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カトリック的。
信徒数13億人でも日本では知られていないカトリック。正統キリスト教会を気楽にご紹介します。

書庫カトリック的に考えようとしてみた

世の中の出来事、信仰に関わる問題などについて、カトリック信徒の視点から思うことなどをつらつら書いています。記事は上から下に新しい順から並んでいます。

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前教皇ベネディクト16世は、在位最後の2年間(2011〜2012年)だけでも約400人もの司祭を聖職剥奪処分にしていたことが明らかになった。
マスコミはベネディクト16世の在位中、「バチカンは司祭の性的虐待問題についてきちんと対処していない」と散々に糾弾していたが、とんだ濡れ衣だったようだ。

聖職剥奪というのは、司祭に対して下される最も重い処分である。それが教皇主導で執行されたということは、ベネディクト16世が性的虐待問題を極めて深刻に受け止め、厳正に対処していたことの証左といえよう。


■教皇のイニシアチブ

このポイント、お分かりになるだろうか? 教会のヒエラルキー(聖職位階)を知らない人にはピンとこないかもしれない。少し補足説明しよう。

ざっくりいうと、教皇の下には各地を管轄する「司教」という高位聖職者がいる(教皇自身もローマの司教)。司教に従属してその活動を助けるのが「司祭」だ。
したがって、教皇が各地の(直属でない)司祭を聖職剥奪処分にしたというのは、総理大臣が自治体の長をすっ飛ばして村役場の係長を直々に解雇するかのような衝撃があるわけだ。

本来、当地の最高責任者である司教が配下の司祭を処分するのが筋なのだが、問題司祭を別の小教区へ配置替えにして事件を隠蔽するケースが後を絶たなかったようである。
そのような馴れ合いに業を煮やしたベネディクト16世は自ら鉄槌を下した、といったところだろう。


■教会を国際警察と勘違い?

さて、カトリック叩きができず癪にさわったのだろうか、マスコミの中には苦し紛れにこんな批判(?)をするところもあった。曰く、

「犯罪者を教会から追放して後は我関せずとは無責任だ」
「元司祭は今や何の束縛もなく自由に子供たちに近づけてしまう」

支離滅裂だ。
報道機関が、よりにもよってそんなことを言ってしまっていいのだろうか? 教会が世界を股にかけて犯罪者を逮捕し、火あぶりに処すべきだとでも? 

悪名高い異端審問においてさえ「教会は血を欲さず Ecclesia non sitit sanguinem」といって、異端者を直接体刑に処すことはなかった(また、イメージとは違って死刑にならないケースが相当数あったことを付記しておく)。異端と判定された者は世俗の司直に引き渡され、世俗当局から刑罰を受けたのである。
私は教会の権益を擁護することにおいて人後に落ちぬつもりでいるが、中世にも存在しなかった恐るべき権限を軽々しく教会に与えようという主張にはさすがに賛同しかねる。


■強制的に「無職のホームレス」になる

「元司祭が犯罪を続けられる」というのも事実に反する、批判のための批判だ。聖職者という身分であったからこそ被害者と接することができたのであって、聖職剥奪処分はその機会を封じることになるのである。教会に、その上何をしろと言うのだろうか? 

聖職剥奪ではまだ手ぬるい、とお考えだろうか? 先ほど私は「最も重い処分」だと書いた。何しろ、就労経験のない中高年の独身男が、ある日突然おまんまの種も住む家も失うのである。これは実際かなり苛酷な事態ではなかろうか。

言うまでもないが私は虐待行為を断じて容認しないし、教皇庁が常にこの問題に適切に対処してきたと主張する気もない。バチカンの不作為や隠蔽の責めは、ベネディクト16世ではなくむしろ前任のヨハネ・パウロ2世にこそ帰すべきかもしれない(少なくともベネディクト16世がヨハネ・パウロ2世のしなかった処断を下したことは事実である)。


■カトリック批判のためには自己矛盾も辞さない人たち

それにしても、教会に刑罰権を与えよだなんて、大チョンボもいいとこだ。
何か事件を起こしたサラリーマンに対して、「企業は懲戒解雇せず、社内に独房を作って死ぬまで監禁すべきだ」と言う報道機関は恐ろしすぎる。
いくらキリスト教が嫌いだからといって、筋の通らない批判をしていたのでは説得力も何もあったものじゃないと思うのだが、余計なお世話だろうか。■

前教皇(ローマ法王)ベネディクト16世の退位は神秘体験がきっかけだったのでは、と報じられている。
http://www.catholicculture.org/news/headlines/index.cfm?storyid=18796

2013年2月11日の突然の辞意表明は全世界に衝撃を与え、健康状態が良くないのではとか、学者でもある彼には腐敗した高位聖職者の権力闘争が我慢ならなかったのではとか、さまざまな憶測を呼んだ。
退位発表では「神のみ前で良心に照らして熟慮を重ねた結果、老齢による体力の衰えのため、今後ペトロの後継者としての任務を全うしていくことができないという結論に至った」とされていた。

今回の報道によると、聖下はある日祈りの最中に何か神秘的な体験をし、「余生を静かな祈りのうちに過ごすよう神が望んでおられる」と感じたという。

上記CWNの記事でも指摘されているとおり、情報源が匿名のため真偽を確かめようのない話ではある。
また、「この世における神の代理者」という重責を辞するに当たっては、その辞意の理由が何であったにせよ、当然ながらその決断が神のみ旨に適うものかどうか長い間祈り熟考したであろうから、退位という決断をしたということは、祈りのうちに何らかの天来の示唆を得たと考えるのが自然である。

したがって、必ずしも神秘体験が退位の直接的原因になったとまでは断言できないだろう。


「戦力外通告」ではない
ところで、キリスト教のバックグラウンドがない日本の読者にわかりやすいようにとの配慮だろうか、それとも単によりセンセーショナルにしようと考えたのか、日本のメディアでは「『神のお告げ』で退位決断」というニュアンスの見出しが付けられていた。

これではまるで、打ち込まれたピッチャーに監督が投手交代を告げるように、神が直々にお役御免を通告したかのようだ(記事を読めばそうでないとわかるが)。
そのため、そんな見出しに釣られて「法王失格の宣告か」などと揶揄するコメントも一部に見られた。

我々カトリックの感覚からすると、もしも本当に神から「汝の治世は失敗だったから責任を取って辞任せよ」と言われたのであれば、聖下は退位発表の際に喜んでそのとおりに理由を告げたろう。それがキリスト者の美徳というものなのだ。

実のところベネディクト16世の治世は、彼に起因しないトラブル(Vatileaks、聖職者の性的スキャンダル等)に見舞われたものの、失政というほどの問題があったかは大いに疑問だ。むしろ、悪魔の方が「このままでは第2バチカン公会議以降せっかく築いてきた地歩が奪われてしまう」と戦々恐々だったのではなかろうか。

【注:第2バチカン公会議を主導した教皇パウロ6世(位:1963-1978)は、今なお続く教会の腐敗と混乱を招いた張本人の一人として正統派カトリックから目の仇にされがちだが、その彼ですら、公会議後のいわゆる「改革」が余りに公会議の精神から離れていく様を目の当たりにして、「神の神殿にサタンの妖気が入り込んだ」と嘆いたというのは有名な話。】


ヒーローたちの引退秘話
ベネディクト16世は在位中、忙しい公務をこなすとともに、一神学者としても精力的な執筆活動を続けていた。しかし退位後は、専ら祈りと観想の生活を送り執筆活動は行わないとのこと、教え子たちが毎年開いているカンファレンスにも今年は出席しない方針とも伝えられた。

http://www.catholicculture.org/news/headlines/index.cfm?storyid=18812

神秘体験を経て一切の著述活動を中止し、祈りに専念する生活に入る…、この話を聞いて私は、聖トマス・アクィナスを思い出した。
伝記者によると聖トマスはある日を境に一切の著述活動を止めてしまった(人類の至宝『神学大全』もこのため未完に終わり、残りはドミニコ会の同僚たちが完成させた)。理由を問われたトマスは、神秘的な体験をしたと明かし、「わたしに示されたものに比べれば、わたしが書いてきた本など藁屑に等しい」と語ったという。

神はヒーローたちに観想の慰安と休息を与える一方、あえていくつかの大きな仕事を未完のまま残させることで、次代の者たちが重責を継続していくことをお望みになるのかもしれない。■

新教皇フランシスコは3月14日、システィーナ礼拝堂で教皇選出後はじめてのミサ聖祭を司式し、説教の中で
「イエズス・キリスト(への信仰)を告白するのでなければ、我々は教会ではなく慈善団体となってしまう」

と述べた。
www.news.va/en/news/pope-francis-1st-homily-full-text


聖下の出身地である中南米は、近年まで「解放の神学」が猛威をふるっていた地域である。政治運動を信仰よりも優先する思潮は誤りだ、と改めて釘を刺したものであろう。

我々は神を愛するがゆえに、神が命をかけて愛された人間をも愛するのであって、その逆ではない。
社会正義や世界平和は大切だが、それら現世的価値を至上の目的としてしまうなら、つまり、教義の問題よりも正義と平和の方が大切だと言うならば、それはキリスト者として自己矛盾であり、神よりも俗世間が大事だと言っているのに等しい。
聖下は同じ説教の中でこれを悪魔礼拝として断罪している。


日本の報道では触れられていなかったが、これに続く次のような言葉にも注目したい。
「十字架ぬきにイエズス・キリストを信じようとするならば、我々は主の弟子ではない」
「我々は十字架に釘付けにせられたキリストをのべ伝える勇気を持たねばならない」



筆者は、ここには二つのメッセージが込められていると考える。


お気楽なセンチメンタリズムではない


第一に、カトリシズムは処世訓や自己啓発のようなものではない、ということである。

キリスト教の根幹は、「我ら人類の救いのために、神が人となって苦難を受けたもうた」という驚天動地の歴史的事実に対する応答だ。
キリスト者はそれぞれ自分の十字架を担い、主イエズス・キリストのあとに従う。その道はときに険しく過酷であるが、その先には主が十字架によって勝ち得た栄光があると知っているからこそ、信者は喜びをもってこの涙の谷を旅するのである。

キリスト教の愛とゆるしを称賛する人は多いが、十字架の犠牲(いけにえ)について語る人は少ない。しかし、愛は犠牲によって証明され、罪のゆるしは十字架をとおしてもたらされる。


犠牲の観念を除去すればキリスト教は聴く者の耳に心地よく、通俗道徳として広く受け入れられるのかもしれないが、そんなものをもはやキリスト教と呼ぶことはできない。
現世での幸福や心の癒しなどは新興宗教・疑似宗教に任せ、我々は真剣な信仰の道を行くとしよう。


キリストの十字架上の死によって救われる


第二に、人類の救いはキリストの「復活」によってではなく、十字架の苦難によってもたらされた、という神学的に重要なポイントである。

復活は、キリストの神性を示すものでもあり、また十字架の犠牲によって死の支配から解放されたことの論理的帰結でもある。
一方、十字架上のキリストの最期の言葉「成し遂げられた」からもわかるように、救いは十字架上で完成されたのである。

だからこそキリスト者にとって十字架という処刑具が栄光のシンボルとされるのであり、カトリック教会に必ず磔刑像があるのもそのためである。また、ミサ聖祭は別名を「無血のいけにえ」というように、この十字架の犠牲を祭壇上に臨在させる儀式である。

ところが、近年のカトリック教会内には、このミサの価値を低下させようとする人々が存在する。彼らは、ミサとは「共同体の会食」だと主張したり、ミサが本質的に犠牲奉献であることを明示する式文を改変したりしてきた。

そのような人々にとり、究極の犠牲を表現している磔刑像は目障り以外の何物でもない。そこで躍起になって、教会の磔刑像を抽象的な図像や復活のキリスト像に置き換えたり、ただの棒だけの十字架(プロテスタントか!)に換えたりしている。

また特に日本では、磔刑像は「残酷な印象を与える」として、復活のキリスト像に替えることがままあるようだ。私たち人間の罪によってキリストの十字架という「残酷な」出来事が起き、かつその「残酷な」出来事によって人類が救われたのだから、それを隠すのは欺瞞だと思うが、その欺瞞に無自覚な教会関係者が一部に存在するのも残念ながら事実である。


新教皇への期待


新教皇は「十字架なしにキリスト教は存続し得ない」と訴えることで、キリスト教を通俗道徳に矮小化せんとする傾向や、犠牲を軽視する主張に対して警告を発するとともに、磔刑像を復活像に置き換える不適切な慣習にも歯止めをかけようとしたのではないか。そう考えたことであった。

前教皇ベネディクト16世の8年間で、教会は第二バチカン公会議後の混乱と逸脱から、正常化に向けて勇気ある一歩を踏み出した。
新教皇フランシスコがその名のとおり「教会再建」の困難な作業を継続することができるか、期待のうちに祈りつつ注目していきたい。■

教皇(ローマ法王)ベネディクト16世が退位表明後はじめての一般謁見で、集まった信徒に「私のため、次期教皇のため、そして教会のために祈り続けてください」と述べたことが、一部のネットユーザーに驚きをもって受け止められたようだ。

Yahoo! ニュースのコメント欄には、

> 「私のために祈り続けて」とはどう言う神経なのだろうか。私の感覚では、どう考えても図々しいとしか思えないが(後略)

> 日本の天皇は、国民と国家のために祈るのが仕事で、決して、自分のために祈れなんて言わなかったのに(後略)


といった批判的(?)なコメントが並んだ。

それらを見て筆者の頭に浮かんだのは、「この人たちは、誰かのために祈らないのだろうか?」という疑問だった。
実のところ、筆者(そして多くのキリスト者)にとり「私のために祈ってください」というのは日常的に口にする表現であるため、そのような否定的な反応があったことは意外であり興味深い。
どうして違和感を持つ人が出てくるのか、考えてみた。


宗教が日常生活と乖離


まず言えることは、多くの日本人にとり宗教や信仰というものが日常生活で馴染みのないものだということである。これにはプロテスタント教、無神論、日本の伝統宗教という三つの宗教が影響していると考えられる。

明治期以降に米英から流入したプロテスタント教は、今なお日本人のキリスト教観のみならず日本人の宗教観に大きな影響を及ぼしているが、その特徴は、信仰を個人の主観(思い込みや感じ方)の領域に追いやり、客観的な検証の対象から外してしまったことである。
「信仰の私事化」と呼ばれるが、宗教が人の外にあるのではなく人の中にある、個人の感覚の問題だとなれば、社会生活(他者との関わり)の中に信仰実践の入る余地はない。

また、これはプロテスタント教による信仰の私事化とも関連するのだが、現代日本では無神論という非科学的な教義(ドグマ)が支配的だ。そのため、宗教と科学、信仰と理性が対立概念であるという間違った思い込みが蔓延している。
すべての信仰は本質的に道理に反すると信じこんでいる人にとって、宗教はあくまで伝統芸能や慣習、しきたりとしてのみ存在を許されるに過ぎない。自身の毎日の生活に宗教が登場するなどあり得ないのである。

それから実際問題として、日本の伝統宗教は明白に非科学的であるため、深刻な自己矛盾を抱えなければそのような信仰の実践と現代の生活とを両立させられない。
そのため多くの人が、迷信への愛着を正当化しようとして「信仰は個人のこころの問題」というプロテスタント流の論法に逃げるか、「宗教は<すべて>非科学的」と論理を飛躍させて無神論というこれまた非科学的な教義の盲目的な信奉者になっているのが実情である。


祈っても効果がないとされた人々


このように、日本では宗教が実生活から乖離している。その結果として、祈ることは特殊な人々(宗教者など)の「仕事」と見なされるようになり、一般人の日常からは誰かのために祈るという習慣が失われたものと考えられる。

また、もしも信仰が個人の主観に属するものだとするならば、祈るという行為はつまるところ当人の自己満足でしかない。となれば、自分のために誰かに祈ってもらおうと思わないのは当然である。

一方、宗教団体側にとっても、祈るという行為が一般人の手から離れることは、必ずしも憂慮すべきことではなかったろう。自己満足でない祈り(外界に効果を及ぼす祈り)ができるのは職業的宗教者だけだとなれば、それだけ自分たちの権威づけになるからだ。

以上、「私のために祈ってください」という常套句に違和感を覚えてしまう背景を概観した。
しかし、このような日本の現状は、普遍的に妥当性を持つものだろうか? 最後に少しだけ、キリスト教(カトリック)の感覚を簡単に見てみることにしよう。


「祈ってください」は愛と信頼の証

すべてのキリスト者にとって祈りは日常である。神との対話はいうなれば霊魂の呼吸であり、特殊な人の特殊な「仕事」ではない。カトリック信者は日々、困難な状況下にある人のため、死者のため、為政者のため、縁ある人々のため、等々、祈っている。
だから普段から「私のためにお祈りください」「あなたのためにお祈りしていますよ」といった会話が交わされる。自分のために祈りを求めることは、相手への信頼感や親愛の情の発露なのである。

したがって、もう理解いただけると思うが、ベネディクト16世が祈りを願ったことは、信者に対する愛と信頼を示すもので、「図々しい」どころかその逆で、聖下の奥ゆかしい人柄、「謙虚さ」を証している。
聖下は、たまたま人類のために神の前で大きな責任を負う職務にあるが、自分もまた皆と同じ一人の人間であり、隣人たちの祈りによって助けてもらう必要のある存在なのだということを率直に述べているのだ。

そこで思い出されるのは8年前、教皇に選出された時の「私は主のブドウ畑の、素朴で卑小な労働者」という発言。高名な神学者でありながら、その教皇としての治世は最初から最後まで、真のキリスト教的「謙遜(へりくだり)」の精神に貫かれていたといえよう。

願わくは我らの主イエズス・キリストが、かくも偉大な教皇に豊かな報いと平安の日々とを与えたまわんことを!

知られざる神に祈る

以前、祈りには「賛美」「感謝」「祈願」の三種類があるのではないかと書いた。

それに関連して、

くださいくださいと求める(<請求書の祈り>=祈願)ばかりなのを改めて、実はもう既に多くの恵みをいただいていることに気づき、ありがたく思う(<領収書の祈り>=感謝)べきだ

という言説は、間違いではないけれども、根本に「賛美」がなければやっぱり、自分の利益が欲しい、利益を得てうれしい、という損得勘定のレベルにとどまってしまう、とも述べた。
http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/62479692.html


人間は<請求書的>祈りをすべきである

ただし、誤解のないように言っておくが、「祈願」や「感謝」それ自体が損得勘定なのではないし、祈願が不必要だというのでもない。
上述の記事でも書いたように、どちらも人間にとって不可欠の、大切なものだ。

というのも、人間は明らかに完全無欠の存在ではない。足りないもの、できないことばかりだ。また、自分で完全な存在になることもできない。完全になろうと努めれば努めるほど、自分がいかに完全性から程遠いかがわかるというものだ。
したがって人間は完全に近づくために、より高次のものに助けられ、導かれる必要がある。
ゆえに、そのような助力を祈り求めるのは当然であるし、むしろ積極的に祈り求めなければならない。

だからおわかりいただけるだろう。「私は神仏にはすがらない」「宗教に頼るような弱い人間ではない」なんて言っちゃう人が時々いるが、それは甘やかされた若造が「俺は誰の世話にもなったことはない、一人で生きていける」とほざいているのと何ら変わりはない。不遜というかダサいというか・・・頭悪そうですネ。

だいたい、当ブログで何度も書いているとおり、信仰とはある事柄が真であると承認するという理知的なもの(地球が丸いと信ずることと同様)であって、そもそも「すがる」「頼る」ような類のものではないのだが。


なぜ日本には<請求書的祈り>と<領収書的祈り>の2種類しかないのか

さて一方で、現代日本の宗教行動(初詣など)において「賛美」が欠落しているのは、無理もないことだとも思うのだ。「祈願」や「感謝」は特に意識しなくとも行い得るが、「賛美」にはその対象が必要だからだ。

以前の記事で、祈りの三類型をサッカーで説明した。チームの勝利を願ったり勝利を喜んだりすることは試合を見なくたってできるが、選手や戦術を評価しようと思ったら実際のプレーを見ることが絶対に必要だ。

さて、それでは、神社仏閣に参拝する人達が神仏を意識しているだろうか? そこに何の仏が、何のカミが祀られているかも知らずに拝んでいる人も多いのではないか。
それだけではない。そもそも、仏教の如来や菩薩が宇宙のどこかに実在すると本気で信じている人がいるだろうか。神道でカミとして祀られている有象無象(天体・自然現象・動植物・はるか昔に死んだ人物等々)に、人間の願望を知覚する能力があると本気で信じている人がいるだろうか。
恐らくほとんどの人が、「いや、そのような<お話>を信じているのではなく、事物の裏におわします人知を超えた何ものかを拝んでいるのだ」と答えるはずだ。

そうなのだ。超越的なるもの(事物の背後におわします何ものか)に応答する、つまり「祈る」というのは、人間本性に根ざした根源的な行為だ。
しかし、日本の宗教は我々が通常抱いている世界観や現代科学と真っ向から対立しているように思われる。
したがって、他に道理にかなった信仰があることを知らないから、あるいは、自分の日常生活と宗教行動との矛盾に無自覚であるため、「祈る」という本性的な行為に際して既知の宗教の枠組みをとりあえず借りている、ということではないだろうか。

まさに「知られざる神を拝んでいる」(使徒行録17:23)のだが、何しろ「知らない」のだから、その神が具体的にどうすごいのかなんて語りようがないのである。


最後に繰り返しになるが、お恵みをくださいという祈り(<請求書の祈り>=祈願)と、お恵みをありがとうという祈り(<領収書の祈り>=感謝)だけでは、結局のところ自己の利得中心の発想から離れていない。とはいえ、賛美の祈りが日本で行われていないのは無理からぬことでもある。
「賛美」があれば「祈願」や「感謝」が不要だというのではない。むしろ、「賛美」しないのは単なる無知によるものだが、「感謝」しないのは恩知らずというべきであり、「祈願」しないにいたっては傲岸不遜なDQN野郎というべきであろう。

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