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信徒数13億人でも日本では知られていないカトリック。正統キリスト教会を気楽にご紹介します。

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祈りのことば

典礼で使われる祈祷文の口語化が今なお進められています。

先年はニケア・コンスタンチノープル信経の口語版が発表されました。その前は天使祝詞、さらに前には、祈りの中の祈りともいうべき主祷文の口語訳。
長いあいだ使われてきた祈りに加えて、今さら新しい別な訳を作る必要があるのでしょうか?
公会議から40年たった今でも「インカルチュレーション=典礼の口語化」と思い込んでいる人がいるってことなんでしょうか。


典礼は日常使われている言葉(口語)であるべきだ、という考えの人、多いですよね。


しっかし、ですよ。
ローマの使徒座が、まるっきり正反対のことを教えてるという事実、

これをどう理解すればいいんでしょうかねぇ。


その地域の司牧的コミュニケーションで一般的に使われている言語と、聖なる典礼において使われる言語とは、明確に区別されなければならない。

 (典礼秘跡聖省・教令『Liturgiam authenticam』2001年)



これって、典礼の言語をできるかぎり日常語にしようと努力している日本の一部の人たちは、完っ全に間違っている、ってことですよね。


ミサ聖祭の中で、「スルスム・コルダSursum corda」という言葉で始まる、司祭と会衆の応答があります。毎回唱えるのでカトリックの方はご存知でしょう。

司祭
 Sursum corda.(心を挙げよ)
会衆
 Habemus ad Dominum.(我ら心を主に向け奉る)
司祭
 Gratias agamus Domino Deo nostro.(我らの主なる天主に感謝し奉らん)
会衆
 Dignum et iustum est.(それはふさわしく正しいことである)


典礼の中で、私たちは心を天のいと高きところにまします神に向けるわけです。

その典礼(聖なるもの)を、日常の「世俗の」レベルに引き落としてみたところで、自分たちが聖なるものになるのではないでしょうに。


日本のカトリック信徒の全員が、今のベタベタした口語文の典礼を歓迎してるはずはないと思うんですよね。
いつの日か、日本でも「荘厳な」という形容詞の似合うごミサが立てられるようになればいいなあと思っています。

(教会の規定に従って、説教など以外は全てラテン語のミサにすれば済むだけの話ではあるんですけどね!)




<おまけ>


「スルスム・コルダ」は、今の日本語訳では、

司祭
 心をこめて神を仰ぎ
会衆
 賛美と感謝をささげましょう

となっています。
誤訳と省略がされている上に、会衆の唱えるべきところを司祭が、司祭の唱えるべきところを会衆が唱えるという混乱した応答になってしまっています。
変な感じですね・・・

日本は無関係?

2001年に公布された典礼秘跡聖省の教令『Liturgiam authenticam』について以前お話ししたのを覚えておられるだろうか。


第2バチカン公会議は、典礼にラテン語を使い続けるべきこと、典礼音楽ではグレゴリオ聖歌が首位を占めることを、改めて宣言した。(意外ですか? 本当ですよ、「典礼憲章」に書いてあるんです。)
同時に、従来より広範囲に各国語の使用を認め、たとえば朗読や共同祈願などでは国語使用できる、と基準を示した。
これが、知られざる「第2バチカン公会議の精神」というわけ。

ところが、その「公会議の精神」の名のもとに、全く違ったことが宣伝され推進されてきたのは、現状を見ればお分かりになるとおり。

まるで、ラテン語は廃止され、それぞれの国でその国の言語を使うのが「良いこと」で「公会議後の方針」であるかのように誤解されている。公会議の定めた基準はどこへやら、ミサの始めから終わりまで国語だけを使うのが普通になっている国も多い。
それとて原文(ラテン語)を正しく翻訳していればまだしもなのだが、「インカルチュレーション(それぞれの文化的背景を尊重しながらキリスト教を根付かせること)」と称して勝手に文言を削除したり、訳を全く変えてしまったりという逸脱が横行しているらしい。


このような事態に対して聖庁が公布したのが、この『リトゥルジアム・アウテンティカム』というわけだ。その事情を反映してか、冒頭から厳しい現状認識が述べられている。


特定の国語訳における省略や誤訳は、本来実現されるべきであった(本当の)インカルチュレーションの進歩を妨害してきた。
そのために、教会は、より完全で、より健全で、より正統な刷新を行うための基礎を築くことができずにいるのである。 (第6項)



インカルチュレーションを目指して各国で行われている典礼の「刷新」は、むしろインカルチュレーションに反しているというのである。そして、各国は試行錯誤して典礼を改変しているが、実際には本当の刷新のスタートラインにも立てていない、と指摘している。これは痛烈な批判だ。

さて、日本でこの教令が出版されなかったということは、非難されている「いくつかの特定の国語訳」に日本は含まれない、と日本の教会当局が判断したということなのだろうか。
しかし、果たして日本の典礼は無関係で済まされるのだろうか??


試みに第56項を見てみよう。ここにはたった2点ではあるが具体例が述べられている。


古代教会の全体あるいは多くの部分から引き継がれてきた遺産に属する特定の表現は、(中略)、できる限り文字通りに翻訳することによって尊重されねばならない。たとえば、「Et cum spiritu tuo」という会衆の応答の言葉や、ミサ中の回心の祈りにおける「mea culpa, mea culpa, mea maxima culpa」という表現などである。



2点とも、その翻訳が大きな論点となっている箇所だ。教会は、これらの言葉の重要性を鑑みて、「文字通りに」翻訳するよう求めている。少し詳細に見てみよう。


「Et cum spiritu tuo」というのは、「主は皆さんとともに」などのような言葉に対する応答である。今の日本では、「また司祭とともに」と訳されている。

「et」は英語の「and」に相当する。日本語で「また」と訳して差支えないだろう。
「cum」は英語だと「with」、つまり「〜とともに」という意味。
「spiritu」は「spiritus」の奪格。「霊」とか「霊魂」といったところ。
「tuo」は「あなたの」「君の」という意味である。

あれあれ? どこから「司祭とともに」なんて訳が出てきたんだろう??
ちなみに、今では捨て去られた文語体の祈祷書では、この言葉を「また汝の霊と共に在(いま)さんことを」とか「また、あなたの霊とともに」と訳している。これなら逐語訳といえる。


「mea culpa, mea culpa, mea maxima culpa」は、「回心の祈り」の一部。「全能の神と、兄弟の皆さんに告白します・・・」で始まる、あの祈りである。
「mea」は「私の」、「culpa」は「過ち」、「maxima」は「最大の」という意味だから、翻訳すると「我が過ち、我が過ち、我がいと大いなる過ち」ということになる。伝統的に、この部分は三度胸を打ちながら唱えることになっている(痛悔を表現する聖書的な仕草)。

・・・と言うと、「えっ、何それ? 聞いたことないよ」と思う方も多いのではなかろうか。そうなのだ、日本ではこの部分は誤訳どころか完全に削除されてしまっているのだ。
日本では、「思い、ことば、行い、怠りによって、たびたび罪を犯しました」と言った後、すぐに「聖母マリア、すべての天使と聖人・・・」と続けてしまうが、本当はその間に「これは私の過ち・・・」が入るはずなのである。

「日本人にはキリスト教なんてなじまないから、こんな極めて聖書的(中東的?)な表現は削ってしまった方が受け容れやすいだろう」とでもお考えなのだろうか?
しかし、そういうやり方のことを世間一般では「水増しされた信仰」と呼んでいるのではなかろうか。そして教皇様は、このような「省略」こそが「インカルチュレーションを妨げる」ものとおっしゃったのではないだろうか?


以上たった2例をみるだけでも、教令『リトゥルジアム・アウテンティカム』は日本の典礼に関しても無視することのできない指摘をしていると言えるだろう。


最後に言っておくが、私は、日本の教会当局に対して式文を改正するよう指図する気なぞ毛頭ないし、そんな権限も資格もない。ただ、一人の平信徒として、ローマの規定通りの典礼に与りたいと望む権利くらいはあるはずだ。(2004年の典礼秘跡聖省指針『Redemptionis sacramentum』では、典礼上の逸脱に関して裁治権者に苦情申し立てをする権利さえ保障されている!)

つまり、こういうことだ。
アメリカ人に日本の寿司は口に合わないといって、海苔をレタスに代え、刺身をアボカドに代え、ワサビ抜きにするならそれもいいけど、それは寿司じゃなくてSushi、カリフォルニアロール(それはそれは美味しいんですけどね)とか何かだろ、それはまた別物だろ、と思ってしまうわけである、寿司好きとしては。(なんのこっちゃい・・・)


典礼秘跡聖省・教令『Liturgiam authenticam』についてはこちら

http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/17608940.html


日本の典礼の他の事例についてはこちら

http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/11599472.html

2001年、典礼秘跡聖省は『Liturgiam authenticam』という教令を公布した。
副題が「ローマ典礼の書籍を出版する際の各国語の使用について」となっているように、各国で典礼(その規範版つまり原文はラテン語)を自国語に翻訳して出版する際に、どのような点に気をつけなければならないかを示したものだ。

第2バチカン公会議後のいわゆる「典礼改革」で、以前よりも広範に典礼の中で各国語が使用されるようになったのだが、その過程で様々な逸脱があり、世界中で典礼の破壊や混乱が起きている。
たとえば、式文の省略や削除、意図的な誤訳、規範版にない文言の追加、聖座に認可されていない祈りの使用、などなど。
ご存知の方も多いとは思うが、このような逸脱(ルール違反)は日本のミサも例外ではない。

この事態を是正するために、教皇庁は翻訳のルールを明文化して全世界に公布し、キリストの定めた典礼が勝手に改変されることのないようにしたのである。

この教令は翻訳の際の一般的な規則や心構えを定めたものだが、具体的な事例を挙げて翻訳の仕方を定め、間違いを指摘している部分もある。
その中には日本で犯されている間違いも何箇所か含まれている。

ところが、日本ではこの教令は翻訳出版されていないのだ。
指摘されている間違いも、依然として改められていない。
悲しいことである。


以前から存在は知っていたのだが、最近になって読んでみたところ非常に興味深かった。
どのような点が興味深いのか、具体的な事例は改めて別の記事に書くつもりだ。

このブログをご覧になった皆さんもお読みになってみたらいかがだろうか。



典礼秘跡聖省・教令『Liturgiam authenticam』の

原文(ラテン語)はこちら
http://www.vatican.va/roman_curia/congregations/ccdds/documents/rc_con_ccdds_doc_20010507_liturgiam-authenticam_lt.html

英語訳はこちら
http://www.vatican.va/roman_curia/congregations/ccdds/documents/rc_con_ccdds_doc_20010507_liturgiam-authenticam_en.html

「典礼聖歌」最強伝説

日本の教会で使われている典礼聖歌は、全世界のカトリックで最強の権威がある、という説(笑い話?)がある。ある意味で、バチカンが定めた典礼規則を無視して独自の典礼を創作しようとしているように見えるからなのだそうだ。

有名な話で恐縮だが、典文(奉献文)の結びの栄唱「Per ipsum, et cum ipso, et in ipso(キリストによって、キリストとともに、キリストのうちに)」の後半部分「Omnis honor et gloria per omnia saecula saeculorum(すべてのほまれと栄光は世々に至るまで)」を会衆が唱えるという逸脱(過ち)がある。

本来、この部分は司祭のみが唱えるもので、会衆は「アーメン」とだけ唱える。そしてこのアーメンはミサの中で最も重要なアーメンとされている。なぜなら、このアーメンは典文(奉献文)全体に対するアーメンであり、ミサの中心であり頂点である全実体変化と犠牲の奉献に対する会衆の信仰告白や積極的参加という意義も担っているからだ。
従って、「すべての誉れと・・・」から会衆が唱えることは、「アーメン」の持つ重要性を相対的に薄れさせることであり、結果的にはミサの犠牲に対する感受性を鈍らせてしまうことにもなりかねない。

日本の司教様たちとて、そんなことを知らないはずがない。私が聞き及んだところによると、作曲者が(知ってか知らずか)会衆が歌うものとして作曲してしまったので、司教様たちもしぶしぶ追認し、そのかわり歌わないときは正しく「アーメン」とだけ唱えること、と定めたそうである。
司教様たちが、間違った曲を訂正させる代わりに典礼規則にない特例を作ってしまうとは、作曲者はどれほどの権力者であったのだろうか。事実だとすれば、なんとも恐ろしい話である。

「Lex orandi, lex credendi(祈りの法は信仰の法)」という教会の格言がある。その観点からすると、典礼と祈りに関する教会の規則から逸脱している典礼聖歌は、カトリックの正統信仰とは異なる神学に立脚した思想性を有している、ということにならないだろうか。
もちろん、日本で使われる聖歌には複数の作曲者がいるから、全部の歌がおかしいということにはならないし、私の知らない素晴らしい歌もきっと沢山あることだろう。私は一信徒として、教会と一致した典礼にあずかりたいだけである。


補足 結びの栄唱について『ローマ・ミサ典礼書の総則』(2000年)では次のように定められている。

151 (中略)感謝の祈り(奉献文)の結びで、司祭はパンをのせたパテナとカリスを取って高く掲げ、司祭のみが栄唱「キリストによって・・・」を唱える。会衆は最後に「アーメン」と応唱する。

236 感謝の祈り(奉献文)の結びの栄唱は、主司式司祭のみが唱える。望ましい場合は他の共同司式司祭とともに唱えるが、信者は唱えない。

教皇(ローマ法王)ヨハネ・パウロ2世は「最近ではミサにあずかる者が全員、聖体拝領をしていることがある。それは、すべての参列者が恩寵の状態にあるという素晴らしい状況を意味している可能性もあるが、ほとんどの場合、参列者は『聖体拝領をする際には良心の糾明をして、罪があれば告解せよ』という聖パウロの教えに背いている」と指摘していた(『ドミニチェ・チェネ』参照)。

今のカトリック教会では、「信者は必ず聖体拝領をするもの」という雰囲気がある。それどころか「未信者も列に並んで祝福をいただきましょう」とアナウンスされることさえあり、なんであれ参列者は行列に並ぶべきという無言の強制を感じる。
教会によっては、座ったままでいると、お節介なオバチャンが「列に並んで拝領なさったら?」などと声をかけてくることがある。「大罪の状態なので」などと答えては相手の躓きになるかもしれないので、「さっきお菓子を食べてしまって・・・」と答えることにしているが(いわゆる「白い嘘」ですな)、気疲れすること甚だしい。困ったものである。

教会の定めでは年に最低1回拝領すればよいとはいえ、私だって毎週、できれば毎日拝領したい。しかし、普通の社会人は好きな時に告解できるわけではない。日本では常時ゆるしの秘跡を行っている教会がほとんどないのだ。まったく罪を犯さない聖人君子ならいざ知らず、こんな環境では毎週の拝領など望むべくもないのである。

それはともかく、全員が列に並ぶ今の慣習は何かおかしいなと思っていたら、先日バチカンの高位聖職者がそれを批判したという報道があった。
いわく、全員が列に並ぶのは近年の慣習であり教会の教えや伝統とは異なる。そのような慣習は、ふさわしく準備をしていなくても拝領できるという誤った印象を与える危険がある(とっくにそうなっているのだが)。未信者や拝領しない者が祝福を受けるのは、ミサの終わりに祝福があるから不要な重複である・・・等々。

なるほど、やはり今の慣習は変なのか。しかし納得したところで告解する機会の少ない現状が変わるわけでもない。来週の主日も、拝領の時間には座っているしかなさそうだ。

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