今のミサだってラテン語で行わなければならないんです。
公会議では、ミサでは教会の公用語であるラテン語を使い、グレゴリオ聖歌を歌うべし、とされています。各国語の使用は、朗読や説教や共同祈願などに限られるはずなんです。
実際には公会議の規定に違反する方が普通になってしまってますが・・・(そしてそれを推進する人々は各国語の使用こそが公会議の精神だ、などと主張してきたわけです)。

聖伝のミサは、もちろんラテン語ですが、今のミサとは式次第が異なります。
私も何度か与ったことがあります。詳しくは以下のリンクをご参照下さい。

ウナ・ヴォーチェ http://www.unavoce.org/liturgy.htm

聖ペトロ会 http://www.fssp.org/

先日、某教会でごミサに与ってきました。前日に告解を済ませていたので、ご聖体も拝領しようとしたのですが、いつものようにひざまずいて拝領しようとしたら、神父様がそれを拒むんですね。
「はてな?」と見上げてみても、神父様は無表情な顔で「お立ち下さい」と繰り返すばかり。

しかたない。使い慣れない従順の徳を珍しく(?)発揮してみました。
・・・いったん中腰になって拝領し、受けると同時にまた膝をついたのですけれども、はたから見たら、
アロワナが水上に飛び上がって虫を捕食するシーンのような滑稽な姿だったでしょうね。


私はその神父様を責める気はありませんよ。
そんな年には見えませんでしたけど、もしかして腰が悪くて身をかがめることができなかったのかも知れません。それならしょうがないですものね。


しかしながら、
ひざまずいて拝領しようとする信徒にそれを拒み、立ったままの拝領を強制するのは、教会の規定に背いているということは、念のため言っておく必要があるかもしれません。


たとえば教会法(カトリック新教会法典、1983年)では、

聖務者は、適宜に秘跡を求める者に対し、その者が相応しく準備しており、かつ法律上秘跡の受領を禁じられている者でないならば、それを拒んではならない。
(第843条(1))

とあります。


最近の文書では、典礼秘跡聖省の指針『Redemptionis Sacramentum(贖いの秘跡)』(2004年)の中で、上記の教会法の条文を引用した上で、もっとハッキリとした表現がされています。

洗礼を受けたカトリック信徒は誰であれ、法的に支障のある者でなければ、聖体拝領を認められなければならない。それゆえ、例えば彼が跪いて或いは立ったまま拝領することを望むからという理由で、キリスト者に聖体拝領を拒むのは違法licitum non estである。
(第91条。まずい訳でスミマセン)



・・・。
お読みになる方の便宜のために、長々と公文書の引用までしてしまいましたが。

御聖体のイエズス様、「王の王」にまします方に対して礼拝と尊崇の態度を示したら、一部の人々からは邪険にされるかもよという、この涙の谷ではよくある話でございました。


先日、中央線沿線の某教会でごミサに与ってきました。
都心の好立地ゆえに未信者も多く訪れる聖堂で、私も時々告解しに行くのですが、行くたびにミサの典礼がヘンチクリンになっていきます。残念でなりません。

今回は、ミサの一番大事な部分である「典文(奉献文)」の結び、「Per ipsum, et cum ipso, et in ipso…(キリストによって、キリストとともに、キリストのうちに)」の部分が、ひどいことになっていました。
もう、怒りを通り越して泣きたい気分でしたよ…。


原文、つまりラテン語では、典文の結びはこう唱えることとされています。

司祭
 Per ipsum, et cum ipso, et in ipso, est tibi Deo Patri omnipotenti, in unitate Spiritus Sancti, omnis honor et gloria per omnia saecula saeculorum.
会衆
 Amen.

日本語のミサでは、次のように訳されています。

司祭
 キリストによって、キリストとともに、キリストのうちに、聖霊の交わりの中で、全能の神、父であるあなたに、すべての誉れと栄光は世々に至るまで。
会衆
 アーメン。


以前にも別な記事で触れましたが、 http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/11599472.html
従来から日本では、この部分を典礼法規に違反して、会衆が「すべての誉れと栄光は・・・」から唱えるという過ちが一般的になっています。
繰り返すようですが、これは典礼法規違反であり、改めなければならないことです。

お話ししている某教会でも、以前は日本の他の教会と同じように、会衆が「すべての誉れは・・・」から唱えるという間違いを犯していました。
ところが、です。
先日私が訪れた時は、なんと、会衆が「キリストによって・・・」から全部、「典文の結びの言葉」を唱えていたのです!
間違いを改めるどころか、信じられない改悪です。


この「典文の結びのアーメン」は、「ミサ聖祭全体のなかでもっとも重要なアーメン」です(典礼聖省『Inæstimabile Donum』1980年)。
なぜなら、このアーメンは典文(奉献文)全体に対するアーメンであり、ミサの中心であり頂点である全実体変化と犠牲の奉献に対する会衆の信仰告白や積極的参加という意義も担っているからです。
従って、アーメンよりも前の文言から会衆が唱えることは、この「アーメン」の持つ重要性を相対的に薄れさせることであり、結果的には、ミサの犠牲に対する感受性を鈍らせてしまうことにもなりかねません。




実際、2000年に公布された『ローマ・ミサ典礼書の総則』では、この問題に対して積極的に間違いを正していこうという姿勢が表れています。


79 h) 結びの栄唱―神の栄光への賛美が表され、会衆は応唱「アーメン」によってこれを確認して結ぶ。


以前の版の『総則』では、ただ「会衆は応唱によって」としか記されていませんでした。新しい『総則』では、はっきりと「『アーメン』によって」と限定することで、会衆がその前の文言から唱えるというのは間違いであると指摘しています。



151 (中略) 感謝の祈り(奉献文)の結びで、司祭はパンをのせたパテナとカリスを取って高く掲げ、司祭のみが栄唱「キリストによって…」を唱える。会衆は最後に「アーメン」と応唱する。(後略)


この項でも、栄唱を唱えるのは「司祭のみ」であり、会衆は「アーメン」とだけ応唱することが定められています。



236 感謝の祈り(奉献文)の結びの栄唱は、主司式司祭のみが唱える。望ましい場合は他の共同司式司祭とともに唱えるが、信者は唱えない。


ここではハッキリと「信者は唱えない」と定めていますね。


日本の教会は、そしてとりわけ私が行った某教会は、これらの規定に違反しているということになります。

教皇ベネディクト16世聖下といい、典礼聖省長官アリンゼ枢機卿猊下といい、第2バチカン公会議後の逸脱した「典礼改革」を振り返り、正道に戻していこうという機運が高まっているというのに、日本では間違いを直すどころか、一層間違った方向に突き進んでいってしまっているようです。

どうか日本でも、「荘厳な」とまでは言いません、せめて「まともな」ミサ聖祭に与ることのできる日が、早く来ますように!
(今回はカトリックの人にしか分からない話で失礼しました。)

ミサ通常文から


「ミサ通常文」って、聞いたことおありでしょうか。

カトリックの方はご存知でしょうが、ミサ聖祭の文言は通常文と固有文とに分かれます。
「通常文」というのは、年中どのミサでも必ず同じ文言を唱える部分、
「固有文」というのは、ミサによって異なる部分、たとえば「入祭文」や「集祷文(集会祈願)」、「奉献文(奉納祈願)」などです。

ミサ聖祭は、「通常文」というベースの上に、聖書の朗読や説教、そしてそれぞれのミサに特有の「固有文」を挿入する形で構成されている、ということです。

さて、この通常文の中には、会衆が歌いまたは唱えるもの(第2バチカン公会議で「信者に属する諸部分」と呼ばれる)があります。
その中の主なものを、原文(ラテン語)と翻訳でご紹介したいと思います。

なぜラテン語も載せるかって?
それはね、第2バチカン公会議「典礼憲章」に、「キリスト信者が、ミサ通常文の中で信者に属する諸部分を、ラテン語でもいっしょに唱え、または歌うことができるよう配慮しなければならない」(「典礼憲章」54)と書かれているからですよ(笑)


回心の祈りConfiteor
Confiteor Deo omnipotenti, et vobis fratres, quia peccavi nimis cogitatione, verbo, opere et omissione:
(次の一句は胸を打ちながら唱える)mea culpa, mea culpa, mea maxima culpa.
Ideo precor beatam Mariam semper Virginem, omnes Angelos et Sanctos, et vobis fratres, orare pro me ad Dominum Deum nostrum.

回心の祈り(現在日本語ミサで使われている訳は省略があるので拙訳を載せます)
全能の神、及び汝ら兄弟に向かいて、我は思いと言葉と行いと怠りとをもって多くの罪を犯せしことを告白し奉る。
(次の一句は胸を打ちながら唱える)これ我が過ちなり、我が過ちなり、我がいと大いなる過ちなり。
これによりて、終生童貞なる聖マリア、諸天使と諸聖人、及び汝ら兄弟に、我がために我らの主なる神に祈られんことを願い奉る。


求憐唱Kyrie
Kyrie, eleison. Kyrie, eleison. Christe, eleison. Christe, eleison. Kyrie, eleison. Kyrie, eleison.

求憐唱(あわれみの賛歌)
主よ、憐れみ給え。主よ、憐れみ給え。キリスト、憐れみ給え。キリスト、憐れみ給え。主よ、憐れみ給え。主よ、憐れみ給え。


栄光唱Gloria
Gloria in excelsis Deo. Et in terra pax hominibus bonæ voluntatis. Laudamus te. Benedicimus te. Adoramus te. Glorificamus te. Gratiam agimus tibi propter magnam gloriam tuam. Domine Deus, Rex cælestis, Deus Pater omnipotens. Domine Filii unigenite, Iesu Christe. Domine Deus, Agnus Dei, Filius Patris. Qui tollis peccata mundi, miserere nobis. Qui tollis peccata mundi, suscipe deprecationem nostram. Qui sedes ad dexteram Patris, miserere nobis. Quoniam tu solus Sanctus, tu solus Dominus, tu solus Altissimus, Iesu Christe. Cum Sancto Spiritu in gloria Dei Patris. Amen.

栄光唱(栄光の賛歌)
天のいと高き所には神に栄光、地には善意の人に平和あれ。我ら主を誉め、主を讃え、主を拝み、主をあがめ、主の大いなる栄光のゆえに感謝し奉る。神なる主、天の王、全能の父なる神よ。主なる御独り子、イエズス・キリストよ。神なる主、神の子羊、父の御子よ。世の罪を除き給う主よ、我らを憐み給え。世の罪を除き給う主よ、我らの願いを聞き入れ給え。父の右に座し給う主よ、我らを憐み給え。主のみ聖なり、主のみ王なり、主のみいと高し、イエズス・キリストよ。聖霊とともに、父なる神の栄光のうちに。アメン。


三聖唱Sanctus
Sanctus, sanctus, sanctus, Dominus Deus Sabaoth. Pleni sunt cæli et terra gloria tua. Hosanna in excelsis. Benedictus qui venit in nomine Domini. Hosanna in excelsis.

三聖唱(感謝の賛歌)
聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の神なる主。主の栄光は天地に満つ。天のいと高きところにホザンナ。ほむべきかな、主の名によりて来たる者。天のいと高きところにホザンナ。


神羔唱Agnus Dei
Agnus Dei, qui tollis peccata mundi, miserere nobis.
Agnus Dei, qui tollis peccata mundi, miserere nobis.
Agnus Dei, qui tollis peccata mundi, dona nobis pacem.

神羔唱(平和の賛歌)
神の小羊、世の罪を除き給う主よ、我らを憐れみ給え。
神の小羊、世の罪を除き給う主よ、我らを憐れみ給え。
神の小羊、世の罪を除き給う主よ、我らに平安を与え給え。

平和の挨拶 1

ミサで主祷文を唱えた後に、「Ritus pacis 平和の儀」と呼ばれる部分があります。
教会に平和が与えられるよう願い求めた後で、「平和の挨拶」が交わされます。


司祭
 Pax Domini sit semper vobiscum.(主の平安が常に汝らと共にあらんことを)
会衆
 Et cum spiritu tuo.(また汝の霊と共にあらんことを)
助祭
 Offerte vobis pacem.(互いに平和を与えよ)

ここで一同は互いに平和と親愛を表します。国によっては、握手したり抱き合ったりすることもあります。


しかし、今の日本では、

司祭
 主の平和がいつもみなさんとともに
会衆
 また司祭とともに
司祭
 互いに平和の挨拶をかわしましょう

ここで会衆が合掌して「主の平和」と唱えて司祭に一礼し、続いて前後左右の人たちにも同じく、「主の平和」と唱えながら合掌して一礼しています。




きっ、きもい・・・。



あのねぇ。
「合掌して相互に一礼」ってねぇ。ここはタイじゃないのよ。
日本でそんな仕草を見たのはお寺さんの見学に行った時くらいだぞ。

日本式のミサ式次第を作った人たちは、何としても「西洋的な仕草」なるものを典礼から排除して「日本独自の典礼」にしたかったんでしょうけれども、正直なところ日本に「合掌して一礼」はなじまないような気がしますね。
一部の仏教徒には違和感ないかもしれないけれど、一般人から見て異様としか言いようがない。普通に会釈すりゃいいのに。


言っておくと、カトリックでも「合掌」するのは普通です。日本だけでなく世界中で。
司祭はミサ中に何度も合掌しますし、一般信徒も祈る時に合掌します。

何より、聖体拝領の時。
ひざまずいて(もしくは立ったまま)、合掌して口を開け、司祭の手からキリストの聖体を口に受けます。
これが聖体拝領の方法です。(合掌する代わりに胸の前で腕を十字に組むこともあります。なお、聖体拝領できるのはカトリック信徒で適切に準備をした人だけです。)

ただし、こういう「合掌」は「皺と皺を合わせて」と言うほどべったりと両の手のひらを合わせるとは限りませんし、親指をクロスさせることも多いようです。そこが「日本式(仏教式?)」の合掌と違う点ですね。



さて。
この「平和の挨拶」、より正確には「Offerte vobis pacem」という言葉とそれに続く「信徒が互いに平和と親愛を表す行為」、これは実は、本来ミサにはなかったものなんですね。今から40年ほど前の典礼改革によって導入されました。

それから40年、極東の日本では変な新興宗教と見まごうような気持ち悪い形式的な挨拶になってしまっているわけです。

「et cum spiritu tuo」が「また司祭とともに」という変な訳になっているのは措いておくとしても、日本で実践されている習慣は、ローマの規定だけでなく日本の典礼書注記で想定されていたことさえ逸脱してしまっているのでは、という疑問が浮かんできます。

次回はその点をもう少し見てみようと思います。



関連記事

「また司祭とともに」という訳についてはこちら(記事タイトル:「日本は無関係?」)
http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/22660590.html

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