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カトリック的。
信徒数13億人でも日本では知られていないカトリック。正統キリスト教会を気楽にご紹介します。

書庫カトリック的に考えようとしてみた

世の中の出来事、信仰に関わる問題などについて、カトリック信徒の視点から思うことなどをつらつら書いています。記事は上から下に新しい順から並んでいます。

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前編では、真の教会の四つの特徴「一」「聖」「公」「使徒的」のうち初めの二つについて見てみました。http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/64758812.html

今日は、残りの二つについて見ながら、キリストの設立した教会と現存の教会とが、どのように連続しており、同一性を保ってきたのか、について考えてみたいと思います。


(3)「公 Catholica」:普遍的である


真の教会の三つ目の特徴は「公」つまり普遍的である、ということです。
カトリックのことを「公教会」とも呼ぶように、「カトリック」とはギリシャ語の「カトリコス(公的、普遍的)」という言葉に由来しています。

キリストは使徒たちに「行って、すべての国の人々を弟子にしなさい」(マテオ28・19)と命じました。全世界が対象ですから、教えは普遍的でなければなりません。特定の国、特定の人種にだけ適用されるものではないのです。
カトリックは全世界の人々が同じ信仰を共有しています。「〇〇国教会」というものはありません。アメリカのプロテスタント社会では世間的地位と所属する宗派とがリンクしているそうですが、カトリックでは王侯貴族も一般市民も同じです。

地理的だけでなく、時間的にも普遍的です。「不変的」といってもよいでしょう。
カトリシズムは、特定の時代にだけ適合するものではありません。教理は神から啓示された真理ですから聖なるもので、真理であるから永久に変わることなく続きます。反対者から「時代に合わせて教義を変えるべきだ」と攻撃されようとも、決して変わることはありません。
一方プロテスタントはキリストの教えよりも時代時代の人間の都合を優先して、離婚や同性愛や女性聖職者といった、聖書が明確に禁止していることまで容認してしまいました。時代を超えた普遍性という観念は存在しないようです。


(4)「使徒的 Apostolica」:使徒伝来である


最後に、真の教会の四つ目の特徴が「使徒伝来である」ということです。
そしてこれが、キリストが設立した本来の教会が、同一性を保ったまま継続していくためのポイントになるのです。順を追ってみてみましょう。


使徒とは何か


キリストは世にいた間、弟子の中から12人の男性を選んで「使徒Apostoli」と名づけ、教会(信者の群)を統治し、教え導き、秘跡を執行するという、聖職者としての権能を与えました。
また、使徒のうち特にペトロを選んで頭とし、彼を礎石として教会を建てる、と宣言しました。「あなたはペトロ(岩)である。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。」(マテオ16・18)
つまり、キリストの教会は、ペトロを頭とする使徒たちに始まり、その後継者たちによって引き継がれていかねばなりません。

さて、使徒の後継者といっても使徒の血縁、子孫ということではありません。
使徒たちは人間的な卓越性のゆえに選ばれたのではなかったことを思い出しましょう。使徒たちは学者でも宗教エリートでもなく、無学な労働者でした。漁師出身のペトロは、キリスト捕縛の際には主を否認するという人間的弱さをさらけ出しています。

つまり、使徒が使徒たるゆえんは彼らの人間的価値(徳の高さなど)ではなく、キリストが彼らに聖職者としての権能を与えた、というその事実そのものにあるのです。
したがって、使徒の後継者は世襲ではなく、その権能と責務の継承により決まります。


司教は使徒の後継者


前回、秘跡には七つあると書きました。そのうち、ここで重要なのが「品級(叙階ともいう)」の秘跡です。品級とは、平信徒を聖職者に変化させる秘跡のことです。
キリストによって聖職者にされた使徒たちは、この秘跡によって後継者を作り出すことで、自分たちの没後も教会の活動を継続させたのです。

使徒の後継者のことを「司教Episcopus」と言います。
ちなみに、司教の中でもローマの司教は、使徒の頭ペトロの後継者で「教皇Papa」といいます。

さて、使徒の権能を受け継いだこれら司教たちも、また同様に聖職者を再生産し、かくしてカトリック教会は2000年にわたり存続しているのです
このように、キリストが使徒に与えた権能が保たれていることを、教会の「使徒継承性」といいます。真の教会の特徴の最後、四つ目の特徴がまさにこの「使徒継承性」なのです。


プロテスタント諸教団で起きていること


新約聖書にも記されていますが、教会はその最初期から「異端」つまりキリストの教えとは異なる説を奉じる人々に悩まされてきました。
異端者は遅かれ早かれ、自説に即して儀式をも改変するものです。しかし、秘跡の本質にかかわる部分が改変されると、その秘跡が有効に執行されなくなってしまいます。

特に重大なのが「品級」の秘跡です。もしもこの秘跡の本質にかかわる部分を改変してしまうと、その新しい儀式を受けた人は、本来あるはずだった秘跡の効果を受けることができません。つまり、「聖職者に変化させられない」ということです。
ひとたびこうなってしまうと、もはや聖職者を再生産することが永久に不可能となり、「使徒継承性」が失われてしまいます。

聖公会を含むプロテスタント諸教団で起きている事態がまさにこれです。

カンタベリーの「主教」だとか、ルター派の「監督」だとか称してはいるものの(日本語訳が違うだけで、原語はカトリックの「司教Episcopus」と同じ)、実際には聖職者には変化させられておらず平信徒のままなのです。他の聖職者を作り出すこともできません。

聖公会などで聖職者の地位にあった人がカトリックに帰正した際に、カトリックでも司祭として活動するために品級の秘跡を受けるというケースがよくありますが、それはこういう事情があるからなのですね。


いかがでしたか?

今回は、真の教会の四つの特徴のうち、後半の二つ、「公」「使徒的」について考え、カトリック教会が、キリストの設立した初代教会から連続的に同一性を保っていることを確認しました。
普段なかなか知ることのできない、キリスト教の「正統」とは何か、お分かりいただけたのではないでしょうか。

書籍やインターネットでは様々な誤った情報が出回っています。偽のキリスト教系宗教団体の危険な説を真に受けないようにするためにも、参考にしていただければ幸いです。■


カトリックとプロテスタント ―「本当のキリスト教」とは?


キリストが設立した本来の教会「カトリック」に対して、ルターやカルヴァンといった教祖たちが作った宗教団体を総称して「プロテスタント」と呼びます。
つまり、正統キリスト教とはカトリックのことを指します。

それにしても、教会の「正統性」とは何でしょう。
キリストが設立した教会の連続性、同一性はどのように保たれているのでしょうか。


教会の四つの特徴


ニケーア・コンスタンチノープル信経には、「我は、一、聖、公、使徒的なる教会を信じ奉る」とあります。
真の教会は、この四つの特徴を備えていることによって、他の「自称キリスト教」宗教団体と区別されます。


(1)「一 Una」:唯一である


真の教会は唯一です。真理は一つです(互いに矛盾する命題が両方とも真であることはあり得ません)。聖書にも「主は一人、信仰は一つ」(エフェゾ4・5)とあります。

カトリック教会は一つの教会です。世界で13億人近い信者を抱え、宗教の一宗派としては世界最大とも言われています。13億人が、地上におけるキリストの代理者であるローマ教皇を筆頭に、まったく同じ信仰箇条を奉じているのです。

ひるがえってプロテスタントは、互いに異なる信仰箇条を持つ無数の宗教団体の総称です。
救いとは何か、洗礼の意義は、といったキリスト教の根本のところでさえ教団により意見はさまざま。中にはキリストが神であることすら認めない宗派もあります。一致しているのは「カトリックではない」という点だけと言っても過言ではありません。
個々の教団の教えの中には、正しい主張も間違った主張もあるでしょう。ただ少なくとも、数万もの互いに対立する宗派に分裂している「プロテスタント」なるものが、キリストの真の教会としての「唯一性」を体現しているとは決して言えないですね。


(2)「聖 Sancta」:聖なるものである


カトリック教会は、その創設者であるイエズス・キリスト(人となった神)は言うまでもなく、2000年の歴史の中で無数の聖人によって支えられてきました。
キリストの定めた「七つの秘跡」も保たれています。秘跡とは、目に見えるしるしを通して神の恩寵を具現化する儀式のこと。たとえば洗礼は、水と司祭の言葉とによって、受洗者の霊魂に消えない印を刻み付け、罪を洗いきよめ、神の子としての資格を与える秘跡です。また聖体の秘跡つまりミサ聖祭の厳かさは、一度でも与ったことのある人には説明するまでもないでしょう。

カトリックでは、教会は「信者を聖化する場」として捉えられています。
同好の士が集まる聖書勉強会とも、説教を聞き一緒に歌って陶酔するサークル活動とも違います。人間の集会ではなく、「聖なるもの」なのです。

プロテスタントでは、聖人を認めない宗派も多いですし、秘跡に対する考え方も異なります。「聖なるものの中の聖なるもの」とでもいうべき「ご聖体」は、プロテスタントには存在しません。
中には、「私は救われた!」とか「霊が私に降った!」という主観的な感動(しばしば自己満足に過ぎない)こそが大切だ、とする宗派もあるようです。個人の感覚や思い込みよりも客観的事実や理性を重視するカトリックにはなかなか理解しがたいことですが…。


いかがでしたか?

今日は、キリスト教での「正統」とは何だろうか、という問いから始まって、真の教会の四つの特徴のうち初めの二つ、「一」と「聖」について見てみました。

キリスト教に「カトリック」と「プロテスタント」があると聞いたことはあったけれど、カトリックが単体で13億人を抱える一つの宗派で、プロテスタントは「カトリックを否認する」という一点で共通する無数の新しい宗派を総称したもの、とは知らなかった人も多いのではないでしょうか。

後編では、真の教会の四つの特徴の残りの二つ、「公」と「使徒的」について見ながら、キリストの設立した教会と現存の教会とが、どのように連続しており、同一性を保ってきたのか、について考えてみたいと思います。

お楽しみに!■

愛の定義


「愛」という言葉ほど、誤解され、濫用されている言葉もないだろう。

ヒットチャートには甘いラブソングが並び、「愛」という言葉を耳にしない日はないほどだ。しかしその実、「愛してる」と口にする本人すら、愛の何たるかをまったく理解していないかもしれない。


愛とは何か


愛とは、「相手の幸福を願うこと」である。

人は本性的に、自分自身の幸福、善の実現を願うものである。
一方、愛とは他者において善をあらしめんとする意志であり、その帰結としての行動である。心に湧き起こる情念ではない。

愛が感情ではないという事実は、現代社会に重要な示唆を与えてくれるだろう。

誰かを愛するかどうか、すなわち相手が幸福であることを望むかどうかは、自分自身で決めることだ。したがって、たとえ憎たらしくて仕方のない相手であっても、彼を愛することができるのである。

キリスト教倫理は「汝の敵を愛せ」というイエズス・キリストの言葉に象徴されるが、もしも愛が感情であるならばこれは到底、実現不可能な掟というほかない。
人は心に勝手に湧き起こる感情そのものはコントロールし得ないから。

そうではなく、キリストは「汝の敵の幸福を望め。彼を大事にすると決意せよ」と命じているのだ。多くの場合それは愉快な決断ではないかもしれぬが、少なくとも決断するかしないかは本人次第である。


結婚の不解消性


こう考えていくと、一般に愛の結実と考えられている結婚についても、認識を改める必要が出てきそうだ。

結婚式では新郎新婦が、どちらかが死ぬ時まで、互いに変わらぬ愛と忠実とを尽くす、と誓う。
これは「死ぬまでラブラブでいようね☆」という宣言ではない。

容貌が劣化しようとも、性格に少々難があろうとも、経済観念が相容れなかろうとも、ついには相手に好感を覚えなくなろうとも、死ぬまで相手の幸福を最優先にし、相手を大切にし続けるという義務を自らに課すという(恐るべき)誓約なのだ。

これは必ずしも容易なことではない。しかしそれだけに尊い誓いである。
なればこそ、神は婚姻の秘跡を制定することによって、結婚を祝福し、恩寵をくだし、夫婦を強めるべくお定めになったのだろう。


マタイによる福音書 19・3-12


その時、ファリサイ派の人々がイエズスに近づき、イエズスを試みようとして、「何か理由さえあれば、夫が妻を離縁することは許されていますか」と尋ねた。
イエズスは答えて仰せになった、「あなた方は読んだことがないのか。創造主は初めから、人間を男と女とに造り、『それ故、人は父母を離れて自分の妻と結ばれ、二人は一体となる』と仰せになったことを。したがって、彼らはもはや二人ではなく、一体である。それ故、神が合わせたものを、人間が離してはならない」。

彼らは言った、「それでは、なぜモーゼは離縁状を渡して、離縁するようにと命じたのですか」。
イエズスは仰せになった、「あなた方の心が頑なだから、モーゼは妻を離縁することを許したのである。しかし、初めからそうではなかった。あなた方に言っておく。非合法な結婚以外の理由で、妻を離縁して他の女を娶る者は、姦淫の罪を犯すことになる」。

弟子たちはイエズスに言った、「夫婦関係がそのようなものなら、結婚しない方がましです」。
イエズスは仰せになった、「全ての人がこのことを受け入れるわけではない。ただその恵みを与えられた人だけである。生まれつき結婚できない者があり、また人から結婚できないようにされた者があるが、天の国のために進んで結婚しない者もある。これを受け入れることができる者は受け入れなさい」。

身代金とカトリシズム

同胞がテロリストに誘拐され身代金を要求される――、こんな事態がもはや他人事ではなくなった。

身代金を支払うとテロリストを増長させ際限なく誘拐事件を発生させることになるから、支払うべきではない、というロジックは正当だ。
一方で、なぜこの人が、無実の被害者が、犠牲にならなければならないのか、という思いも残る。


さて、国によって身代金に対するスタンスに差がある、と報じられている。
絶対に支払わない国と、表向き支払わないとしながらも陰で支払っている国があるというのだ。

・ 絶対に払わない国・・・アメリカ、イギリスなど
・ 陰で払っている(らしい)国・・・フランス、スペイン、イタリアなど

これを見ると、前者はプロテスタント教を国是とする国、後者はカトリックの伝統が強い国、ときれいに分かれている。何か理由があるのだろうか。


カトリックには、「十四の慈善事業」という考え方がある。物質的・精神的それぞれ七つずつ、模範的な善業を列挙するものだ(出典により順番は異なるが内容は同じである)。

<七つの物的善業>
・飢えている人に食事を与えること。
・渇いている人に飲み物を与えること。
・服のない人に衣服を与えること。
・病人を見舞うこと。
・宿のない人を泊めること。
・捕虜を身請けすること。
・死者を弔うこと。

<七つの霊的善業>
・悩んでいる人に助言を与えること。
・無学な人を教え導くこと。
・悲しんでいる人を慰めること。
・罪人をいさめること。
・侮辱を受けてもゆるすこと。
・他人の過誤や欠点をこらえること。
・生者と死者とのために祈ること。


聖書(マタイ25:34以下など)中のキリストの言葉に由来する考え方である。もとより善業がこの14例にとどまるものではないが、カトリシズムでは他人、とくに困難な状態にある人に対する愛の業が人間の責務とされ、その代表例として列挙されているものである。

ここで、「捕虜を身請けすること」が七つの物的善業の一つに数えられていることが注目される。
不自由な状態に置かれている人を救出することが、天に称賛される愛の業とされているのである。

上述の、身代金を支払ったとされる国々が軒並みカトリックの伝統の強い国であるということは、もしかするとこの「十四の慈善事業」という考えが影響していたのかもしれない。
つまり、たとえ悪人を利することになってでも、一人の無実の人を助け出すのは一層尊いことだという発想が背景にあるのではないか、ということである。


一方、プロテスタント諸国ではいささか事情が異なる。

ルターのいわゆる宗教改革が、贖宥状販売(これも他人や死者のために身銭を切るのは善であるという発想に基づいている)に反対して始まったという経緯から、プロテスタント教においては「善業は救いにとって無価値である」という強固な根本理念がある。
もちろん、「十四の慈善事業」という規範も存在しない。
結果として、「捕虜を身請けすべきかどうか」という逡巡から比較的容易に脱し、冷徹に対処することができるのではないだろうか。

また、プロテスタンティズムは、「全体の利益を最大化するためには、誰か個人が人柱になるのはやむを得ない」という(ある意味で全体主義にも通ずる)発想と親和性があるのかもしれない。
人類史上最悪の全体主義といえばナチズムだが、当時のドイツでもプロテスタントの強い地域ではナチスの支持率が高く、カトリックの多い地域は反ナチという好対照が見られた。

カトリシズムにおいては、「キリストは、抽象概念としての<全人類>ではなく、個人、ひとりびとりをそれぞれ愛し、救い給う」という信仰から、全体のために個人を犠牲にする考えを拒否する。
一人ひとりが幸福でなくて何が「全体」の幸福か、という発想があるのだ。
ある意味ラテン気質と言おうか、誰かを見殺しにするくらいなら、皆がほどほどに幸せな世界の方がいいんじゃないか、という考えである。


もちろん、それぞれの国の背後にある宗教伝統が、果たして身代金に対する考え方にも影響を与えているのかどうか、本当のところは分からない。あくまで推論の域を出ない。

ただいずれにせよ、日本はどのような社会を志向するのか、どのような理念を優先するのか、考えて行かなければならないだろう。我々に突きつけられた課題は大きく、重い。■

日本は宗教に寛容だと思っているおめでたい人々がいまだにいるようだ。

いわゆる「有識者」が、「七五三は神社、結婚式は教会、葬式は寺に頼むといった具合に宗教に寛容な日本人が、世界各地に宗教間・宗派間の対立が深まる中で果たせる役割があるのではないか」などと寝ぼけたことを言っているのを見ると、あまりのお花畑っぷりに開いた口がふさがらない。


無節操は寛容ではない


祭やクリスマスなどのイベントを表層的に消費することは、寛容とは対極にある。

男女関係にたとえてみよう。
もしある男が、気軽なデートにはA子、華やかな席に連れて歩くにはB子、会話を楽しむにはC子、ベッドの相手はD子・・・と、まるで女性をアクセサリーか何かのように扱っていたとして、彼は「女性を大切にしている」と言えるだろうか?
否、そのような男を、「女の敵」と呼ぶ。

節操のなさは寛容の表れではない。むしろ、対象への無関心と軽侮を示すものである。


寛容は「他者」への徳


「そうは言うけれど、日本では神仏習合という、宗教に寛容な伝統があるのではないか」と反論する向きもあろう。

これに対しては、日本では数百年にわたりキリスト教のみならず一向宗や不受不施派なども弾圧されたではないか、とか、そもそも仏教伝来時には宗教戦争が起こったではないか、とか、色々と指摘できるがここでは措く。

果たして神仏習合は、宗教に対する寛容の表れだろうか? 日本に限らず外国でも、ある種のヒンドゥー教寺院のように、モーゼもブッダもキリストもマホメットも、みんな自分のパンテオンに組み込んでまとめて拝んでいるという例があるが、それが寛容と言えるだろうか?

答えはノーだ。
自分とは異なる信仰体系の一部分だけを恣意的に選んで取り込んだだけであって、全く相手と向き合っていないからだ。
実際、一見「寛容」な多神教であるインドで、他宗教(仏教・キリスト教・イスラム教)に対する極めて激しい迫害が現在進行中である(日本ではあまり報じられないが)。

寛容とは「他者」に対する徳である。
自らに内在化させたものを尊重したところで、それは単なる自己愛の表出にすぎない。


日本は寛容/不寛容 どちらを選ぶか


筆者は、歴史的にキリスト教世界が寛容であったとか、他宗教に対する態度が理想的であったとか主張するつもりはまったくない。

しかし、ただ一つ言えるのは、キリスト教世界においては「寛容とは他者を受け止めることだ」と認識され、かつ寛容は美徳であり積極的に実践すべきだと考えられていることである。
もちろん必ずしもその実践に成功しているとは思わないが、それでも例えば今般ドイツでPEGIDAよりも反PEGIDAデモの方が圧倒的に多い人数を集めたという事実は、「人は寛容であるべきだ」という認識が共有されている証左ではある。

ひるがえって我が国では、そもそも寛容の何たるかが理解されていない(不寛容の極致のような現象を「寛容」の証拠として挙げる輩が後を絶たないほどだ)。
また、寛容を実践すべきだとも必ずしも考えられておらず、異質なものを排除しようとする傾向があるのも事実である。

筆者としては、同質性を追い求めるギスギスした狭苦しい社会より、互いを尊重し豊かな多様性のある社会の方が健康的で望ましく感じられる。
「和を尊ぶ」と言われる日本人だ。他者に対しても相和すことができれば鬼に金棒と思うのだが、どうだろうか。■



「寛容」とは何か・・・併せてお読みください:
藍より青く寛容たれ、日本人 http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/48641712.html

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