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カトリック的。
信徒数13億人でも日本では知られていないカトリック。正統キリスト教会を気楽にご紹介します。

書庫聖書のはなし。

キリスト教といえば、誰もが最初に思い浮かべるのが「聖書」でしょう。しかし、キリスト教の中で聖書がどういう位置付けなのか、分かっている人は少ないようです。誤解の多い「キリスト教と聖書の関係」の話を中心に、聖書についての様々なトピックスを書いていこうと思います。
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キリスト者が毎週日曜日に教会へ行くということは、ご存知の方が多いと思います。

これは、カトリックの「教会の掟」で「主日と守るべき祝日とを聖とし、ミサ聖祭に与るべし」と定められているのです(「主日」とは日曜日のことです)。日曜日には仕事などの俗事を離れ、ミサに与るために教会へ集まるのですね。

それではキリスト者は、なぜ日曜日に仕事をせず、教会に集うことになっているのでしょうか。


1週間が7日間で、うち1日が休日であるわけ


話ははるか昔、この世界が始まった時までさかのぼります。

旧約聖書の冒頭、「創世記」という書物に、天地創造の話が書かれています。
神がこの全宇宙を創造し、そこから時間(歴史)が始まりました。1日目には光、2日目には天空・・・、そして6日目には人間を創り、7日目には休んだ、こう記されています。(注1)

神が6日間働いて7日目に休んだ、このことが「安息日(あんそくじつ)」(労働を休む日)の起源なのです。

時代は流れ、神はモーゼを通して、人間に十か条の掟、「天主の十戒」を与えます。その十戒の第三戒に、「汝、安息日を聖とすべきことをおぼゆべし」とあります。
こうして、週に1回の休日が制度化されたのです。


本来の安息日は土曜日?


「サバトSabath」という言葉を聞いたことがある方は多いでしょう。サバトというのが安息日のことなんです。
ヨーロッパ系の言語では、サバトは土曜日を意味しています(たとえばイタリア語など)。
週の始まり日曜日から金曜日までの6日間は働いて、土曜日には休むということです。ユデア人は今でもこの律法を遵守しており、土曜日には一切の労働を行いません。

・・・あれあれ? 休日は土曜日? 日曜日じゃないの?

そうなんです。聖書に記されているとおり、神は土曜日を休日として定めたのです。
それではなぜ、今では日曜日が休日になっているのでしょうか。



日曜日を安息日にしたカトリック


キリスト者が、日曜日には仕事を休み、教会へ行く理由。それは、カトリック教会の「聖伝Traditio」によるものです。
なぜカトリック教会では、安息日が土曜日から日曜日に変わったのでしょうか。

それは、キリストが復活したのが日曜日だから。
キリストは金曜日に十字架につけられ、三日目つまり日曜日に復活しました。それで日曜日は、「主の日Dies Dominica」と呼ばれる新しい安息日となったのです。

日曜日のことを、フランス語で「Dimanche」、イタリア語で「Domenica」と呼ぶのは、このラテン語の「Dominica」に由来しています。前述のとおり、日本のカトリック教会でも日曜日のことを「主日(しゅじつ)」と呼びます。

ところで、プロテスタント教徒(いわゆる「クリスチャン」と自称する人たち)は、信仰は「聖書のみ」に基づくと主張しています。そして、「カトリックは聖書にない教えや習慣を導入した」といって教会を攻撃しています。

けれどもプロテスタント教徒も、安息日に関しては聖書に従わず、カトリック教会の聖伝を遵守して、日曜日に仕事を休んで教会に集まることが多いようです(注2)。不思議ですね。■



(注1)

ただし、この場合の「1日」は通常の24時間を意味していません。太陽が作られたのが4日目で、それ以前から日数のカウントがなされているのですから、創世記における「1日」が24時間でなく別な時間の継続を意味していることは明白です

世間には、進化論を盾にキリスト教を否定しようとする者、あるいは逆に、創世記を盾に進化論を否定する者(キリスト教原理主義者、ファンダメンタリスト等と呼ばれる一部のプロテスタント教徒)などがいるそうです。両者とも聖書の読み方があまりにお粗末だと言わざるを得ませんね。


(注2)

こう指摘するとプロテスタント教徒から、新約聖書にはキリスト復活後、信者が「週のはじめの日」に「パンを裂くために集まった」云々とあるではないか(使徒20・7)、との反論が出てくると予想されるので、あらかじめ答えておきましょう。
この章句は安息日については何も語っていません。安息日の変更、つまり土曜に替えて日曜の労働を禁ずるような規定が聖書のどこにも存在しないということは、厳然たる事実です。

とはいえ、ここで問題とすべきはむしろ、「聖書をキリスト教の源泉とする」というプロテスタント教の立場そのものでしょう。
先の章句からも分かるように、新約聖書自身がキリスト教の成立と古代のキリスト者たちの生活を物語っているのですから、聖書が書かれる以前にキリスト教が存在したこと、つまりキリスト教は聖書に基づくのではないということは自明です。

キリスト教が存在した(キリストの設立した教会が存在し、その構成員がいた)から聖書が記され得たのであって、その逆ではありません。子が親を産むことはあり得ませんし、作品の後で作者が生まれることもあり得ません。
プロテスタント教の根本ドグマ「聖書のみ」は、明らかな論理矛盾です。


クリスチャンの方に質問です。

どうぞ、皆さんご一緒にお考え下さい。

(答えはこの記事の末尾にあります)




問題

真理の柱であり土台であるものとは何か?







1.神のみことば、聖書だよ!


2.主が設立し常に導いている、教会だよ!


3.いや、オレ的には細○数子も捨てがたいな・・・。







・・・。







・・・・。








まぁ、いろいろな意見というものはあるでしょうけれども。







正解は、







・・・2「教会」です!





聖書を読んでみましょう。
使徒聖パウロのテモテへの手紙1 第3章15節

 をお読み下さい。

(つづきです)  はじめから読むにはこちら http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/38926669.html


◆聖マリアは「無原罪の御宿り」


ルルドに御出現された聖母は、「私は無原罪の御宿りです」とベルナデッタにおっしゃいました。
「無原罪の御宿りImmaculata conceptio」
とは、マリアがその母の胎内に宿った瞬間から、原罪をあらかじめ免れていたということです。これは神の恩寵によるもので、キリストの救いの業を通じて原罪を免除されたものです。
これも神から啓示された真理であり、カトリックの教理の一つです(大勅書『Ineffabilis Deus』1854年、D.S.2800-2804参照)。

この教理も、マリアを神から切り離して考えてしまうと、理解不能になってしまいます。
大天使ガブリエルは、マリアに「めでたし、聖寵充ち満てるマリアAve Maria, gratia plena」と挨拶しました(ルカ1・28)。また、エリザベトを訪問したマリアは、「よろず代の人は、我を幸いなる者と称えんBeatam me dicent omnes generationes」と歌っています(ルカ1・48)
マリアは「神の母」たる女性として、神から絶えることなく特別の恩寵を注がれていたのです。

教皇ピオ12世聖下が回勅『Fulgens corona』(1953年、D.S.3908-3910)でおっしゃっているように、「神が自分のひとり子の母に注いだ甘美な愛について考える時、たとえ短期間であっても罪にけがれ、神の恩恵を断たれた時があったと疑うことは決してできない。神は救い主の功績を考慮して、このようにすぐれた特典をマリアに与えることができたのであって、そうしなかったと言うことはできない。このようにして、救い主の母は、救い主にふさわしい者となったのである」

ちょっと表現が難しいかもしれませんが、要するに、全人類に及ぶキリストの救いの業の功徳が、神の恩寵によって前もってマリアに与えられ、神の母としてふさわしい「清い器」とされたのです。
そういえば、カトリック信徒にはなじみ深い「聖母の連祷Litaniæ Lauretanæ」でも、マリアに「霊妙なる器Vas spirituale」「尊むべき器Vas honorabile」と呼びかけて、「我らのために祈り給え」と願っていますね。


◆聖マリアの「被昇天」


それではいよいよ、「被昇天Assumptio」について見てみましょう。
ご記憶でしょうか、被昇天とは「聖母マリアが地上で生涯を終えた後、肉体と霊魂とともに天の栄光にあげられた」ということです。

これまで、マリアについて聖書を参照しながら見てきましたね。
まず、キリストは「受肉して人となった神」「真の神にして真の人」である、ということから、マリアは「神の母」である、という論理的帰結が導かれました。
ここから、マリアが「神の母」となるために特別の恩寵を授かり、キリストの救いの功徳を前もって与えられることで原罪を免れ、「清い器」とされた、ということも了解されます。

マリアが原罪を免れたということは、これも理の当然として、原罪の結果である死の腐敗を免れ(創世記参照)、肉体と霊魂とが天にあげられた、ということになるのです。

少し長いのですが、美しい文章ですので、教皇令『Munificentissimus Deus』を引用してみたいと思います。


聖なる教父たちと神学者たちのすべての論証と考察の根本的な基礎は聖書である。
聖書は、子と密接に結合され、常に子の使命に参加している神の母をわれわれに示している。
そのため、キリストを宿し、生み、自分の乳で育て、腕に抱きかかえたマリアの霊魂だけでなく、地上の生活を終った後にその体が、主から離れて過ごすということは考えられないことである。
マリアの子であり、神の掟を完全に果したわれわれのあがない主が、永遠の父だけではなく、最愛の母をも尊敬したのは当然である。
その上、キリストはマリアの体を腐敗から守る力を持っていたのであるから、実際にそうしたと信じなければならない。

すでに2世紀から教父たちは、マリアを新しいエヴァと呼んでいることを忘れてはならない。彼女は新しいアダム(キリスト)に従属していたが、原始福音の中にあるように(創世記3・15)、地獄の敵との激戦において、キリストに密接に結びついていた。
そして、異邦人の使徒の書簡において、いつも結びつけられている罪と死(ローマ5・6、1コリント15・21−26、15・54−57)に完全に打勝ったのである。
したがって、キリストの栄光に輝く復活が、決定的勝利の本質的な部分、最終的なしるしであったのと同じように、罪に対するキリストとマリアの共同の戦いもまた、処女マリアの肉体の「栄光」によって終りを飾ったのである。
「この死ぬ者が不滅をまとうであろう時、死は勝利に呑まれた」という聖書のことばが実現すると使徒は言っている(1コリント15・54)

唯一で同一の予定の計画によって、永遠の昔からイエズス・キリストと密接に結ばれていた神の母マリアは、原罪なくして母の胎内に宿り、神の母としても完全に処女であり、神であるあがない主の寛大な協力者であった。
罪とその罰に完全な勝利をおさめた救い主は、最後にこれらの特典の最高の飾りとして、自分の母親の肉体の腐敗を免除したのであった。
こうして、そのひとり子と同じように死に打勝ち、霊魂も肉体もともに天国の栄光にあげられ、そこで「万世の不朽の王」(1チモテ1・17)であるそのひとり子の右に、輝かしい女王としての位置を占めている。


お分かりいただけたでしょうか?
「聖寵充ち満てるマリア」は、その誕生の際には原罪を免れる恵みを受け、その臨終の時には死の腐敗を免れる恵みを受けた、という訳ですね。



マリアの生涯をひとことで要約すれば、「謙遜」に尽きると思います。受胎告知の際の「我は主のつかい女なり、仰せの如く我になれかしEcce ancilla Domini, fiat mihi secundum verbum tuum」という言葉が、常にマリアの根底にあったのでしょう。
私たちもマリアに倣い、「私は主のしもべ(しもめ)、おことばどおりになりますように」という精神をもって生きるよう促されています。

私たちは「神の母」ではないので、原罪から、そしてその結果である死の苦しみから逃れることはできませんが、聖母に倣って謙遜に生き、ついには天の光栄に与ることができるという希望が与えられています。
聖母の祈りに支えられ、生涯、主イエズス・キリストを愛し奉ることができますように、私たちも祈りつつ頑張って生きていきたいものですね。


Ave Maria gratia plena, Dominus tecum. Benedicta tu in mulieribus et benedictus fructus ventris tui, Iesus. Sancta Maria, Mater Dei, ora pro nobis peccatoribus, nunc et in hora mortis nostræ. Amen.
(めでたし、聖寵充ち満てるマリア、主 御身とともにまします。御身は女のうちにて祝せられ、御胎内の御子イエズスも祝せられ給う。天主の御母 聖マリア、罪人なる我らのために、今も臨終の時も祈り給え。アメン。)

8月15日は聖母マリアの被昇天の大祝日でしたね。おめでとうございます!

被昇天Assumptioとは、聖母マリアが地上で生涯を終えた後、肉体と霊魂とともに天の栄光にあげられたということです。
聖母は人間であって神ではありません。自分の力で天に昇ったのではなく、神によって天にあげられので、「昇天」とは言わず「昇天」と言います(これ大事)。

なお、これは神によって啓示された真理であり、カトリックの教理の一つです(教皇令『Munificentissimus Deus』1950年, D.S.3900-3904参照)。


この被昇天、キリスト教の大きな祭日の一つなのですが、プロテスタント諸教団の信者さんの中には、「マリア崇拝ではないのだろうか」「聖書に反する教義ではないのだろうか」と困惑する人もいるかもしれませんね。
私は司祭でも神学者でもないので偉そうなことは言えませんが、昔習った要理を思い出して、簡単にお話ししてみますね。


◆「マリア崇拝」ではない


まず、「マリア崇拝」云々に関しては、「昇天」とわざわざ特別の用語を使って「主の昇天」と区別していることからも分かるとおり、聖母を「神(女神?)」として礼拝するものでないことは明らかです。

キリスト教で聖母が敬われること(カトリックの専門用語で「特別崇敬」といいます)については別の機会に詳しくお話ししたいと思いますが、少し見てみましょう。

キリストは「律法を廃するためではなく、完成させるために来た」(マテオ5・17)と聖書に書かれています。主は、十戒の第四戒「汝の父母を敬え」も完全に実行し、聖母を敬いました。
私たちキリスト者は、キリストに倣うことを求められています。主が敬った方を私たちも敬うのは当然のことではないでしょうか。
また、主は十字架上でマリアを指し、「見よ、汝の母なり」と弟子に仰せになりました(ヨハネ19・27)。マリアはキリスト者の霊的な母となったのです。霊的な母を敬うことは、「律法を完成させる」主のみ旨に従うことではないでしょうか。


◆被昇天の聖書的根拠を知ろう


さて、続いての問題は「聖母の被昇天は聖書に反しているのではないか」という点ですね。

そもそも「キリスト教が聖書に由来するものと考える」「聖書を盾にとって教会を批判する」ことの問題点については、以前に別の記事 http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/36117652.html で書きましたので、ここでは取り上げません。
いずれにせよ聖母の被昇天は、神の啓示であるだけでなく、聖書の記述からも必然的に導き出される論理的帰結なのです。順を追って見ていきましょう。


◆聖マリアは「神の母」


我らの主イエズス・キリストが「受肉して人となった神」であることは了解済みのことと思います。ヨハネ福音書の冒頭に「みことばは人となり、我らのうちに住み給えり」(ヨハネ1・14)とあるとおりです。
主イエズス・キリストが「神であると同時に人間である」ならば、マリアは神(子なる神)を生んだ、「神の母」であると言うことができるでしょう。

かつてネストリウス派という異端は、「キリストが神であると同時に人間である」ことを否定し、マリアは「キリストを生んだ者(クリストトコス)」ではあっても「神を生んだ者(テオトコス)」とは呼べない、と主張しました。
これに対し431年のエフェゾ公会議は、キリストにおいて神性と人性とが結合しているという真理を確認し、マリアは「テオトコス、神の母」であると宣言しました。

このように「神の母」という称号は、キリストが私たちの救いのために真に苦しみ、死に給うた「真の神であり真の人」であるという(聖書的)事実に由来するものです。
マリアを「神の母」と讃えることは、取りも直さず主イエズス・キリストを救い主として讃えることなのです。


(つづく)

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