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カトリック的。
信徒数13億人でも日本では知られていないカトリック。正統キリスト教会を気楽にご紹介します。

書庫チェスタトン名言集

推理小説「ブラウン神父」シリーズで有名なG.K.チェスタトンは、数多くの評論も残している文筆家です。イギリス風ユーモアと彼ならではの逆説(パラドックス)に満ちた文章から、おすすめの名言を拾ってみました。
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どういう次第かわからないが、ともかく世の中には実に奇態な観念が生まれている。奇蹟を信じない人は冷静、公平に判断している人びとであり、奇蹟を信じる人は何かのドグマに従って奇蹟を認めているにすぎぬという観念だ。
事実は完全にこの逆である。奇蹟を信じる人びとは(正しいにしろ誤っているにしろ)、証拠があるからこそ信じているのであり、奇蹟を信じない人びとは(正しいにしろ誤っているにしろ)、奇蹟を否定するドグマを持てばこそ奇蹟を否定しているにすぎない。

リンゴ売りのばあさんが奇蹟の証言を申し立てたとする。そのとき、公正で、当然で、民主的な処置は何かと言えば、リンゴ売りのばあさんが殺人の証言を申し立てた時とまったく同様、その証言を信用することのほかにはないだろう。
あるいはまた、百姓が地主の旦那について語る言葉を信用するのなら、百姓が幽霊について語る言葉も全く同様に信用することが、まさしく常識にかなった、民主的なやり方と言うものだ。百姓であるからには、地主についても幽霊についても、大いに健全な懐疑を抱いているはずだからである。
ところが、そういう懐疑があるにもかかわらず、百姓が幽霊の存在を認める証言を集めれば、それこそ大英博物館を一杯にするくらいあるのである。人間的証言ということになれば、超自然の存在を認める人間的証言は、それこそ息もつかせぬ奔流のごとくある。

もしこれを信じないというのなら、それは二つのことのうちどちらか一つを意味するしかない。
百姓の幽霊の話を信じないというのは、百姓の話であるからか、それとも幽霊の話であるためか、理由は二つに一つしかないだろう。
つまり、民主主義の根本原理を否定するからか、それとも唯物論の根本原理を肯定して、理論的に奇蹟は起こりえないと主張するか、どちらかしかないのである。

もちろんそう主張するのはまったくその人の自由だ。しかしその場合、ドグマに縛られているのは実はその人だということになることだけは明らかだ。
あらゆる現実の証拠を認めるのはわれわれキリスト教徒であり、合理主義者のほうこそ、自分の信条に強制されて、やむなく現実の証拠を否定しているのだ。
けれども私はこの問題については何の信条にも縛られず、中世や現代の奇蹟を無私公平に眺めた結果、奇蹟は現に起こったという結論に達するのである。

実際、この奇蹟という明白な事実を否定する議論はすべて、いつでも循環論に陥らざるをえない。

たとえば私がこう言う――「中世の文献には、これこれの戦いがあったというのと同様に、これこれの奇蹟があったとたしかに記録されている。」 すると合理主義者はこう答える――「いや、しかし中世人は迷信深かったから信用できない。」 けれども、中世人はいったいどういう点で迷信深かったのかと問いただすと、結局のところ唯一の返答は、中世人が奇蹟を信じていたから、という答えに帰着してしまうのだ。
あるいは私がこう言うとする――「百姓が幽霊を見たと言う。」 すると答は――「いや、しかし、百姓は何でもすぐに信じたがるから当てにはできない。」 そこで私がたずねる――「なぜ何でもすぐ信じると言えるのか。」 答は結局、百姓は幽霊を見ると言うから、という以外にない。

同じ理屈でいけば、アイスランドなどというものは存在しない、なぜなら愚かな船乗りしかそれを見た者はないから、そして船乗りは愚かである、なぜならアイスランドを見たなどと言うから――ということになるではないか。

   『正統とは何か』春秋社より(読みやすさのため適宜改行しました)



しばしば誤解されているのですが、カトリシズムほど奇跡に対して冷淡かつ懐疑的な宗教もないでしょう。

カトリック教会が理性・科学の擁護者
であり、事実、歴史に名を残す科学者の多くを輩出してきたということもあるのでしょうか。超常的な現象が起こって「奇跡だ奇跡だ」と騒がれても、決してすぐに奇跡だと認めることはありません。
まずは徹底的に科学的検証を行ない、仮に「科学的にありえない現象が起こった」と判明しても、それだけでは奇跡に認定しません(世間の人は「科学的に説明がつかない」となるとすぐ「奇跡」と結論しちゃいますけど)。
本当に神的な現象であると当地の司教が認定して初めて、奇跡として認められるのです。
そういうわけで、カトリック教会で奇跡が認められるのは大変なことなんです。

「宗教にはまった」迷信深いオバチャマがたや、「スピリチュアル」とか何とか、オカルトかぶれの人々から、カトリシズムが敬遠されるのも無理もありません。
マルクスという変人が「宗教はアヘンである」と言ったそうですが、カトリック的には、いわゆる「宗教的」「スピリチュアル」な人々というのは、宗教ではなくアヘン(脳内麻薬)、いまだ解明しつくされない脳の深遠がもたらす幻影と快楽の方に心を奪われているだけだ、という気がします。


なぜカトリックは、奇跡に対してそんなに懐疑的なのでしょうか。

それは、(逆説めいていますが)「ホンモノの奇跡もある」ということを認めるからです。ホンモノがあるからにはニセモノもあるというわけ。
(これもチェスタトンが面白いことを言っているのですが、偽札の存在は中央銀行の存在を証明する。つまり偽一万円札は日本銀行がホンモノの一万円札を作っているからこそ偽札として意味があるわけで、ニセモノの奇跡をでっち上げる人がいるということは、ホンモノの奇跡もあることを間接的に証明しているということです。)
正しく神を讃えるためには、偽の奇跡を排除することが不可欠なのです。

それともう一つ、キリスト教ならではの理由があります。
「しかしてみことばは人となり給い、我らのうちに住み給えりEt Verbum caro factum est, et habitavit in nobis」。

神のロゴスがこの世に来たり給うたのですから、啓示はキリストによって完全に与えられており、その後の奇跡や神秘的メッセージなどによって何かが追加されることはあり得ない、というのがカトリックの考えです。
そのため、奇跡はあくまでキリスト教信仰(ドグマ)の枠内にあり、ドグマと比して相対的に重要性が低いわけです。


ところで、「自分は科学的だ」と思い込んでいるアマチュアは、えてして超自然的なものを否定することが「科学的」だと信じています。
今回ご紹介したチェスタトンの言葉は(ちょっと長かったですかね)、このような「エセ科学的」な意見がいかに非論理的で非科学的かを皮肉っぽく指摘しています。

キリスト教徒はホンモノの奇跡もニセモノの奇跡もどちらもあり得ると考えるのに対し、「合理主義者」なる連中は唯物論という非科学的な宗教に縛られて、ある不思議な現象が奇跡か否かを検討することすら許されない、とにかく奇跡ではないとしか言うことが許されないという極めて不自由な思考停止状態にさせられているというわけです。


そういえば今日の福音朗読に「真理は人を自由にする」という聖句が出てきましたね(今日は夕方のミサを拝むチャンスがあったのです)。
せっかくおつむを神様からいただいたのですもの、非科学的な宗教に縛られず、自由に真理を承認したいものですね。


「それじゃ、神父さんは」と犯罪学の教授はなじるように言っていた――「犯罪学が科学であることを信じないとでもおっしゃるのですか」
「にわかには信じがたいことですな」神父は答えた。「あなたは聖徒研究(ハギオロジー)が科学であると信じるとでもおっしゃるのですか」
「妖婆(ハッグ)……学(オロジー)……?」
「いやいや、妖婆の研究などではない。魔女を火あぶりにする話とも無関係です」神父は笑って答えた。「聖人(ハギオス)や聖物などの研究のことです。中世におこった学問です。中世は残酷にして無知蒙昧の時代ということになっているが、あのころの人たちは善人についての科学を作ろうとしたのでしてな。現代は人道的にして文明開化の時代ということだが、このごろの人たちは悪人についての科学にしか興味がないようだ」


   「頬ひげの二つある男」(『ブラウン神父の秘密』創元推理文庫)より



逆説(パラドックス)とユーモアを用いて、世間の通説が実は間違いだということを示すという、チェスタトンお得意の手法です。

いまだに「暗黒時代」という言葉を中世ヨーロッパの枕詞のように使う人がおりますが、実に恥ずかしいことですよ、それは。
研究者によって多少意見が分かれますが、大ざっぱにローマ帝国の滅亡からビザンツ帝国の滅亡までを中世としても、実に1000年の長きに渡ります。とても一口に言うことはできませんが、カロリング・ルネサンス、12世紀ルネサンス、そしてルネサンスと、中世には様々な学問や芸術が隆盛を見ており、暗黒というには当たりません。
ルネサンスの芸術興隆を「腐敗」と見なして宗教改革を起こし、理性を軽視して信仰を科学の光から遠ざけ、果てはブッシュ大統領のごとき原理主義に至るプロテスタンティズムの方が、ずっと「暗黒」というにふさわしい気がしますけれども・・・。それはさておき。

ローマ帝国滅亡後しばらくの間、初期中世においては、確かに「暗黒時代」と言える時期もあります。高度な文明を誇ったローマ帝国が蛮族によって破壊され、学問的にも文化的にも無秩序状態に陥ったのです。
その中で、ただひとり文明を保ち続けたのがカトリック教会でした。
カトリック教会が再び文明と倫理を伝えたことで、秩序が回復し、暗黒時代を脱することができたのです。

中世とて、決して完全な理想的な世界だったわけではありません。中世には中世の悪もありました。
けれども、現代には無い悪が中世にあったからといって、「現代は理想的な世界で、中世は悪しかなかった」と結論するのは非論理的です。現代には現代の善や悪があるように、中世には中世の、現代とは異なる善や悪があったと考えるべきでしょう。
チェスタトンが逆説を用いて表明しているのも、まさにその点ではないかと思います。


私たちが、「中世は暗黒時代だったが、現代は進歩して、ずっと善い時代になっている」と考えるならば、その考えには少なくとも2つの論理上の誤りがあります。

一つ目は、生物学上の理論である進化論を、まったく別の分野である人間社会に対して無批判にかつ正当な理由なく適用しているということ。
社会がある特定の法則に従って変化していく、という考えですね。
これを何というでしょう。共産主義の唯物史観といいます(笑)

もう一つの誤りは、百歩譲って仮に社会が「進化」していくとして、その「進化」が倫理的な善へ向かっていくと無根拠に前提していることです。
社会が特定の法則に従って変化するとして、その変化の先が善い社会だと誰が言えるでしょう。
マルクス主義が正しければ、社会は悲惨な武力闘争と労働者革命の果てに共産党独裁という理想郷へ到達するのだそうですが、そんなのを「善い」と言うのは共産党幹部だけでしょうね。


ことほどさように、私たちが何気なく常識だと思っていることは、考えてみるとメチャクチャ非常識なことだったりします。
この非常識な「常識」を、逆説とユーモアで鋭く指摘するのがチェスタトンの持ち味です。
むしろ、世間の通説が逆立ちしているために、まっとうなことを指摘しようとすると「逆説的」にならざるを得ない、とも言えましょう。

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