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どちりな・きりしたん
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師匠 キリスト者になろうとする者は、キリスト教の教えが真理であり重要である旨をよく聞く(注1)ことが大切だが、その教えをよく聞いているかい。 弟子 お説教の内容をよく聞いて、天主Deusに照らされ、キリスト者とならせていただきました。 師 どれくらい理解しているかな。 弟 多くのことを理解しました。 師 習ったことを全部言ってもらわなくても大丈夫だよ。ただ、理解の程度を知るために、最も重要な信仰箇条を挙げてごらん。 弟 第一に、無から天地万物をお創りになり、すべての被造物をみ旨のままに支配しておられる創造主、すべての善の源であり、全知全能の主である天主がただお一方存在すること(注2)。 第二に、天主は、私たちの生前・死後ともに善悪の応報を正しくなさる正義の主であるということ。この唯一の天主を礼拝しなければ救いに与ることはできません(注3)。 第三に、主である天主は、聖父(ちち)と聖子(こ)と聖霊といって、位格personaは三つですが、実体substantiaは唯一であること(注4)。 第四に、天主である御子は、すべての人間の罪を贖って救霊の道を教えるために天から降り、人性humanitasつまり私たちと同じ霊魂と肉体をお受けになり、夫婦の交わりなくして童貞マリアから真の人間としてお生まれになり(注5)、十字架に付けられて人性においてお亡くなりになった(注6)こと。 第五に、救いの道はただキリスト教によってのみ完成されるということ。従って、キリスト者にならなければ救われることはない(注7)、と、このように理解しております。 師 人間についてはどう理解しているかな。 弟 人間は肉体だけでなく、終わりのない霊魂animaを持っています。この霊魂は肉体に命を与え、たとえ肉体が土・灰になっても消滅することはありません(注8)。霊魂が生前の行いの善悪に応じて、死後の苦楽に与るものです。 師 よく理解できているね。ただ、カテキズムという要理入門書(注9)の他にも、キリスト者として知っておかなければならないことは沢山あるんだ。 弟 だからこそ、教えていただきたいと思います。 師 よしきた! 注1信仰は聞くことから始まる 「まだ聞かなかった者をどうして信じられよう。宣教する者がなければどうして聞けよう。・・・信仰は宣教により、宣教はキリストのみことばによる」(ローマ10・14、17) キリスト教は、個人が「聖書を読む」ことによって信じるものではなく、「教会の宣教を聞く」ことによって信じるものである。 注2 天主の存在 天主(神)が存在することは、理性だけによって(信仰とは無関係に)論理的に証明される。 「神について知りうることは、彼らにとっても明白だからである、神はそれを彼らに現されたからである。神の不可見性すなわちその永遠の力と神性は、世の創造の時以来、そのみ業について考える人にとって見えるものである」(ローマ1・19−20) 従って、「天主が存在する」ということを含め「天主について自然理性によって知られうるこれに類することがらは、信仰箇条ではなくてその前提である」(聖トマス・アクィナス『神学大全』第一部第2問第2項)。 注3 唯一の天主を礼拝すべし 「私以外の神々を礼拝してはならぬ」(第二法/申命5・7) 注4 至聖三位一体 「天においては御父とみことばと聖霊であり、この三つは一致する」(1ヨハネ5・7) 「われわれの主である救い主によって創立された聖なるローマ教会は、次のことを固く信じ、宣教し、教える。全能で変化することなく永遠、唯一のまことの神を。父と子と聖霊は本質において一つであり、三つの位格の神である。父は生れず、子は父から生まれ、聖霊は父と子から発出する。・・・この三つの位格は一つの神であって三つの神ではない」(エウジェニオ4世大勅書『Cantate Domino』1442年、DS.1330) 注5 御託身の玄義 「みことばは肉体となって、私たちのうちに住まわれた」(ヨハネ1・14) 注6 十字架上の犠牲 キリストは子なる神であるが、聖霊によって童貞マリアに宿り、人性(人間としての霊魂と肉体)をお受けになった。即ち、神性のうちに人性が包含された「神人両性」の方である。神性においては全能永遠の神であるが、人性においては私たちと同じ人間であり、この人性において苦しみ、死し給うた(神は苦しむことも死ぬこともない)。 注7 キリストは唯一の救い 「信じて洗礼を受ける者は救われ、信じない者は滅ぼされる」(マルコ16・16) 「義とされるのは信仰による」(ローマ4・16) 救いのためにはキリスト教信仰を持つことが必要である(但し例外もあって、不可抗的無知の状態にある者が誠実に神を求め正しい生涯を送った場合、キリスト者でなくとも救われ得るのだが、詳しくは後述する)。 注8 霊魂は不滅 「主なる神が地のちりをとって人間を形づくり、鼻の穴に命の息吹を吹きこまれたとき、人間は生きるものとなった」(創世2・7) 「次の主張を非難し排斥する。知性的魂は不滅ではない、すべての人間において唯一つのものであると主張する者および・・・霊魂はそれ自体で本質的に人間の肉体の形相であることを疑う者を排斥する。霊魂は不滅であり、注ぎ込まれる肉体の数だけ無数にあるものである」(第5ラテラン公会議『Apostolici regiminis』1513年、DS.1440) 霊魂animaは「命を与える(アニメーションの語源)」という語義の通り、人間の形相formaであり、タンパク質等の塊に過ぎぬ肉体を生命あるものとしている非物質的な実体である。従って、肉体が物質的にその機能を停止(=死)したとしても、非物質である霊魂が消滅することはない。 注9 カテキズム カテキズム(公教要理)とは、主に問答形式でキリスト教の要諦を説く入門書のこと。『どちりな・きりしたん』もカテキズムの一つである。 本文では、当時(16世紀末頃)『どちりな』よりも更に初歩的な入門書があったことが示唆されているようである。
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主イエズス・キリストが、天主でありながら人となってこの世にいらっしゃった間、弟子たちに仰せになった中で「汝らに教えたように、すべての人間に救霊のための真理の道を広めよ」との言葉があります(注1)。これは教父たちが述べているように、三つのことに極まります。 一つには、信じること。二つには信頼すること。三つには務めを行うこと。この三点です(注2)。 信じるべき教理(信仰箇条)というものは、理性を超越した事柄についての教えですから、教理を信じるということは信徳fidesという徳に当たるものです(注3)。 教理を知らなければ、救いの道に迷うことでしょう(注4)。 また、信頼するとは望徳spesという徳に当たるものです。これは、天主がキリスト者にお与えになった救霊の御約束を信頼して待ち望むことについての徳です。この徳がなければ、苦難に遭う時に「頼るものがない」と落胆し、絶望することになるでしょう。絶望は、霊魂にとって重大な障害となります(注5)。 そして、務めを行うことは愛徳caritasといって、愛についての徳に当たるものです(注6)。 これらのことを理解していなければ、天主の掟にたびたび背くこととなるでしょう。 この三つの徳はキリスト者にとって不可欠のものですから、教父と称される善き人々はこれらのことについて多くの書物を書き残してくださったのです。 この度、それらの中から特に重要なところを選んで出版し、迷妄を照らす鏡とすることとなりました。キリスト者に対して救霊のために不可欠な知識を教えるために、会(注7)の長上の命によってこの小著を編纂し、『どちりな・きりしたん』と名付けます。 これは、キリスト教の教えという意味です。 貴賎を問わず、すべての人に簡単にこの教えを知らせるために、言葉は話し言葉に近く、内容は天主の至高の摂理を説明するものです。教理を早く理解することができるように、師弟の問答形式で書かれています。 これはすべてのキリスト者の知恵の目を開く教えでありますから、すべての人がこの教えを知り、理解して、迷妄の闇を逃れ、真理の道に基づくようにせねばなりません。 注1 救いに関する主の言葉 「行け、諸国の民に教え、聖父と聖子と聖霊の名によって洗礼を授け、私が命じたことをすべて守るように教えよ」(マテオ28・19−20) 注2 信望愛 3つの「対神徳virtus theologica」。キリスト者にとって最も重要な、信徳、望徳、愛徳の3つの徳をいう。徳とは精神において獲得された善き傾向性であるが、この三徳は特に天主に関する徳目であるため「対神徳」という。 「今あるものは信仰と希望と愛の三つである」(1コリント13・13) 注3 信徳 科学的真理は自然界の事物に関する真理だが、教理は人の救いに関わる事柄、信仰と道徳に関する真理。「教理」を「信じる」とは、「天主によって教会に託された信仰と道徳に関する教え」が「真理であると承認する」ことである。 科学においては理性で把握できる事柄を理性によって承認するのに対し、信仰においては、理性では到達不可能な真理が対象となる。この真理は神によって啓示された(これがキリスト教)。この啓示された事柄が真理であると、理性および神の助けによって承認することが、信じるということである。 注4 教理の知識と救い 「信じて洗礼を受ける者は救われ、信じない者は滅ぼされる」(マルコ16・16)。救いのためには信じることが必要である。 「信仰は宣教により、宣教はキリストのみことばによる」(ローマ10・17) 注1で引用したマテオ28・19−20にある通り、使徒たちは宣教の責任者としてキリスト自身によって派遣された。宣教とは、人となった天主(キリスト)によって開示された真理(教理)を伝え、教えることである。 「まだ聞かなかった者をどうして信じられよう。宣教する者がなければどうして聞けよう」(ローマ10・14)とある通り、信仰は使徒(とその後継者)によって伝えられた教理の知識を受け入れることから始まる。 注5 絶望は危険 人は生まれながらに救われるか救われないか決まっているのではない。 「すべての人間の救いのもととして神の恩寵は現れた」(ティト2・11)とある通り、神はすべての人の救いを望み(これを「天主の普遍的救済意志」という)、キリストの受難と死によってすべての人に救いの保証が与えられた。 救おうとする天主の呼びかけに応答する者は救われる、というのがキリスト教の根本である。 しかし、例えば罪を犯した時など、「もはや自分は救われることはないだろう」と感じてしまうことがある。これを絶望と呼ぶが、これは天主の普遍的救済意志つまり天主の愛を否定することであるから非常に危険な状態といえる。天主の普遍的救済意志に信頼して、改悛して正道に立ち返ることこそが勧められるのである。 注6 愛徳とは善業のこと ここで「愛」が「務めを行うこと」として説明されているのは興味深い。これは、「<すべての心、すべての霊、すべての知恵をあげて、主なる天主を愛せよ>。これが第一の最大のおきてである。第二のもこれと似ている、<隣人を自分と同じように愛せよ>」(マテオ22・37−39)によるものである。 キリスト教における愛caritasは、肉体的な喜びを求める情動ではない。愛とは、聖トマス・アクィナスによれば「相手の幸福を願うこと」である。 さて、魚を求める子供に蛇を与える親はいない(マテオ7・10参照)ように、相手の幸福を願うのであれば、何らかの行動(内面的な行為であれ)をせずにはいられない。そうでなければ自己矛盾である。 事実、聖ヤコボは「兄弟たちよ、信仰があると自称しても行いがなかったら何の役にたとうか。信仰が彼を救えるのだろうか。ある兄弟や姉妹が裸で今日の食べ物さえないとき、あなたたちの中のだれかが、「心安らかに行け。温まって十分食べよ」と言うだけで体に必要な物を何も与えなかったら、それが何の役にたつだろう。信仰もそれと同じく、善業が伴わなければ死んだものである」(ヤコボ2・14−17)と記している。 このように、愛とは単に「相手を愛している(つもり)」の思い込みではなく、相手の真の幸福に貢献できているか、主イエズスの定めた「おきて」を果しているか常に反省し実践することである。 注7 修道会 イエズス会を指す(1549年、日本に初めてカトリシズムを伝えた聖フランシスコ・ザベリオもこの会に属していた)。『どちりな・きりしたん』は、1600年頃にイエズス会によって出版されたものである。
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