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カトリック的。
信徒数13億人でも日本では知られていないカトリック。正統キリスト教会を気楽にご紹介します。

書庫贖宥(免償)とは何か

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贖宥.目次

このコーナーは、カトリシズムの中でも特に誤解されている「贖宥(免償)」という制度について、私なりに簡単に説明したものです。

カトリックでない方には、この制度が聖書にも記されている神の愛のあらわれだと知って頂き、
カトリック信徒の方には、この実りの多い福音的な制度を活用して頂ければと思っています。


1.罪  http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/25431256.html

2.赦し http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/25588434.html

3.煉獄 http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/25696042.html

4.贖宥 http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/25812496.html

5.実践 http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/26057655.html

6. 



このコーナーが始まったのは、Veronicaさんからいただいたリクエストがきっかけです。厚く御礼申し上げます。

贖宥5.実践

(つづきです)

前回までは、贖宥(現在は免償ともいう)という制度がどのようなものか、どのような教えに基づいているかを説明しました。
通常言われているような「聖書と無関係にカトリックの人間が作り出した制度」ではなく、聖書とも整合性のある、神の愛の発露なんだということをご理解いただけたと思います。

今回はついに、贖宥を得るためには具体的にどうすればよいのかをお話したいと思います。
信者でない人には申し訳ありませんが、贖宥はカトリック信徒しか得ることができません。悪しからずご了承ください。


おさらい


少しおさらいしてみましょう。

贖宥とは、罪が既に赦されていることを前提として、教会の定めた特定の条件を満たすことで、果すべき償いの一部または全部が免除されるというものです。
罪の赦しを得るためには、特殊な状況や例外を除き、「改悛の秘跡(ゆるしの秘跡)」を受けなければなりません。秘跡はカトリック信徒しか受けることができませんから、贖宥も信徒に限られています。

さて、贖宥は祈りや信心業などに付与されているものです。
たとえば、ある祈りに「分贖宥(部分免償)」が付いているとします。教会が定めた条件を満たしてその祈りを唱えると、赦された罪の有限の罰の償いの一部が免除される、ということです。
免償の付いている祈りや信心業などは沢山ありますので、今ここで載せることはできません。カトリックの祈祷書をご覧下さい。

それでは、免償を得るための具体的な方法を見てみましょう。
以下は、パウロ6世の使徒憲章『Indulgentiarum Doctrina』に掲載された規定Normaeと、カルメル修道会編『カトリック祈祷書 祈りの友』とを参考しました。


分贖宥(部分免償)


まずは、分贖宥を得るための一般的な条件についてお話ししましょう。
なお、この条件は全贖宥の場合にも共通です。

 1.大罪の状態にないこと
 2.贖宥を得ようという意向
 3.定められた祈りや信心業などをすること

1つ目は分かりますよね。神の恵み(贖宥)をもらおうというのに、神との関係が断絶していてはどうしようもありません。
大罪があれば、あらかじめ改悛の秘跡(ゆるしの秘跡)を受けて、神と和解していなければなりません。

2つ目は当たり前ですね。
朝の祈りなどで一日の心構えを立てる時に、今日一日受けられるだけの贖宥を願う心を起こせば十分のようです。贖宥を死者に譲るのであれば、その旨の意向があればよろしいでしょう。

3つ目も当たり前ですね。
贖宥を得るためには贖宥の付いた事柄を果たさねばなりません。

なお、特別に定めのない限り、分贖宥は一日に何度でも受けることができます。


全贖宥(全免償)


今までお話してきましたように、全贖宥とは果すべき償い(この世での償い、死後は煉獄の苦しみ)の全部を免除するものです。
ですから、全贖宥を受けてすぐに死ぬと、煉獄を通ることなく直に天国に入れるわけです。また、煉獄の霊魂に全贖宥を譲れば、その霊魂はたちどころに煉獄を脱して天国に入ることになります。

非常に大きな恩寵ですので、全贖宥を受けるためには前述の3つの条件に加えて、以下の4つの条件を満たす必要があります。

 1.改悛の秘跡(ゆるしの秘跡)を、定められた業の実行の前後数日以内に受けること
 2.聖体拝領(定められた業を実行する当日が望ましい)
 3.教皇の意向のための祈り(定められた業を実行する当日が望ましい)
 4.小罪を含むあらゆる罪への執着心がないこと

3つ目の「教皇の意向のための祈り」という条件とは、教皇に心を合わせて「主祷文(主の祈り)」と「天使祝詞(めでたし)」を各1回ずつ唱えることです。
定められた業を行う際に、続けて主祷文と天使祝詞を唱えればよいでしょう。

なお、この4つの条件に関して気をつけるべきは以下の点です。

・臨終の際を除き、全贖宥は1日1回しか受けられない。2度目以降は分贖宥。
・上記の4条件の1つもしくは複数を満たさずに全贖宥の付いた業を実行した場合は分贖宥。
・1回の改悛の秘跡で、その前後数日に複数の全贖宥を得ることができる。
・1回の聖体拝領、1回の教皇の意向のための祈りでは、全贖宥を1度のみ受けられる。

大変そう、ですか?
とはいえ、いずれにせよ聖体拝領をしようと思ったら改悛の秘跡を受けなければならないわけですから(罪の状態でなければ別ですが)、セットみたいなものですね。
全贖宥を得ようという日は、ミサ前に告解して、あらゆる罪への執着心を断つ決心を立てて、心置きなく聖体を拝領して、定められた業を実行すればよろしいのでしょう。


贖宥のススメ


5回にわたって、贖宥(免償)についてお話ししてきました。
この神の大きな愛の制度をより身近に感じて頂ければ幸いです。

贖宥は私たちにとって助けとなり慰めとなるのはもちろんですが、何よりも煉獄の霊魂にとって大きな助けとなります。
天国に入るために、果し終えなかった償いを清めの火の苦しみであがなっている煉獄の霊魂にとって、その苦しみを軽減ないし短縮するのは私たちの祈り、贖宥の他にありません。贖宥はどれほどの喜びとなることでしょうか。

また、私たちにとっても、霊魂が天国に入るのを助けるということは、大きな愛徳の業であり、喜びでもあります。

先ほど申しましたように、特に分贖宥は、大罪の状態でなければ、その気さえあれば毎日山ほど得ることができます。
これをお読みになったカトリック信徒の皆様も、どうぞ煉獄の霊魂のために祈り、贖宥を活用していただければと思います。

贖宥4.贖宥

(つづきです)

贖宥(免償)とは


それではいよいよ贖宥(現在は免償ともいう)について「カテキズム」を見てみましょう。

免償は、罪科としてはすでに赦免された罪に対する有限の罰の神の前におけるゆるしであって、キリスト信者はこれをふさわしい心構えを有し、一定の条件を果たすとき、教会の介入によって獲得します。教会は救いの奉仕者として、キリストおよび諸聖人のいさおしの宝をもって分配し付与します(「カテキズム」1471)


贖宥(免償)の基本構造は上にあるとおりです。
贖宥とは、
「改悛(ゆるし)の秘跡によって罪を赦され、天国に入る資格を持ってはいるが、天国に入るにはまだ十分に清くない」人が、
天国にふさわしい状態になるために「償い」(この世での償いの業、煉獄での「清めの火」の苦しみ)をするのを助け、
その苦しみやその期間の一部または全部を免除するものです。

ところで、死者はどうやって煉獄での火の苦しみの(一部または全部の)免除を獲得できるのでしょうか。

すべての信者は、部分免償または全免償を自己自身のために収受し、または代祷の様式で死者に付与することができます(「カテキズム」1471)


生きている信者は、自分が獲得した贖宥を死者のために譲ることができるのです。これによって死者は苦しみの一部または全部の免除を得ることができます。これは死者にとって大きな助けとなると同時に、贖宥を譲る信者にとっても大きな善を行うことにもなります。


贖宥の財源


さて、教会はどうやって信徒の償いを免除しているのか。
その人が償いを終えるのに必要な功徳meritumの一部または全部を、教会が代わりに支払ってあげるわけです。下世話な言い方ですけど。
その肩代わりのためのお金(=功徳)はどこから来るかというと、天に積まれた宝の山、つまり「キリストおよび諸聖人のいさおし」つまり功徳の宝庫から分配されているのです。

「御血の一滴だけによっても世界のすべての罪を贖うことができる」
(聖トマス・アクィナス作の聖体賛歌「Adoro Te devote」より)と言われるように、主イエズスが十字架上で自らをささげものとした犠牲の効力(功徳)は、全人類を救ってなお余りある無限の大きさを持っています。

さらに、イエズスは「善業を行って、天に宝を積みなさい」と仰せになりました(ルカ12・33参照)。
初代教会の時代から現代に至るまで、カトリックでは無数の善男善女が主の教えに従って天に宝を積み続けています。

つまり天にはキリストによる無尽蔵の、義人たちによる有限だが莫大な、功徳の宝があり、今も増え続けているのです。
これが「カテキズム」中の「キリストおよび諸聖人のいさおしの宝(1471)」の意味です。


なぜ神は贖宥(免償)を定めたのか


免償は教会を通して得られます。教会はキリスト・イエスによって与えられた、つなぎ、解く権能によって、キリスト者個人の仲立ちとなり、キリストや聖人たちの功徳の宝庫を開き、罪のために受けるべき有限の苦しみ(罰)のゆるしをあわれみ深い御父からいただけるようにします。このようにして、教会は単にキリスト信者を助けるだけでなく、敬神と償いと愛の実践を彼らに促すのです(「カテキズム」1478)


さて、イエズスはこんなたとえ話をなさいました。
主人がしもべたちにお金を預けて長い旅に出た。旅から帰ってきて、預けた金を運用して増やしたしもべには誉めて褒美を与え、金を死蔵したままだったしもべを叱責した
、という話です。(マテオ25・14-30、ルカ19・11-27参照。)

このたとえ話を贖宥に結びつけ(こじつけ?)たのは私の単なる思い付きです。が、この、いわば「恩寵の資産運用」を命じる話のように、教会は天に積まれた功徳の宝を死蔵するのではなく、信徒に分配することで善業の実りを与えると同時に、その恵みを受けた信者が回心して善業に励み、天の功徳の宝庫を一層ゆたかにするように勧めるのです。
「教会は単にキリスト信者を助けるだけでなく、敬神と償いと愛の実践を彼らに促す(1478)」とはそういうことです。


贖宥は神の愛のシステム


ここで話を整理してみましょう。
イエズス・キリストが「善業を行って天に宝を積め」と命じたことは、興味深い事実を意味しています。それは、人の行為には、行為それ自体の価値とは別に、神の前での価値というものがある、ということです。

現世的には耳目を集める行為であっても神の前では無に等しい、とはよく言われること。
ところが、日常的な敬神、ちょっとした苦行(欲求を我慢するなど)、他人へのさり気ない親切、それらは、自分や他人に善を行うことでもあると同時に、神の前でも価値を持っているというのです。
善業はその行為自体の得点と、神の前での得点と、二重の得点になるわけです(神の前での得点が何点かは神のみぞ知る、ですが)。

さて、教会がある祈りや信心業に贖宥を付与するということは、その祈りや信心業が持っている神の前での価値を倍増させる、つまり付加価値を高めることになりますので、信徒がその祈りや信心業を行うモチベーションを高めることになります(何だかビジネス用語的ですなあ)。

聖アウグスティヌスでしたか、「善は他に及ぼさざれば止まぬものなり」という格言があります。善とは自己完結的ではなくて、他の人にもそれを味わってほしいので、他者への善を促す、そういう性質を持っているというのです。
ですから、教会が功徳の宝の一部を切り崩して贖宥を付与すると、その善業を味わった人もしくは行った人自身が善に感じて更に善を他に及ぼし、それぞれ功徳が天に積まれていきますので、投資した以上の(倍々の)収入が天の宝庫にもたらされるのです。
こうして、天の宝庫は目減りすることなく、理論上は増える一方だというわけ。

まさに善業のネズミ講、福音のペイ・フォワード。


贖宥って、まさに神の愛のシステムだと思いませんか?


次回は、いよいよ贖宥を獲得する具体的な方法について見てみましょう。



続きを読む
http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/26057655.html

贖宥3.煉獄

(つづきです) 前回は、罪の2つの結果に応じて、改悛の秘跡を授かり、償いを果す必要があるということを見てきました。それらは生きている信者の話です。死者はどうなるのでしょうか。


償いが終わらずに死んでしまったら?


神の恵みと神との親しい交わりとを保っていながら、完全に清められないままで死ぬ人々は、永遠の救いこそ保証されているものの、死後、天国の喜びにあずかるために必要な聖性を得るよう、ある浄化の苦しみを受けます(「カテキズム」1030)


償いの業をするのはいい。でも、生きているうちに償いの業が終わらなかったらどうなるか。当たり前ですが死後に功徳を積むことはできません。天国に入る資格がありながら、まだ天国に入る準備が終わっていないのです。宙ぶらりんのまま天国にも地獄にも行かずにいるのでしょうか?

その答えは聖書にありました。

使徒聖パウロの書簡に、この世で不完全な仕事しかしなかった者も、「火の中を通ったようにして」救われる、と書かれているんです。
つまり、この世で償いを果し終えなかった者は、清めの火という苦しみによって清められ、天国へ入るのにふさわしい状態になる、ということ。残っている償いの大小によって、火の苦しみの強さや期間の長さは人それぞれ違うでしょうが。

この「浄化の苦しみ」、いわば天国の入場券を持っている霊魂がお風呂に入ってきれいになる過程(プロセス)のことを、カトリックの用語で「煉獄」といいます。ラテン語で「Purgatorium」、文字通り「清めをする場」という意味です。

聖書に「煉獄」という言葉は出てきません。しかし、霊魂が清めを受けるプロセスを想定しないと理屈に合わないというだけでなく、聖書の中にも、煉獄の清めを指し示す箇所がいくつもあります。たとえば先に言った使徒聖パウロの書簡。

イエズス・キリスト以外のほかの土台を、だれも置くことはできぬ。だれかが金や銀や宝石や木や草やわらを用いて、その上に建築するなら、おのおのの仕事ははっきりわかるようになる。かの日がそれを現すだろう。主の日は火の中に現れ、おのおのの仕事の価値はその火によって試されるからである。土台の上に建てた建物がそれに耐えれば、立てた人はその報いを受ける。もしその仕事が焼ければ損失を受けるが、彼自身は火を通るようにして救われる(コリント人への第一の手紙3・11−15)


「ここでは三通りの人が区別されている。第一は、み国から除外される者。第二は、仕事をほめられる者。第三は、仕事は無駄であるが、どうにか救いを得る者である。私たちの考察に役立つのは、第三の部類の人である。つまり、した事は正しくなかったが、自分の過失を償う清めの苦しみを経て救われると言われているものである。」(里脇枢機卿『カトリックの終末論』より引用)


煉獄は聖書的じゃない?


先ほども言ったように、この「清めの苦しみの過程」のことを教会用語で「Purgatorium(煉獄)」というのです。「煉獄」というとまるで地獄みたいですが、実際は天国に入るための準備室(ただし苦しい準備ですが)なんですね。
ですので、里脇猊下は「獄」という字を避け「煉国」と表記していますし、ダンテの『神曲』の古い訳で原語に忠実に「浄罪界」とした例もあります。

よく、「カトリックは聖書に根拠のない教義を勝手に作ってきた、その一つが『煉獄』だ」なんて言われてますけども。
「煉獄」というのは「聖書に書かれている特定の事象」に対して後世の教会が付けた名前ですので、聖書の中に「煉獄」という言葉がないのは当たり前なんですよ。

「天にまします我らの父よ・・・」という祈りを「主祷文(主の祈り)」と呼びますよね。これは、主イエズスが教えてくれた祈りだから後世でそう名付けたのであって、聖書の中に「主祷文」という言葉は出てこない。だからといって「主祷文は聖書に根拠がない、カトリックが勝手に作った祈りだ」とは言えませんでしょう?


煉獄の背理的存在証明


先入観にとらわれて無理に煉獄を否定しようとすれば、少々おかしなことになってきます。
聖書に書かれていることが、互いに矛盾してしまうのです。

「天国に入る資格はあっても完全には清くない状態」というのは、決して例外的なことではなく、むしろ普通のことだと思うのですが、いかがでしょう。
たとえばここに、一人の信仰者がいます。かつて罪を犯したことがあったとしても、悔い改めて赦しを受け、神との関係を保っています。ところが、彼は他人への償いを終えられないうちに死んだ。あるいは、神以外のもの(自分が大事にしていた物など)に対する愛着が少しは残っていた。よくありそうな話ですね。

さあ、仮に煉獄が存在しないとして、彼は天国に入れるでしょうか?

もしも「入れる」とすると、「汚れた人はそこを歩かず」(イザヤ書)等とあるような天国の完全性を損なうことになってしまいます。「すきに手をかけてから、後ろを向く者は、神の国にふさわしくない」(ルカ9・62)ともあります。
果たすべき償いを終えないまま、あるいは被造物への愛着を持ったままで、天国に入れるとは思えませんよね。

とはいえ「入れない」とすると、信仰を持ち神との関係が保たれているにも関わらず、別の理由で天国を拒まれる人が出てくることになります。これは使徒聖パウロの「救いは信仰による」というテーゼに反します。
信仰はあるのに善業が不足していたせいで救われない、などという結論は受け容れがたいのではないでしょうか?

「入れる」も「入れない」も、行き詰ってしまいました。
これは「煉獄は存在しない」という前提が間違っていた、ということになるのではないでしょうか?


余談が過ぎました。煉獄についてはまた別の箇所でお話しすることにしましょう。
続いては、いよいよ贖宥(免償)の話です。



続きを読む
http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/25812496.html

贖宥2.赦し

(つづきです)
贖宥(現在は「免償」ともいう)について話すのなら、そもそもなぜ贖宥という制度があるのか、ということも考える必要があるでしょう。


天国


言うまでもないことですが、人間の最大の目標は救われること、言い換えれば天国に行くことです。
「天国」というとどこかの場所みたいな印象を受けるかもしれませんが、霊魂は物体ではありません。天国が地球上のどこかの国にあるとか、宇宙のどこかの星だとかいうものではありません。
「天国」とは、人間の霊魂が神の御前で、神を直接に見奉るという人間本性の最高の幸福を享受する場のことを指しています。(専門用語で「至福直観」といいます。)

さて、天国は完全な幸福の場だというのですから、聖なる霊魂、つまり罪の汚れも傷もない完全な霊魂しか入ることができないのは、何となくお分かりいただけると思います。
それでは、罪を犯してしまった人は、どうすれば天国に行くことができるようになるのでしょうか?

ご安心を。愛そのものにまします神は、すべての人が救われることを望んでいます。
(これを専門用語で「神の普遍的救済意志」といいます。)
罪を犯しても痛悔するならば、再び神のもとに立ち返ることができるというシステムを、教会を通して与えてくださったのです。

前に、罪には2つの結果があるという話をしました。
1つ目の結果は「永遠の罰」。神との関係が断絶して、天国に行く可能性を完全に失うというものです。
2つ目の結果は「有限の罰」。罪は神との関係を壊すだけでなく、他人に与えた被害を償う義務を生んだり、自分自身の霊魂を歪めてしまったりするというものです。

天国に入るための条件も、罪の2つの結果に対応させて考えることができます。


罪の1つ目の結果に対して


まず1つ目の結果、つまり、神との関係が断絶していたら天国に行けないのは当たり前ですね。
これを何とかして神との関係を取り戻すためのものが、「改悛の秘跡(ゆるしの秘跡)」。告解です。キリストが定めた「7つの秘跡」の1つです。

詳しい説明は省きますが、カトリック信徒が教会で司祭(神父)に自分の罪を告白するものです。司祭が赦しの言葉を唱えると、告白者の罪が赦されます。
イエズス・キリストは使徒に「あなたたちが地上でつなぐものは、すべて天においてもつながれ、あなたたちが地上で解くものは、すべて天においても解かれる」と仰せになりました(マテオ18・18)。

カトリック教会は使徒継承の教会です。司教たちは使徒たちの後継者、教皇(ローマ司教)は使徒の頭聖ペトロの後継者です。キリストが使徒に与えた「赦す」権能を受け継ぐカトリック司祭(神父)は、悔い改めた信徒の罪を赦し、神と和解させるのです。


罪の2つ目の結果に対して


告解して神との関係は回復した、あるいは、もともと小罪しかない場合。
それなら地獄落ちの可能性はないわけです。とりあえず天国に行く資格はあると。

それでも、罪の2つ目の結果、つまり自分自身の霊魂が傷つき汚れているわけです。
イザヤ書に「そこには清い道があって、尊い道と呼ばれ、汚れた人はそこを歩かず」(35・8)とあるように、そのままでは天国に入ることはできません。

罪を犯すことで霊魂に備わってしまった悪い習慣(悪への傾き)を矯正し、まっすぐに戻すためのリハビリが必要です。このリハビリのことを、教会では「償い」と呼んでいます。

秘跡によるゆるしは罪を取り除きはしますが、罪から生じたすべての無秩序を修復するものではありません。罪から立ち直った人は、十分な霊的健康を回復する必要があります。したがって、罪を償うために何かをしなければなりません。すなわち、適切な方法で「弁済する」なり罪を「あがなう」なりする必要があります。この弁済のことを「償い」ともいいます(「カテキズム」1459)


お分かりになるでしょうか?
金口ヨハネでしたか、この話を、弓矢で射られて傷ついた人を罪人にたとえて説明しています。「体から矢を抜くだけでなく、傷口の手当をもせねばならぬ」というものです。
改悛の秘跡によって矢を抜く(「永遠の苦しみ」に対する処置)だけでなく、罪によって生じた霊魂の傷を治す(「有限の苦しみ」に対する処置)必要があるということです。
ウィルスに感染して病気になったら、体内からウィルスを駆逐するだけでなく、弱った体に栄養を与えて健康体に戻す必要がある、と言い換えてもいいでしょう。

高級レストランで行われるパーティーを考えてみてください。招待券を持っていれば、入場資格はありますよね。でも汚い格好では入れてもらえません。それではどうするか。お風呂に入って清潔な服を着て出直してくればいいわけです。
そのために行うのが「償いの業」。善行をしたり祈ったりして功徳を積み、自分で自分の悪への傾きを善への傾きに矯正するんです。不断の自己研鑽ですね。


次回は、死者に対しても神の愛が働いていることを見てみたいと思います。(つづく)



続きを読む
http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/25696042.html

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