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カトリック的。
信徒数13億人でも日本では知られていないカトリック。正統キリスト教会を気楽にご紹介します。

書庫教会内の諸問題

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先日ミサで驚くべき説教を聴いてしまった。司祭個人を責める意図はないので名前は伏せる、仮にA神父としよう。

A神父によれば、日本中でカトリック教会は急激な高齢化が進行しており、信者数が減りつつある。何より、若者や子供が教会に来ないのが問題だ。
なぜ青少年が教会に来ないのか。その理由は、教会が楽しくないからだ。A師が子供時代に教会通いを続けられたのは、日曜学校でリーダーたちと遊んだり、キャンプなどのイベントがあったり、また高齢信者たちが可愛がってくれたからだった。教会の真価はそこにある。
これまでの日本のカトリック教会は、信仰を伝えるのに理知的な部分に偏り過ぎていた。しかし、聖書には「信仰の勉強が必要だ」とはどこにも書かれていない。イエズスは「幼子を受け入れない者は私を拒む者だ」と言われた。子供の楽しめる教会であることがカトリック存続の絶対条件だ・・・。

以上がA師の熱弁の大略である。

筆者も、青少年が教会に来ず、教会が消滅の危機にあるという認識は共有している。しかし、司牧者たちがA師のような了見でいる限り、日本でカトリックが存続することは不可能だと断言する。

A師の主張は、現状認識、実効性、聖書理解の三点で誤っている。順を追って説明しよう。


現状認識の誤り:知性重視に偏っていた?

ハッキリ言おう。今の日本のカトリック教会に、知的要素はもう残っていない。これ以上何を削り得るというのか。

成人洗礼の場合ですらも、ろくに要理教育を施さないものだから、教会法が金曜日に肉を食べることを禁じていることや、避妊が罪であることを知らなかったり、告解と悩み相談をはき違えていたり、「全実体変化」や「不可謬性」についての認識が欠落していたりする者が続出している有り様だ。
子供の信仰教育に至っては絶望的である。「日曜学校」などと称してはいるものの、その実態たるや「自然の中で神さまのお恵みを感じましょう」といった類いの非理性的なままごと遊びに過ぎない。
そんなことだから、煉獄や免償について聞いたこともなく、占いや婚前交渉が罪だと言われて驚くような青少年が量産されるのである。

この点について筆者が正しくA師の認識が誤っているということは、日本の司教様がたが証人になってくれるだろう。
以前にも紹介したが、2014年1月に司教団がバチカンへ提出した文書に、「信仰教育に関する全国・教区・小教区レベルでの体系的な司牧計画は皆無」と明記されている。http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/63972379.html
日本の教会は、信仰教育という知的活動を実施していない、と司教団自らが認めたのである(それにしても、牧者の任務を放棄していると自覚してるんならさっさと辞職したら?と思ったのは筆者だけではあるまい)。

繰り返すが、日本のカトリック教会が知的方面を重視してきたなどというのは事実と正反対の戯れ言である。
教会を蘇生させたければ、何をおいてもまず知的要素を回復し、信仰教育を徹底するほかに道はない。


実効性の誤り:教会は娯楽施設?

教会に子供が来ないのは教会が楽しくないからだ、だからイベントやふれあいの機会を増やして呼び込もう、というのもおかしな話である。
筆者はなにも、子供が教会で楽しい思いをしてはならないと言っているのではない。それに注力するのは愚策だと言っている。

終戦直後ならいざ知らず、現代に娯楽は溢れている。遊園地しかり、アウトドアイベントしかり。言っちゃ悪いが相手は予算もセンスも段違い、素人が真っ向勝負しようという発想がもう、どうかしている。レッドオーシャンという言葉を聞いたことはないのかね。
マーケティング理論を持ち出すまでもなく、カトリック教会ならではの強みを活かし、教会でしか得られないメリットを前面に打ち出すのがあるべき施策だろう。

罪を赦される喜び、架空の存在ではない代々に生きたもう神をこの目で見て拝み、その神と一体化する喜び。
啓示と論理に裏打ちされた教義や倫理を知ることで、それまで断片的にしか分からなかった世界が一貫性をもって見えてくるという喜び。
正しく生き(安心立命)、天に宝を積む喜び。
そういった「メリット」(メリットには功徳という意味もある!)を打ち出す方が有効だということだ。

それにしても、今のカトリック教会でそのような内容の説教を耳にすることが、そもそもあるだろうか? そういった知的な喜びがカトリック教会にあるということを、伝えているだろうか?


聖書理解の誤り:信仰に勉強が不要?

A師によれば、知的な要素も大事ではあるけれど、信仰にとって必須ではないのだそうだ。イエズスも「救いのためには勉強が必要」とは言ったことがないのだそうだ。しかしそれは明らかに間違っている。

カトリック信者はなぜカトリックを信じるのか、その理由は「それが真であるから」という一点にあり、それ以外の理由はない。
感動的な宗教体験によるものでも、精神の慰安を求めるからでもなく、「キリストにより啓示され教会の中に保たれている教えが真であると私は認める!」という理知的な決断によって信仰するのである。理性を十分に働かせることのできない幼児や知的障害者などを除き、この知的営為が救いのためには必須である。

人をカトリシズムに出会わせるのは神の意思であり、信じようとする人を力づけるのは神の恩恵であり、信ずべき対象は神の啓示した事柄である。しかし、そのような神の愛に対して、「我は信ず!」という人間の側からの承諾=応答が不可欠だ(アウグスティヌスも「汝なくして汝を創り給うた天主は、汝なくして汝を救い給わず」と言っているではないか)。
信仰に知的要素がなくても足りるという主張は、宗教と迷信とを混同した妄言である。

実際、聖書には「救いのためには勉強が必要」と明記されている

マテオ聖福音書の結びで使徒たちは何と命じられているか。「行け、諸国の民に教え、聖父と聖子と聖霊の名によって洗礼を授け、私が命じたことをすべて守るように教えよ」。
先に見たように、使徒の後継者たる司教が「教える」任務を自覚的に放棄しているのは事実であるが、救いのためには教えを学び、掟を守る必要があるのだ。


以上見てきたように、青少年が教会に来ない根本的な理由は、カトリック教会の「メリット」、すなわち知的な充実という他のいかなる宗教・宗派にもない特徴を、知ってもらおうとすらしていない、という点にある

「教会は頭を使わず楽しめる場所、人とのつながりを得られる場所ですよ」という間違ったメッセージを送れば送るほど、見込客(青少年)は、「それならもっと楽しい場所、仲間と落ち着ける場所があるよ」と教会から離れていく。当然のことだ。


「教会は社交場ではない」という当たり前の基本に立ち返ることが、日本のカトリック教会再生の最初の一歩になるだろう。■



なぜ教会には男性が少ないのか http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/64577794.html

札幌司教がミサ説教で問題発言か http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/64102431.html

ボンクリはいかにして大人の信者になるか http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/63972379.html

老人の、老人による、老人のための教会 http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/63966423.html

で結局、あの公会議は何だったんスか http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/63830062.html

弘前天主堂 http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/39079152.html

年明け早々に愚痴ですか? http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/21626037.html

がんばれ中央協! http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/17277018.html

ご復活おめでとうございます。
皆さまにおかれましては、復活の聖なる三日間をどのようにお過ごしになったでしょうか。

復活徹夜祭で洗礼式が行われたところも多かったと思います。
受洗者の顔ぶれはいかがだったでしょうか。筆者の所属する小教区でも結構な数の受洗者がありましたが、そのうち男性は数えるほどもいませんでした。


過去に何度か指摘しているとおり、日本でミサに与っている信徒の大半は比較的ご年配の女性です。
人口構成として不健全であると言わざるを得ません。

信者の(そして特に受洗者の)大半が女性であるということは、彼女が結婚していても配偶者は未信者であるということを意味します。
そうした家庭では、子どもに幼児洗礼を授けるのを夫が拒んだり、毎週の宗教行事(ミサ)に渋い顔をしたりして、次世代への信仰の伝達が困難になりがちです。



どうして教会に男性が来ないのでしょうか。


マーケティングなどでは一般に、女性は情緒的なものを好み、男性はロジカルなものを好む、とされているようです(女性が非論理的という意味ではなく、男性の方が購買活動の際にロジカルなストーリーによって後押しされる傾向がある、ということです)。

また、男性は女性よりも序列(ヒエラルキー)を気にし、正統性とか格式を重んじる傾向があるとも言われていますね。

…こうしてみると、今のカトリック教会に男性が魅力を感じにくい理由がわかる気がしませんか。



本来カトリックとは、聖職位階(ヒエラルキー)が厳然として存在し、理性を尊重する客観的でロジカルな信仰です。またラテン語による重々しい荘厳な典礼を行ないます。いわば男性好みの教会でしょう。
一方その根底には「神は愛であり、人類のために神は人となって十字架につけられ給うた、その愛の証しに自らをパンの形で残された」という空前絶後のラブストーリーがあります。なればこそ、多くの聖女たちはカトリック教会の荘厳な典礼のうちに神の燃える愛を感じとり、またそれに熱烈に答えてきたのです。

しかるに、この50年このかた、教会は躍起になって「男性好みの」特徴を薄めようと努めてきました。

司祭を先達として神に献げるものだったミサ聖祭は、司式者と会衆とが対話する会食の体裁になりました。
論理的な公教要理は忘れられ、感傷的に「神の愛を感じる」ことばかりが奨励されるようになりました。
典礼からは厳かさが排除され、親しみやすさ(誰にとっての?)が最優先のようで、正統性や規範よりも、主観的な好みが判断基準となっているかのようです。

こんな体たらくでは、教会に男性が寄り付かないのも無理はないのではないでしょうか。



先日も長崎の大司教様が海外メディアのインタビューに答えておっしゃっていましたが、長崎にあってさえも教会の衰退は著しく、危機感を抱いていらっしゃるとのことです。
誰に言われるまでもなく、日本のカトリック教会は絶滅の縁に立っています。司祭・修道者の召し出しは少なく、司祭は超高齢化、小教区は続々と閉鎖されたり巡回教会になったりしています。

「第2バチカン公会議の精神」を信奉する司教・司祭がたにとっては、せっかく推進してきた教会の去勢にブレーキをかけるようで気が進まないかもしれませんが、教会そのものが滅んでしまってオマンマの食い上げになっては元も子もないでしょう。

現状の「女性好みの」あり方を全部切り捨てろとまでは申しません。
「飯の種を確保するため」とでも功利的に割り切って、「男性好みの」正統的・理知的・荘厳なバージョンも併せて両方提供されてはいかがかと、老婆心ながら思った今年の復活祭でありました。■


もう1ヶ月以上前のものだが見過ごせない記事に行き当たってしまった。
札幌教区カテドラル(北一条教会)ホームページの2014年4月17日付エントリである。
http://katedorarujp.blogspot.jp/2014/04/blog-post_17.html

【以下引用】
・・・今夜の司教様のお説教の一部をご紹介します。

『第2バチカン公会議以降、聖体をひざまずいて口で受けることは公には勧められていませんが、過去の習慣などによる個人的な理由で、ひざまずいて口で受けたいと希望する信者の方もいます。聖体の秘跡の意味は、共同体の交わりと一致を表すものなので、本来なら他の信徒に合わせ、同じように立って手で受けるということが基本になると考えられます。
しかしこの例のように共同体の在り方ということに関して、外面的な側面ばかりでなく、内面的・本質的なことも同時に考えていく必要があります。たとえ聖体拝領などの所作が一見、外面的には一致しているように見えていたにせよ、内面的に周囲から受け入れられていないと感じている人がいるならば、それは本来の意味での一致とは言えません・・・

【引用終り】

ここには事実に反しているだけでなく、信者の心を傷つける言明が含まれている。
記事の執筆者が司教様の話を聞きまちがえた、あるいは筆が滑っただけと信じたいが、もしも本当にそのような発言があったとすれば大問題だ。いずれにせよ、早急に訂正し、教区民の誤解を解く必要がある。


ひざまずき口で受けるのが正式かつ教会の望み

記事によれば、勝谷司教は「第2バチカン公会議以降、ひざまずいて口で聖体拝領することは公には勧められていません」と述べている。しかし、端的に言ってそれは事実ではない。

確かに日本をはじめ多くの国で、立ったまま手で受ける者が多数派になっている。しかし、全世界共通の公式の拝領方法は「ひざまずいて口で受ける」というものである
『ローマ・ミサ典礼書の総則』に、信者は「口で、あるいは許可されている場合は手で秘跡を受ける」とあるとおり、手で受けるのは使徒座が個別に許可する例外的な方式に過ぎない。

「ひざまずき口で受ける」のと「立ったまま手で受ける」のとでは、どちらがより適切かといえば、もちろん前者である。
ひざまずきが礼拝を表し、キリストの代理者である司祭から直接口に受けることで謙遜と神への信頼が示されているのに対し、後者は敬意の表現として劣り、落とす危険もあるという点で、前者に比べれば不完全な拝領方法であるといえよう(秘跡の効果ではなく拝領方法の話である、念のため)。
そのため、立ったまま受ける場合には拝領の前に別途ふさわしい尊敬を表すべきとされているし、たとえ許可があっても汚聖の可能性がある場合には手に授けることは禁じられるなど、ひざまずいて口で受ける場合とは異なり様々な制限・安全策が課せられている

教会は寛大にも、そのような方法で信者が拝領することも(場合によって)「許可」してはいるものの、本来的にどちらが望ましいかは言うまでもない。

当ブログでも紹介しているとおり、教皇様も、全ての信者がひざまずいて口で受けるようになることを望んでおられるのである。
http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/54901804.html

したがって、繰り返しになるが「ひざまずき口で受けることが公には勧められていない」などというのは間違いであり、むしろ「立ったまま手で受けることが一般に広まっていますが、教会はひざまずいて口で受けることを勧めています」と言うべきであろう。


ひざまずき口で受けることを望むのは主を愛するから

勝谷司教によれば、一部の信者がひざまずいて口で受ける聖体拝領を望むのは、「過去の習慣などによる個人的な理由」なのだそうだ。いささか無茶な決めつけではないだろうか?

ひざまずき口で受けることを望むのは、主イエズスを愛しているからに他ならない。
愛する主に最大限の礼拝と讚美を尽くしたいのである。聖書にも、「すべてのものはイエズスのみ名においてひざをかがめ」とあるとおりだ。
司教様の目には、それが「習慣を変えたがらない怠惰な人間」に映るのだろうか。

個人的な」理由というのもおかしな話だ。
上で見たとおり、ひざまずいて口で受けるのが教会の「公的な」拝領方法である。
典礼秘跡省の指針『あがないの秘跡』は、「おのおのの信者は、聖体を口で受ける権利をつねに持っている」と明記している。何らかの理由で(わざわざ許可を得てまで)立ったまま手で拝領することこそ、個人的な趣味嗜好によるものと言うべきである。


根拠なく多数派への同調を強要するのは「数の暴力」だ

上記記事を読む限り、勝谷司教は、聖体は共同体の一致を表すので「本来なら他の信徒に合わせ、同じように立って手で受けるということが基本になる」と考えておいでのようだ。
良心よりも多数派に従え、とは何というストレートな全体主義(笑) 正平協が黙っていないのではあるまいか。

冗談はさておき、司教様は『ローマ・ミサ典礼書の総則』の「すべての参加者が共通の姿勢を守ることは、典礼のために集まったキリスト者共同体の成員の一致のしるしである」という文言を念頭に置いてらしたのだろう。

しかし、上記の規定はミサの祭儀中に全員が一斉に行う公的な祈祷について言及したものであり、拝領時の個人個人の姿勢を定めたものではない。
事実、同じ『総則』が、「ひざまずいてまたは立って」「口でまたは許可があれば手で」と複数の選択肢を用意しているのであるから、「他の信徒に合わせて同じようにするのが基本」というのは無理がある。

先ほども引用したとおり、「信者は口で受ける権利をつねに持っている」のである。
全信者につねに認められた権利を、たまたまある場所で「少数派だから」という理由で制限するのは、真理にも愛にも背くことではあるまいか。


善意の発言ではあるが、事実誤認であり、マイノリティ差別につながる恐れも

なお、上述の記事を最後まで読むと、勝谷司教は「ひざまずいて口で受ける人を『変わった人』と決めつけず、許して受け入れるのでなければ、共同体の真の一致はない」という意味合いのことを仰っていて、全体としては、教区民に愛徳と寛容を求める趣旨の、善意からのお説教だったものと推察される。

しかしながら、これまで見てきたとおり、ひざまずいて口で拝領するのは教会の規定に沿った正しい行為であり、他人に「許して」もらう筋合いなどない。

誰かが無実の罪を着せられてリンチされている時に、「彼は悪人だけど、暴力は良くないよ」と言うのが正義だろうか? 被害者に濡れ衣を着せているという点では同じではないだろうか?
不当な同調圧力に屈しない少数者について、その正当性を擁護するどころか、事実に反して「多数派の方が正しい」と言ってしまうのでは、たとえ「差別は良くないけれど」と言い足していても、現実問題として少数者差別を助長しかねない。


正義と真理との光明なるイエズス・キリストを信じる者の一人として、特にその発言が比類なき権威を帯びる司教様の説教という重大さを鑑み、僭越ながら記事の速やかな訂正をお願いするものである。■




なお、誤解のないように言い添えておくが、筆者には立ったまま手で拝領することを望む信者を非難する意図は一切ない。個人の感じ方や好みは様々であるから、教会の許可が出ている限りそれを責めるのはお門違いであろう。

いささか旧聞に属する話で恐縮だが、第3回臨時シノドスの事前アンケートに対する司教協議会の回答(2014年1月15日付)が実に興味深い。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/pontifical/synodus/synodus14th/res_jpn_sp3.pdf

日本宣教どころか、教会内でも信仰の世代間継承に失敗し、信徒の高齢化で教会が急速に自然消滅へと向かっている現状に対して、厳しい認識が率直に述べられている。
たとえばこんな具合だ。


次世代の人たちに信仰を伝えることは、極めて危機的な状況にあり、大きな課題である。
 (7ページ)

信仰教育に関する全国・教区・小教区レベルでの体系的な司牧計画は皆無に等しいと言わざるを得ない。一生懸命やっている教区、小教区、司祭、信者も確かにいるが、あまりにも個人の努力に依存している。

司牧者の養成あるいは使命感に大きく左右されている。司牧者によって信仰教育のレベルが異なる。まずは司祭養成を徹底する必要があると思われる。

家庭での信仰教育がおろそかにされているように見受けられる。
(4-5ページ、下線は引用者による)


教会学校/日曜学校のリーダーなどを経験した人ならご存知だろうが、信者の子(ボンクリ=ボーン・クリスチャン)は大半が、次のような経過をたどって最終的に信仰を失うに至っているのが実情だ。

小学校低学年・・・初聖体の準備として信仰教育を受ける(十〜数十コマ)。
初聖体以降・・・塾や習い事などで(?)、教会に来ない者が多くなる。
中学校頃・・・堅信のために信仰教育を受ける(十〜数十コマ)。
中学・高校・・・部活などで教会に来なくなり、また周囲の人間がほとんど未信者であるため世間的な価値観に染まっていく。家庭で信仰教育がなされていなければ、教会の教理や道徳を耳にすることすらなく、完全に教会から離れ去る。

皆が同じ年頃に初聖体や堅信で少なくとも一定期間は一斉に要理教育をすることができるというのに、司教協議会みずから「司牧計画は皆無」と公言するという状況は、最も控えめに言って、理解に苦しむ(かくも痛烈な自己否定のできる司教様がたの謙遜さはほむべきかな)。


個人的には、初聖体の年齢設定や教育内容にも改善の余地はあると思うが、そこは措くとしよう。
日本の教会全体としてなにより問題とすべきは、初聖体後の信仰教育である。

長崎辺りは違うのかもしれないが、私の知る限り、小学生向けの教会学校では「(聖書の話を読んで、あるいは自然の中で)神さまの愛を感じましょう」といった感傷的なアクティビティが多く、公教要理を使って「信ずべきこと」「守るべきこと」を覚えるのが中心というカリキュラムにはお目にかかったことがない。

まして中高生ともなれば、カトリック的な倫理観やその根本にある自然法概念についても知らされるべきであろうに、彼らの年齢に即した適切な教材が極めて少ないのだ。
(なくはないのだが、どうしても説教くさく感じられ、生意気盛りの中高生は聞き飛ばしがちなのもまた事実・・・)

難しい年頃であるから、要理を丸暗記させたり上から善悪を押し付けようとしても難しいだろう。むしろ、彼らが教会に対して抱く疑問や反発を、そのまま受け止め、知的に解決するような読み物が求められている。

以前「おすすめの本」で紹介した『永遠の常識』(http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/37391216.html )などは、初学者にありがちな質問をかみくだいて解説しているという点でまさにうってつけと言えるが、もちろん文庫本1冊だけでは足りるはずもない。


初聖体と堅信を、単なる通過儀礼として終わらせず(この点、親たちの意識を変える必要があろう!)継続的な教育プログラムを、少なくとも教区レベルで体系的に実施するのでなければ、幼児洗礼の子の大多数が、自分が受け継いだ信仰がどのようなものか知ることすらなく成人前に教会から離脱する、という状況を改善することはできないだろう。■

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