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カトリック的。
信徒数13億人でも日本では知られていないカトリック。正統キリスト教会を気楽にご紹介します。

書庫どちりな・きりしたん

真理は永久不変ですから、カトリシズムが神に啓示されたものであり真理であるなら永久にカトリック教理は変わらないはず。実際、今から400年前の日本で出版された教理書『どちりな・きりしたん』の内容は、今のカトリック教会で教えられていることと見事に一致します。我が国が世界に誇る稀覯を現代語でわかちあいましょう。
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十字架のしるし 3


二つ目の唱え方

弟子 一つ目の唱え方は分かりました。もう一つの唱え方を教えてください。

師匠 もう一つは、右手を額から胸へ、左の肩から右の肩へ、十字架のしるしをするものだ(注1)。この時、「In nomine Patris et Filii et Spiritus Sancti. Amen.」と唱える。これは、「父と子と聖霊とのみ名によりて、アメン」という意味だよ。「イン・ノミネ・パトリス」と唱える時には手で額を指し、「エト・フィリイ」で胸を指し、「エト・スピリトゥス」で左肩、「サンクティ」で右肩を指すんだ。

 この唱え方は何のためですか。

 私たちを天主の似姿としてお造りになった天主、すなわち、聖父・聖子・聖霊の三つの位格personaにして一体にまします天主を表し、礼拝するためだ。(注2)

 その他に別の理由がありますか。

 主イエズス・キリストが十字架上で私たちをお救いになったことを表すためだ。

 この十字架のしるしは、どのような時に唱えるものですか。

 何か行動を始める時、寝る時・目覚めた時、家を出る時、あるいは教会に入る時、食事の始めなどに唱える。それから特に、苦難に直面した時に唱えるね。

 この十字架のしるしを色々な機会にするのは、どういう訳があるのですか。

 天主が私たちを悪から救ってくださるように唱えるのだから、いつでも、どのようなことにでも、十字架のしるしをするのがいいんだよ。

 何か行動を始める前に唱えるのは、どのような意味がありますか。

 その行動が私たちの敵によって妨げられず、天主への奉仕となり、また天主の栄光を表すものとなるようにするためなんだ。


注1 十字架のしるし

俗に「十字を切る」と呼ばれるのがこれである。なお東方正教会では右肩から左肩へ手を動かす。いずれにせよ、正統キリスト教では内心で信ずると同時に外的行動でも信仰を示すべきとされ、こういった象徴的身振りによっても信仰を宣言するのに対し、近代に成立したプロテスタント教では信仰は個人の内面の問題に過ぎないとされ、外的に表現すことは偽善として忌避される。
日本ではキリスト教に対する無知が蔓延しており、プロテスタントでは十字架のしるしが行われないことを知らない者も多い。またテレビや映画などで(「十字」という言葉に引きずられてであろう)「左右・上下」の順で十字架のしるしをしていることがある(正しくは「上下・左右」の順)。

注2 聖三位一体

天主は唯一であるが、聖父・聖子・聖霊の三つの位格(ペルソナ)があり、これを「三位一体Trinitas」と呼ぶ。三柱の天主があるのではない。後の章で詳述されるので、そちらを参照のこと。
十字架のしるしをしながら聖三位の名を呼び、礼拝するのである。

十字架のしるし 2


一つ目の唱え方

弟子 キリスト者は十字架のしるしを何通りに唱えるのですか。

師匠 二通りあるよ。まず一つ目だが、右の親指で額と口と胸に十字架のしるしをするんだ。(注1)

 その3回のしるしをする時には、何と唱えるのですか。

 「Per signum crucis de inimicis nostris libera nos, Deus noster. (我らの天主、十字架のしるしによりて我らを敵より救い給え)」と唱えるんだ。
「ペル・シニュム・クルチス(十字架のしるしにより)」と唱えて額に親指で十字架のしるしをする。次に「デ・イニミチス・ノストリス(我らの敵より)」と唱えて口に十字架のしるし。最後に「リベラ・ノス、デウス・ノステル(我らを救い給え、我らの天主よ)」と唱えて胸に十字架のしるしをするんだ。

 額、口、胸の三箇所に十字架のしるしをするのはどういう意味があるのですか。

 額にしるすのは、天主の助けによって悪い思いを取り除くため。口にしるすのは、悪い言葉を口にしないようにするため。胸にしるすのは、心から生じる悪い行いを避けるためなんだ。
十字架ほど悪魔が恐れるものはないから、私たちはいつも自分に十字架のしるしをすることが大切だよ。というのも、悪魔は霊である(注2)から、どんな剣をもってしようと恐れはしない。けれども、主イエズス・キリストが十字架の上で亡くなったことによって悪魔は捕らえられ、人は自由になった。悪魔は、自分から悪魔に近づく者以外には害を与えることができなくなった。それで、悪魔は非常に十字架を恐れるんだ。

 主は悪魔を捕らえられたのに、どうして悪魔は人間に害を与えることができるのですか。

 たとえで説明すると、鎖に繋がれた虎や狼は、それらのそばに近づく者にだけ噛み付くことができるように、主イエズス・キリストが十字架上で悪魔を捕らえられたといっても、罪によって自分から悪魔のそばに近づく者には悪魔が害を与える、ということだね。何であれ大罪を犯す時は悪魔のそばに近づき、回心して罪を捨てようとする時に悪魔のそばから退くわけだ。
こういったことすべてが、十字架の上でなくなった主の功徳によるものだということを悪魔はよく知っているから、十字架を非常に恐れるんだ。聖ヒエロニムス(注3)が言っているように、犬が打たれた杖を見て逃げるようなものだね。
聖グレゴリウス(注4)があるユデア人について書いているんだが、その男は信仰を持たず、十字架を崇敬せず、むしろ軽んじていたんだけれども、ある時に多くの悪魔が群がっているところに出くわして恐れおののき、危害を加えられないように自分に十字架のしるしをした。すると悪魔は「信仰を持たぬ愚か者であるが、十字架のしるしをするので害を与えることができない」と言って、たちまち逃げ去ったということだ。信仰を持たない者ですら十字架のしるしによって悪魔を祓った(注5)のだから、善いキリスト者が唱えるのならどうなるだろうかね。


注1 十字架のしるし

「人は心で信じて義とせられ、ことばで宣言して救いをうける」(ローマ10・10)
「信仰があると自称しても行いがなかったら何の役にたとうか」(ヤコボ2・14)

キリスト者は、ただ内面で信じるだけでなく外面にもその信仰を表すことを求められている。キリスト者として自分が天主の側に立つ者であることを体で表現し、天主の恩寵を祈り求めるのが、「十字架のしるし」(俗に「十字を切る」という)である。
本文で先に挙げられている額・口・胸に十字架のしるしをする方式は、ミサ聖祭中、聖福音書朗読に際して行われるのと同じである(但しその時には「Per signum crucis…」は唱えない)。本文後述の通り、「思い・言葉・行い」において福音の精神を受け入れ、実行することができるように祈願するものである。

注2 悪魔は霊的実体

人間は霊魂と肉体とが結合したものであるが、物質的な肉体を持たない、より高次の実体も存在し、これを霊または「純霊」と称する。天主は言うまでもなく霊である。天主によって創造された純霊を一般に天使Angelusと呼ぶ。物質界に無数の動物が存在するように、霊的領域においても低次(と言っても物質的肉体を有する人間より高次である)から上は天主に至るまで、様々な階梯の霊的実体が存在すると推測され、聖書にも無数の天使の実在することが記されている。
さて、悪魔もまた純霊(天使)である。万物を創造した天主が「よしとして満足された」(創世1・31)とあるとおり、悪魔も本来は善き天使であったのだが、自己の卓越性に酔い天主に反逆したために恩寵を失い、永遠の断罪を受けた。「私は天にひらめく稲妻のように、サタンが落ちるのを見た」(ルカ10・18)。悪魔は人間を罪に誘惑して天主から遠ざけ、その霊魂を破滅させようとする。
なお、近代の一部の学者は悪魔の実在を否定し、「悪魔とは人間の持つ悪しき意志の寓意である」と説くが、そのような教説は霊的実体たる悪魔の実在を繰り返し語る聖書と対立するばかりか、物質界において下等生物から人間までの無数の階梯があるのだから、存在者の最高位である天主と人間との間にも同様の霊的存在の階梯があるとする極めて妥当な推論を無視する謬説と言わざるを得ない。

注3 聖ヒエロニムス

?年〜419年。聖人(祝日:9月30日)、司教・教会博士。
聖イエロニモとも。四大ラテン教父の一人。彼がラテン語に翻訳した聖書は「ヴルガタVulgata」と呼ばれ、改訂を加えられつつ現在でもカトリック教会の規範版となっている。

注4 聖グレゴリウス

540年〜604年。聖人(祝日:3月12日)、教皇・教会博士。
第64代教皇グレゴリオ1世(位590年〜604年)、四大ラテン教父の一人。その徳性と業績により「大Magnus」を冠して「聖大グレゴリオ」と呼ばれる。グレゴリオ聖歌は彼の名にちなんだもの。

注5 悪魔祓い

「信じる人々は私の名によって悪魔を追い出し」(マルコ16・17)
悪魔は通常、人間に対して直接間接に働きかけて罪へと誘惑するものであるが、稀に人間に憑依することがあり、一般に悪魔憑きと呼ばれる。イエズスはその公生涯の間に度々悪魔祓いexorcismusを執行し、弟子たちにも悪魔祓いには「祈りと断食」が必要であると説いた(マルコ9・29)。カトリック教会の下級聖品には、聖職位階の一つとして祓魔師(exorcista、所謂エクソシスト)が存在する(但しそれは飽くまで名目上の階級であり、実際には司教の任命を受けた司祭等が祓魔師、エクソシストとして悪魔祓いの儀式を行っている)。
本文のユデア人の挿話はもちろん悪魔憑きとは関係ないが、悪魔の攻撃を回避するために十字架のしるしが有効であること、その有効性が信者であるか否かに依存するのではなく、天主が十字架に賦与した威力によることが示されていて興味深い。十字架は本来処刑具であるが、主イエズス・キリストの救世の祭壇となったことにより比類ない栄光を帯びることとなったのである。

十字架のしるし 1


弟子 キリスト者のしるしは何ですか。

師匠 聖なる十字架のしるしだよ。

 それはどういうわけですか。

 私たちの主イエズス・キリストは、十字架の上で私たちを自由にしてくださったからだ。だから、キリスト者は皆、私たちの光明である主イエズス・キリストの尊い十字架に対して、心を尽くして信心を持つことが大切なんだ(注1)。私たちを罪から解放するために、その十字架につけられることを主はお望みになったのだから。

 自由にしてくださったというのは、どういう意味ですか。

 私たちが先祖代々、悪魔の支配下におかれていたのを解放してくださったということだ。(注2)

 悪魔の支配下というのは、どういうことですか。

 悪魔と、私たち自身の罪との、奴隷である、ということだ。主のみ言葉に、「罪を犯す者は悪魔の奴隷である」というものがある(注3)。だから、人がもし大罪peccatum mortaleを犯したなら、悪魔がその人の支配権を握ることになり、その奴隷になるということだね。
これに対して、主が十字架につけられるというご生涯をもって制定された洗礼を受け、また改悛の秘跡(注4)を受けるなら、主イエズス・キリストは恩寵gratiaを降してその人のすべての罪を赦してくださるんだ。それで、主は十字架の功徳meritumによって、悪魔に囚われていた私たちを贖ってくださった、というわけだ。
奴隷に落とされていた人を贖って自由の身にすることは、本当に深い恩義だよね。それにまた、自分を奴隷にした者の恐ろしさを思い知れば、贖われた恩義も一層よくわかるというものだ。奴隷だったときの主人が冷酷な扱いであったほど、そこから贖われた時の恩も深くなるだろう。だから、主イエズス・キリストが、恩寵をもって悪魔の手から罪人を取り返して救ってくださったという恩義は、どれくらい深いことだろうか。


注1 聖十字架の崇敬

十字架は古代の処刑具だが、イエズス・キリストが十字架上で人類の贖いのいけにえとなり救済をもたらしたことから、キリスト者にとって犠牲を奉献する祭壇、また死に対する勝利を意味するようになった。教会には磔にされたキリスト(磔刑像)のついた十字架が掲げられ尊重される。
なお、一部の宗派(プロテスタント諸教団)では磔刑像を偶像礼拝だとして忌避し単なる二本の棒の十字架を用いるが、それが悪意によるのでなければ単なる無知による誤解であることは明らかである。
「聖十字架の像・・・を崇敬する事は、理性と古い伝承に従ったことであり、ふさわしいことである。この崇敬は、原型となったものに向けられているからである。したがって、イエズス・キリストの聖画像を尊敬しない者は、父の栄光とともに栄光を受け、聖人たちに栄光を与えるために主が再臨する時に、その顔を見ず、主との交わりと光とを受けないであろう」(第4コンスタンチノープル公会議、870年、DS.654-655)

注2 十字架上の犠牲による勝利

「我々の天主にして主なるキリストは、十字架の祭壇の上で死に、一度で永久に父なる天主に自分を献げて、救いの業を完成した」(トリエント公会議、1562年、DS.1740)
人祖に由来する原罪により、天国の門は人間に対して閉ざされていたのであるが、キリストの十字架上の犠牲により、天国は再び開かれた。人祖の堕罪に成功したことに始まる悪魔の人類に対する勝利は、キリストによって決定的に覆された。

注3 罪を犯す者は悪魔の奴隷

「罪を犯す者は罪の奴隷である」(ヨハネ8・34)。
「神とマンモンとにともに仕えることはできぬ」(マテオ6・24)
とあるように、天主に背いて罪を犯す者は天主に属する者と見なされない。

注4 改悛の秘跡

「あなたはペトロである。私はこの岩の上に私の教会を立てよう。地獄の門もこれに勝てぬ。私はあなたに天の国のかぎを与える。あなたが地上でつなぐものはみな天でもつながれ、地上で解くものはみな天でも解かれる」(マテオ16・18-19)
「あなたたちが罪をゆるす人にはその罪がゆるされ、あなたたちが罪をゆるさぬ人はゆるされない」(ヨハネ20・23)

「改悛の秘跡」(「告解」と通称、現在は「ゆるしの秘跡」ともいう)は、キリストが制定した7つの秘跡の一つ。主が使徒(及びその後継者)に与えた権能により、罪を告白する者に対し司祭が赦罪の言葉を唱えることにより、告白者の罪が赦される。洗礼の秘跡によって原罪とすべての自罪及びその罰が拭われるが、受洗後に犯した罪についてはこの秘跡によって天主の子たる資格に復帰できる。
詳しくは後の章で述べられるので、そちらを参照のこと。

キリスト者とは 3


弟子 キリスト者(キリシタン)という言葉は何から来ているんですか。

師匠 キリストChristusに由来する名前だよ。(注1)

 そもそもキリストとはどのようなお方なのですか。

 真の天主にして、真の人間である方だよ。(注2)

 真の天主というのはどういう意味ですか。

 全能の父なる天主の、真の御ひとり子ということ。

 真の人間というのはどういう意味ですか。

 終生童貞なる聖母マリアの、真の御独り子ということ。 つまり、天主としては天に母を持たないように、人間としては地に父を持たないということなんだ。(注3)

 では、どういうわけでキリストと呼ばれるのですか。

 キリストとは、尊い香油を塗られた者という意味(注4)。むかし、王rex、司祭sacerdos、預言者prophetasの三者は香油を塗られたんだ。主イエズス・キリストは人性において王の上の王、司祭の上の司祭、預言者の上の預言者(注5)であり、聖霊の恩寵をあふれるばかりに持っておられるので、キリストと呼ぶんだよ。


注1 キリシタンという名称の由来

キリストChristusに由来するChristianusという語が、信徒の名称となった。日本では、ポルトガル語経由で伝わり(Christao)、「キリシタン(吉利支丹、切支丹)」と称された。
なお、古代・中世から多くの異端者が、また現代でもプロテスタント教徒が好んで自らを「キリスト者(英:Christian)」と称するため、正統キリスト教の信徒は「カトリック」と自称することが多い。日本でも同様で、カトリック信徒が「クリスチャン」と自称することは絶無と言ってよい。

注2 キリストは真の天主にして真の人間

「みことばは肉体となって、私たちのうちに住まわれた」(ヨハネ1・14)
「キリストは本性として神であったが、神と等しいことを固持しようとはせず、かえって奴隷の形をとり、人間に似たものとなって、自分自身を無とされた」(フィリッピ2・6-7)

天主自らが人類の救いのために地上に降り、人間の肉体と霊魂をとったものがキリストである。
キリストにおいて、無限の天主性(神性)が有限な人性を損なうことなく、混合・変性することなく包摂している。このことを天主の「託身(受肉)」と言う。
キリスト者は、キリストが偉大な人物であったとか立派なことを説いたとかいう理由によって彼を(神格化して)崇めているのではない。彼を天主と認めるがゆえに、彼の説いたことに従うのである。

注3 御託身の玄義

そもそも人類が救いを必要とする状況に陥ったのは、人祖アダムがエワの教唆によって天主に背いたからであった。女性を通して罪がもたらされたのであるから、罪の贖いもまた女性を通してもたらされる。こうしてキリストは第二のエワたる聖母マリアから人性(人間の肉体と霊魂)を受けたのである。
前注の通り、キリストにおいて天主性と人性は分離しているのではなく(天主としてのキリストと人間としてのキリストのふたつがあるのではなく)、不可分に結合(天主性が人性を包摂)しているので、マリアは「天主の母Dei Genitrix」である。(エフェゾ公会議、DS.272)

注4 「キリスト」の語義

救世主と訳される「メシア」というヘブライ語は、文字通りには「香油を注がれた者」という意味である。これをギリシア語に訳したものが「クリストス」であり、そのラテン語形が「クリストゥスChristus」となる。

注5 塗油と聖別

旧約時代から、ある者を王・司祭・預言者として聖別する(神聖な事柄で用いるために世俗的な用途から切り離すこと)ために塗油が行われた。
「王の王、主の主」(黙示録16:19)

キリスト者とは 2


師匠 それでは、キリスト者にしていただくのは誰のおかげか、知っているかい。

弟子 キリスト者になるのは、天主Deusの恩寵gratiaによります。(注1)

 天主の恩寵によって、というのはどういう意味かな。

 そのあたりがよく分かりません。どうか教えてください。

 天主の恩寵によってというのは、自分自身や親や被造物の力によってではなく、ただ天主の愛により主イエズス・キリストの功徳meritumを通じて、キリスト者になるということだよ。

 キリスト者にしていただくと、どのような地位が与えられるのですか。

 天主の養子、天国の遺産を相続する身分となる。というのも、洗礼を受ける人々にこの地位を与えようという主のご意向があるんだ。(注2)

 それでは、キリスト者でない者はどうなりますか。

 洗礼を受けていないから、天主の養子とさせてもらえず、天国の遺産を受けることはできないんだ。(注3)

 キリスト者とはどういうものですか。

 主イエズス・キリストの教えを、心の中で信じるだけでなく、言葉と行いで表す人のことだよ。(注4)

 心の中で信じ、言葉と行いで表すというのはどういう意味ですか。

 キリスト者は、主の教えを心から信じなければならないだけでなく、必要な時とあれば殺されるとしても、言葉と行いで信仰を表明する覚悟を持つべきなんだ。(注5)


注1 信仰は天主の恩寵による

「信仰の同意は決して魂の盲目的な動きではない。しかし、真理に同意し、信ずることの甘美さを味わわせる聖霊の照明と勧めがなければ、誰一人として福音の教えに同意することはできず救われることもない」(第1バチカン公会議「Dei Filius」1870年、DS.3010)


注2 洗礼によって救われるのは天主の意向

「行け、諸国の民に教え、聖父と聖子と聖霊の名によって洗礼を授け、私が命じたことをすべて守るように教えよ」(マテオ28・19-20)
「信じて洗礼を受ける者は救われ、信じない者は滅ぼされる」(マルコ16・16)

秘跡とはキリストによって制定された、天主の恩寵をもたらす可視的な儀式。洗礼とは7つの秘跡のひとつ。聖三位一体の名において志願者の額に水を三度かける。これによって受洗者の原罪およびそれまでに犯した全ての罪(自罪)とその罰が赦され、救いの保証が与えられる。なお、洗礼は受洗者の霊魂に不解消の霊印を刻むものであり、繰り返し受けることはできない。(洗礼や罪については本文の後の章で詳述されるので、そちらを参照のこと)

注3 洗礼と救い

「水と霊によって生れぬ者は天の国に入れぬ」(ヨハネ3・5)

『どちりな・きりしたん』の記述は、一般論としては正しいが、誤解を招きかねない表現であろう。
キリスト教において、「カトリック教会の外に救いなしExtra Ecclesiam nulla salus」は変更不可能の教義であり絶対の真理であるが、それは「受洗して公的にカトリック信徒となった者以外はみな地獄落ち」という意味ではない。救いとはカトリック教会が伝えるキリストによる唯一の救いのみであり、信者であるか否かを問わず、すべての人にとって真の救いはカトリック的なものである、教会という枠組みの中で救われる、という意味である。
なお、秘跡としての(水の)洗礼のほかに、「血の洗礼」と、「望みの洗礼」と呼ばれるものがある。
「血の洗礼」とは、まだ洗礼を受けていなくとも、キリスト教信仰のゆえに殺される者は救われるという意味であり、「望みの洗礼」とは、救いのために必要な要件を満たして生き、受洗を望みながらも果たせないままに死ぬ者は救われるという意味である。
また、「本人の側に落ち度がなくキリスト教を知る機会がないままに、天主に対して誠実に正しく生きた者もまた救われる」というのがカトリック教理であり(検邪聖省の1949年の書簡や第2バチカン公会議『教会憲章』16参照)、これも広義の「望みの洗礼」と解してよいだろう。

注4 キリスト者とは内心で信じるだけでなく、信仰を言葉と行いで表す者のこと

「人は心で信じて義とせられ、ことばで宣言して救いをうける」(ローマ10・10)
「信仰があると自称しても行いがなかったら何の役にたとうか」(ヤコボ2・14)
「『私は主を知っている』といいながらおきてを守らぬ人は偽り者であって、真理は彼の中にはない(1ヨハネ2・4)

日本では信仰は「個人の内面の問題」と捉えられがちだが、正統的なキリスト教においては全人格的な営為を指す。従って、信仰を持っていても(教義を真理として承認していても)、外的にその信条に反し愛にもとる言動をなすことは自己矛盾であり忌避される。
聖書は、行いを伴う信仰を「生きた信仰」、行いを伴わない信仰を「死んだ信仰」と呼んでいる(ヤコボ2・17、2・26、黙示録3・1-2)。

注5 殉教の覚悟

「だれがキリストの愛から私たちを離れさせえよう。艱難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。・・・だがすべてこれらのことに会っても、私たちを愛されたお方によって、私たちは勝ってなお余りがある」(ローマ8・35-37)

キリシタン禁令下の我が国では「踏絵」なる制度が行われ、多くのカトリック信徒が聖画を踏みつけることを拒み、残虐な拷問を受けて殺害された。信仰を「個人の内面の問題」と思い込んでいる者にとっては、これは理解しがたいことであろう。内心の信仰を守りながら外面的に踏絵を踏んでみせさえすれば、生命を奪われることはないのである。しかし、前注で述べた通り内心の信条と外的行為は不可分であるから、信仰を持ちつつ行動でそれを否認することは耐え難い自家撞着である。
信仰のゆえに殺害されることは、換言すれば、愛のゆえに天主に自分の生命をも捧げるということであるから、最高に名誉なこととされる。
なお殉教を一種の自殺ではないかと考える者がいるが、全くの見当違いと言うしかない。チェスタトンの表現を借りれば、自殺者はいかなるものも愛しておらず(自らの死によってすべてのものを失うことを惜しまない)、世界への侮蔑や憎しみ、あるいは逃避のために自らを殺すのであるが、殉教者は自分以外のものを愛するがゆえに自分の生命が犠牲となることを厭わないのであり、両者はその根本において対極にある。

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