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カトリック的。
信徒数13億人でも日本では知られていないカトリック。正統キリスト教会を気楽にご紹介します。

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書評なんて大それたものではありません。我が家の本棚からおすすめの本を取り出して紹介しつつ、雑文を書いています。
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おすすめの本・目次


カトリックは、日本のキリスト教の中で一宗派としては最も文献資料が充実しているそうです。
しかし、一般の書店のキリスト教コーナーをのぞいてみると、決してカトリック関連書籍が豊富に陳列されているとはいえません。(なにしろ日本では少数派ですからね…)
なかなかカトリック関連の良書にお目にかかる機会は少ないのが実情です。

また、不幸なことですが、現代の日本人カトリック司教や司祭の書いた本の中には、カトリックの教えを誤解させるような内容のものが無いわけではありません。
(このブログでは出来るだけネガティブな話はしたくないので、そういった本には触れない予定です。)

一般に、正統的な本を見分ける方法として、扉のページ付近や奥書を見るというものがあります。
「Imprimatur」とか「nihil obstat」と書いてあれば(「印刷差し支えなし」という意味)、教会の権威者によってチェック済みということですから、安心して読むことができます。

けれども、教会のお墨付きでなくとも正統的な良書は数多くあります。
ここではそのような正統的な良書のうちで一般向けの本や、カトリックに対する理解を深めるのに役立つ本を紹介していきたいと考えています。



『カトリックの信仰』(岩下壮一)
 http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/36780278.html

『永遠の常識』(石橋理)
 http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/37391216.html

『ローマのガリレオ』(W.シーア・M.アルティガス)

  http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/39890508.html
  http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/39968476.html

『けんそんのしおり』(教皇レオ13世)
 http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/41213359.html


けんそんのしおり

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キリスト者にとって、第一にこころがけるべき美徳とは何でしょうか。


それは「謙遜 humilitas」の徳です。


現代日本語では、「謙遜」という言葉は「謙遜する」と動詞的に使うことが殆どで、「誉められた時に、その賛辞に値しないと否認すること」といった意味で使われることが多いようです。少し偽善的なニュアンスもありますよね。

一方、これはキリスト教(カトリック)独特の使い方なのかもしれませんが、「謙遜」という言葉を、「謙遜な人」「謙遜に生きる」というように形容詞的(形容動詞的)に使います。和語で言えば「へりくだり」となります。
この場合、先に挙げたような偽善的な意味合いはありません。また、通常「へりくだり」という時に連想されるような、奴隷根性的な弱々しいニュアンスもありません。

謙遜の徳とは、まず自分自身を知ること、自分の長所や才能は神より与えられたものであって、自分自身は無に等しい者であると知ることから始まります。
そして、確固たる自我を持ちながらもそれを主張せず、世間的な困難(貧しいこと、軽蔑されること、無名であること、等々)を雄々しく受け止めること、これが謙遜です。
世間において身を低くすることにより、天において身を高めることになります。
聖書にも、幼子のようにへりくだる者だけが天国に受け入れられると記されています。

謙遜の模範は、何よりもまず主イエズス・キリストおんみずから示してくださいました。
神でありながら人となり、養父聖ヨゼフと聖母マリアに孝を尽くし、ナザレトの一大工として目立たず働き、ついには人類の救いのために、全人類から礼拝されるべき方でありながら十字架の死をすすんで受けられたのです。
主の愛とおん苦しみを思う時、どうして私たちが、このちっぽけな私たちが、自分を誇ることができるでしょうか? 世間での成功を求めることができるでしょうか? 他人よりも愛されたい、目立ちたい、称賛されたい・・・そんなことは余りに下らないことではないでしょうか。
主ご自身が、「わたしは心の柔和な、謙遜な者であるから、わたしに倣え」(マテオ11・29)と仰せになっているではありませんか。


それにしても、「謙遜」とは根本の徳でありながら、生涯達成することのできない、困難な徳です。
そして、謙遜の反対、高慢(自分をひとかどの者と思い、驕り高ぶること)はすべての罪の源となると言われます(ルチフェルは天使の階級中でも高位にありながら、神に等しいものたらんとして天から追放されたと伝えられています)。
キリスト者の生活の根本は、この困難な謙遜の徳を実践することにあるといっても過言ではありません。


今回紹介する『けんそんのしおり』は、今から百年ほど前、教皇レオ13世によるものです。本というより小冊子に近いです。
原題を『La Pratica dell’umilitá』といい、「謙遜の実践」とでも訳せるのでしょうが、内容が小段落ごとに謙遜を勧める訓戒を記すという形式になっていて、気が向いた時に適当にページを開いて読むことができるので、まさに「しおり」という感じですね。
我が家にはこれが2冊あり(表紙が黄緑色の旧版と現在の青色のもの)、私は1冊を持ち歩いています。折を見ては開いて、思い上がりがちな自分を戒めるために使っています。

役に立つ信心書って、絶版になっていたりして入手困難のことが多いのですが、この『けんそんのしおり』は順調に版を重ね、出版元のドン・ボスコをはじめ、カトリック書店で容易に手に入れることができます。
良書が容易に読めるのは大変嬉しいことです。
平易な文体に訳してありますので、どなたでも気軽に読むことができます。おすすめです!


序文に、謙遜を求める者は聖体の前にひざまずき、希望を持って次の祈りを唱えるように勧められています。
この祈りを紹介して、記事を閉じたいと思います。


心の柔和、けんそんなイエズス、私の祈りをききいれられよ。
とうとばれようとののぞみより、イエズス、私を救われよ。
愛されようとののぞみより、イエズス、私を救われよ。
もてはやされようとののぞみより、イエズス、私を救われよ。
うやまわれようとののぞみより、イエズス、私を救われよ。
称賛されようとののぞみより、イエズス、私を救われよ。
選出されようとののぞみより、イエズス、私を救われよ。
相談をもちかけられるようとののぞみより、イエズス、私を救われよ。
ていねいにあつかわれようとののぞみより、イエズス、私を救われよ。
はずかしめられるおそれより、イエズス、私を救われよ。
軽んじられるおそれより、イエズス、私を救われよ。
拒絶されるおそれより、イエズス、私を救われよ。
ざんげんされるおそれより、イエズス、私を救われよ。
おき忘れられるおそれより、イエズス、私を救われよ。
あざけりを受けるおそれより、イエズス、私を救われよ。
ののしりを受けるおそれより、イエズス、私を救われよ。
うたがいを受けるおそれより、イエズス、私を救われよ。
自分よりもほかの人が愛されることを喜ぶよう、イエズス、私を助けられよ。
自分よりもほかの人が尊重されるのを喜ぶよう、イエズス、私を助けられよ。
自分よりもほかの人がよろこび迎えられるのを好むよう、イエズス、私を助けられよ。
自分はしりぞけられ、ほかの人はもちいられるのを喜ぶよう、イエズス、私を助けられよ。
自分はみすてられ、ほかの人は称賛されるのを喜ぶよう、イエズス、私を助けられよ。
すべてにおいてほかの人がさきにえらびだされるのを喜ぶよう、イエズス、私を助けられよ。
自分の徳がすすめば、ほかの人はそれ以上完徳にすすむことを喜ぶよう、イエズス、私を助けられよ。



◆書籍データ

著者 教皇レオ13世
訳者 デランジェラ神父
書名 けんそんのしおり
出版社 ドン・ボスコ社
ISBN 4-88626-042-X
価格 250円


(つづきです)
始めから読むにはこちら http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/39890508.html


前回、カトリシズムと科学との関係について、また「ガリレオ裁判」について、通説は間違っているんじゃないかというお話をしました。

これらの問題について、(偏った先入観を排し)科学史の立場から検証したものが、
今回ご紹介する『ローマのガリレオ』です。
(前置きが長くなりました・・・)

著者は、ウィリアム・R・シーア教授とマリアーノ・アルティガス教授。
シーア教授は、国際科学史・科学哲学協会および国際科学史アカデミーの元会長で、パドヴァ大学科学史「ガリレオ講座」の教授。
アルティガス教授はナバラ大学科学哲学教授で、物理学と哲学の学位を持つカトリック司祭でもあります。
両氏ともに、ガリレオ問題を論ずるに当たっては最適任者と言えるでしょう。


ここでは本書の詳しい説明は省きますが、まず行われているのがガリレオ神話の解体と言ってよいでしょう。
ガリレオは、「宗教権威に挑戦する孤高の学者」ではなく、生涯を通じて教会に忠実なカトリック信徒でした。
また、「孤高の学者」というよりは「宮廷での名声を求める世俗的な人物」という一面もあったようです。
どうやら彼のそういう性格が、問題を引き起こすことになったと考えられます。


当時のヨーロッパは、宗教改革とそれに続く対抗宗教改革の激動の時代でした。教会は、異端思想の出現に神経を尖らせていました。教会にとっても科学にとっても不幸な時代だったと言えましょう。

そんな中、ローマへ自分を売り込みに行ったガリレオは、懸命な営業努力のかいあって、高位聖職者たちの知遇を得ることができました。地動説についても好意的に受け止められたようです。
そのためガリレオは、地動説について大っぴらに語り、さらには自分の専門外である神学や聖書について、独自の主張をするようになっていったのです。
これは、とりわけ当時の情勢にあっては、危険なことでした(特に、ガリレオは地動説を証明しておらず、自説の根拠を示せなかったということを思い出す必要があります)

ガリレオと懇意にしていたベラルミーノ枢機卿は、地動説を支持しない方がよいと勧め、ガリレオは口頭・著述を問わず、その通りにすると誓約しました。これまたガリレオにとって大きな失敗でした。
後に地動説に基づいて異端説を唱えたかどで裁判沙汰になった時に、この誓約を記した文書が出てきたのです。ガリレオが高位聖職者の前で誓ったことを破って地動説を公に支持する本を出版した、つまり偽誓したということで大いに審問官の心証を損ねることになりました。

結局、ガリレオは有罪判決を受け、禁固刑に処せられることになりました(死刑宣告を受けたという俗説は間違い)。しかしすぐに、この判決は自宅謹慎に変更されました。高位聖職者たち、特に教皇ウルバノ8世がガリレオに寄せていた友情のほどがうかがい知れるエピソードです。

教会にとっては、証明されていない科学説を振りかざし、知りもしない神学・哲学の分野で異端的な説を唱えた男を、正当に裁き、不当なほどに軽い刑を与えることでむしろ温情を示した、程度の意識しかなかったのではないかと私は思います。
しかし、ガリレオの仮説が後に真実であると証明されたために、このさほど大きな意味を持たなかったかもしれない裁判が、教会を攻撃するための恰好のネタとして使われるようになってしまいました。


科学と宗教、信仰と理性、そしてガリレオ裁判の問題をどう捉えるか、実際に『ローマのガリレオ』をお読みになって考えていただければと思います。



◆書籍データ

著者 W.シーア・M.アルティガス
訳者 浜林正夫・柴田知薫子
書名 ローマのガリレオ
出版社 大月書店
ISBN 4-272-44032-2
価格 2800円

『ローマのガリレオ』

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今回は少し趣向を変えまして、純然たる科学史の本を紹介してみようと思います。

世間には、「カトリック教会は科学を迫害した」と思い込んでいる人がいるようです。
しかし、カトリックが科学に反対するなどということは、カトリシズムの本質からしてありえないだけでなく、歴史的事実にも反しています


以前、カトリシズムは啓示と理性の両輪からなっているという話をしました(http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/22552475.html)。
理性を「娼婦」と蔑んでプロテスタンティズムという新しい宗教を作ったルターさんと異なり、カトリックでは理性を神の賜物の一つとして大切にしています。科学も信仰も、方法は違っても目指すところは同じ客観的な「真理」です。その点では、科学者が研究するのも修道者が祈りかつ神学を修めるのも、変わるところはありません。
事実、カトリックの司祭や修道者が同時に科学者として活躍することがよくあります。
また、バチカンには「教皇庁立科学アカデミー」という組織がありますが、これは実に400年以上の歴史を誇っています。


科学史を振り返ってみても、カトリック教会が科学の発展を阻害したなどという事例はどこにも見つかりません。
それどころか、歴史に名を残す偉大な科学者たちの多くはカトリックだったりするのです。

聖大アルベルト(アルベルトゥス・マグヌス)をご存知ですか? 彼はドミニコ会の修道士で、中世ヨーロッパを代表する自然科学者です。
近代では、「遺伝学の父」と称されるグレゴル・ヨハン・メンデルが有名ですね。「メンデルの法則」を発見したアウグスチノ会の修道院長です。
他にも、ベーコン、コペルニクス、デカルト、パスカル、ラボアジエ、アボガドロ、アンペール、等々、名前を挙げていけばきりがありません。

もっと身近で、カトリック教会が科学に貢献している例を挙げましょうか。
現在の太陽暦を「グレゴリオ暦」というのはご存じですよね。これは、教皇グレゴリオ13世から来た呼び名なんです。それまで使われていた太陽暦「ユリウス暦」は、年月が経つにつれて暦の日付と実際の日付が大きく離れてしまいました。そのため、教皇はより正確な暦を作ることにしたのです。これは誤差がほとんどない優れた暦だと言われています。
ところでこの「グレゴリオ暦」、プロテスタント国家では100年以上たっても採用されませんでした。カトリック科学者の研究成果など受け入れられない、という風潮が強かったのでしょうね(坊主憎けりゃ袈裟まで憎い?)。



いずれにせよ、カトリック教会に、科学を迫害「していない」証拠を挙げさせるのは筋違いでしょう。
挙証責任は、教会が科学を迫害「した」と主張する側にあります。
ところが、カトリックを非難する人たちから「教会が科学を迫害したという実例」を聞かせてもらったことは一度もありません。どうやら、彼らにとっては「教会イコール悪」なので、「悪である教会は科学を迫害したに違いない」という思い込みで言っているようなんですね。困ったものです。

そんな人たちが、ただ一つの論拠として挙げているのが、いわゆる「ガリレオ裁判」です。
いわく、「ガリレオは地動説という科学的真理を発見したが、天動説を教義としていたカトリック教会はガリレオを宗教裁判で有罪とし、科学を迫害した」のだそうです。

しかし、この通説は正しいのでしょうか?
ちょっと考えるだけで、この通説には多くの矛盾や間違いのあることがわかります。

ガリレオは地動説を「発見」したのでしょうか? 地動説の提唱者はコペルニクス(カトリック司祭)です。ガリレオは地動説の発見者でもなく、「証明」したわけでもありません。地動説を宣伝したに過ぎません。(ちなみに地動説が証明されるのはニュートンまで待たねばなりません。)

カトリック教会は天動説を「教義」としていたのでしょうか? カトリックでは「教義」は厳密に規定され、明文化されています。「漠然と信じられている事柄」というような曖昧なものではないのです。カトリックが天動説を宗教的の教義としたなどという事実はありません。天動説は、「当時の通説」であったに過ぎないのです。
(そもそも、カトリック教会が保持しているのは「信仰と道徳」に関する真理であって、科学についての不可謬性を教会が主張したことなどありません。)

カトリックは科学上の新説を断罪したのでしょうか?
ルネサンスの担い手であるカトリック教会は、芸術や科学や新技術のパトロンでした。これをキリスト教の「腐敗」と見なして宗教改革を起こしたのがルターさんです。ルターさんなどのプロテスタントこそが、地動説やコペルニクスを攻撃したのだそうです。

ガリレオは何の罪で有罪とされたのでしょうか? カトリックが地動説を異端とみなしたということ自体、どうも史実なのか疑わしいのです。 前にお話した「グレゴリオ暦」策定の作業で、教会はコペルニクスの地動説も計算に使っているのですから。
ガリレオが有罪になったのは事実ですが、後にも先にも、地動説のゆえに有罪になった人はひとりもいないのもまた事実です。一体ガリレオに何があったのでしょうか?


(つづく)


続きを読む http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/39968476.html




2014年追記:

記事中のバチカン科学アカデミー、iPS細胞の研究でノーベル賞を受賞した山中伸弥教授も会員です(2013年選出)。

『永遠の常識』

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前回は学生やインテリ予備軍向けのカトリック入門書を紹介しました。
今回は、一般向けの本です。入手するのも簡単だと思います。

この本は、1965年から68年のあいだ『聖母の騎士』という雑誌(あの聖マキシミリアノ・コルベ神父が日本に来て創刊した雑誌です!)に連載された「カトリック研究室」というコーナーをまとめたものです。
一般読者から寄せられた質問をもとに、カトリックの真理、つまり「永遠の常識」を愛情に満ちた語り口で説明しています。

各項のタイトルを見てみると、こんな感じです。たとえば…

現代に宗教は必要か
キリストは偉人か神か
奇跡はマジックか
マリア信心はいけないか
宗教はどれでもよいか
独善的な宗教か
中世紀は暗黒時代か

…といった具合です。


この中には美しい言葉もあります。

あなたはしあわせでないから神の愛が信じられないといいます。だが神の愛を信じ、それに応えようとしないで、どうしてしあわせになれるでしょうか。
慈悲は一方的なものであり得ます。しかし愛は常に応えを待つものです。あなたが愛そうと努めるなら、あなたはすぐに神の愛を見つけるでしょう。あなたの存在、あなたのいのち、あなたの生活のすべてが神の愛に溢れているはずです。喜びも悲しみもすべてを包む神の愛―。
(153-154頁)

日本の常識は世界の非常識、という言葉がありますね。
同じく、今の世間の常識は、神の永遠の観点からすると非常識なのかもしれません。

この本で「永遠の常識」に触れてみるのをおすすめします。
今まで常識と思っていたことが、いかに非論理的だったか気付くことになって面白いと思います。


◆書籍データ

著者 石橋理
書名 永遠の常識
出版社 聖母の騎士社(聖母文庫)
ISBN 4-88216-060-9
価格 500円

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