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カトリック的。
信徒数13億人でも日本では知られていないカトリック。正統キリスト教会を気楽にご紹介します。

書庫カトリック的に考えようとしてみた

世の中の出来事、信仰に関わる問題などについて、カトリック信徒の視点から思うことなどをつらつら書いています。記事は上から下に新しい順から並んでいます。

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教皇(ローマ法王)ベネディクト16世退位のニュースは2013年2月11日、カーニバルの熱狂に冷水を浴びせた。


前任者の教皇ヨハネ・パウロ2世(位1978-2005)は、世界中でカリスマ的な人気を誇ったが、一方で教会には多くの負の遺産を遺した(人間としては立派な方だったそうだが)。
第二バチカン公会議(1962-65)に端を発する教会の混乱は彼の下でその極に達したと言えよう。

2005年に登位したベネディクト16世は、公会議後半世紀にわたる混乱に終止符を打つべく尽力した。
ことに2007年、教皇自発教令『Summorum Pontificum』を発布して「公会議前の典礼は廃止されておらず、すべての司祭が自由に執行することができる」と宣言したことは、教会史上に残る記念碑的な業績といっても過言ではない。

学者肌のチャーミングなドイツ人がキリストの代理者を務めたこの8年間は、未来の歴史家から「教会の正常化に向け大きな一歩を踏み出したターニングポイントとなる治世」として評価されることだろう。後を継ぐ教皇がこの歩みを力強く進めてくれることを願ってやまない。

歴史に「もし」はナンセンスだが、あと10年、いやあと5年でも早くヨハネ・パウロ2世が退位しベネディクト16世が登位していれば、キリスト教世界の現状はもう少しましだったろうにと思えてならない。


ところで、今年前半にも発表されるはずだった対神徳(信望愛)についての回勅三部作の最終巻
は、聖下の退位までに執筆が間に合わないためお蔵入りするとのこと。こちらも残念である。
回勅としてではなく一般書籍として出版される可能性はないのだろうか?続報が待たれる。■

不幸があると悩むのがお香典。
金額もさりながら、表書きをどうすべきか、宗教・宗派によって違うというのが困りものですね。


ただ一つ言えるのは、一部のマナー本やウェブページで見かける、
「カトリックの葬式では香典に『御彌撒料』と書く」という話は、
真っ赤な嘘
だということです。



確かに、「ミサ」があるのはカトリック ですし(プロテスタントにミサはない)、
信者が亡くなれば「葬儀ミサ」を行います。
けれども、「御ミサ料」という表現は重大な誤りです。

カトリックでは、神に関わるもの(聖職・儀式・祝福された物品など)を金銭で手に入れようとすることは
「シモニア(聖物売買)」という極めて邪悪な罪だとされています。
絶対的超越者である神の恩恵を人間的尺度で値踏みしようというのですから、これほどの
冒涜もないのです。
ですから、ミサに料金をつけることなどできません。

香典の表書きに「御ミサ料」と書いたからといってシモニアになるわけではありませんが、
受け取った御遺族を仰天させること間違いなしです。
(そもそも葬儀ミサは御遺族が神父に依頼して立てていただいているもの。
 参列者がミサにかかる費用を負担しようなどというのは筋違いです。)

もともと香典は日本独自の習慣で、カトリックでは特に決まったルールはありません。
「御霊前」でも「御花料」でも、自由にすればよいのです(さすがに「御仏前」と書く人はいないでしょう)。

繰り返しますが、絶対に「御ミサ料」と書いてはいけません。
これだけはお気を付けください。



【参考資料】

「シモニア」の語源となったエピソード
シモンは、金を差し出して、「わたしが手をおく者はだれでも聖霊が受けられるように、その権威をわたしにも授けてください」と言った。そこでペトロは答えた。「おまえの金は、おまえとともに滅びよ。おまえは金で神の賜物を買おうと思っているからである」 
(使徒行録8:18-20)

カトリックの教え
聖物売買とは、霊的なものを売買することです。…霊的善を占有し、その所有者または主人としてふるまうことはできません。霊的善の源泉は神だからです。神から無償でいただくことができるだけなのです。 
(カトリック教会のカテキズム #2121)

教会法の規定
奉仕者は、権限ある権威者によって定められた奉納金のほかには、秘跡の授与のために何も請求してはならない。 
(カトリック新教会法典 第848条)

小説や漫画で登場人物に神父やシスターがいると、必ずと言っていいほど
出てくるのが「私は神に仕える身ですから」という台詞。
何か悪いことや色恋沙汰に際して、自分にはできないと断る決まり文句だ。

…ありえない。絶対にありえない。いやしくもカトリックたる者、そんな言葉を
口の端に上らせるわけがない。
何が変なのか、順を追って見てみよう。

悪事を働いていい人間などない
まず、司祭(神父)・修道者(ブラザー/シスター)と平信徒とで道徳律が違う
などという発想が事実に反している。
その存在を神に負うている者として、人間は皆が例外なく「神に仕える身」である。
聖職者であろうがなかろうが、それどころかキリスト者であろうがなかろうが、
やっていいこと悪いことは万人共通だ。
盗みも人殺しも、配偶者以外の異性と関係を持つことも、悪いことは悪いこと、
誰にだって許されない。当たり前の話だ。
何が善くて何が悪いかを人に教えるべき聖職者が、自分では行わない悪事を
一般人は行っても許されるかのように言うはずがないのである。

人に仕える身分
次に、司祭は、神に仕えるというよりむしろ人々に仕える身分というべきである。
司祭の存在意義は、秘跡を執行して人々が神の恩恵を受けられるようにすること
にある。
聖職位階の頂点にいる教皇の称号が「神のしもべたちのしもべ」である
という事実は、キリスト教における聖職者の位置付けをよく示している。
一方、修道者というのは「仕えられるためではなく、仕えるために来た」キリストの
模範に倣い完徳を目指す人々のことだ。各修道会の特色に応じて、或は祈りにより、
或は外的活動により、神と隣人への愛を実践している。

ルールは「不自由」なのか?
最後に、「神に仕える身だから〜できない」という表現が(実際にはそんなことを
言う信者はいないのに)広まっている背景には、信仰というものが何か人を抑圧
するもの、あれは駄目これは駄目と禁止する不自由なものというイメージが蔓延
していることがあるように思う。
しかし、キリスト教で実のところ何がどう禁じられているか、ご存知か?
神父だって酒もタバコも全然オッケーなんだぜ。

そもそも、決まりごとが存在することをもって不自由だ抑圧的だと決め付けるのは
早計だ。
スポーツもゲームも、ルールがあるからこそ面白い。法律が存在せず何をしても
よい世界なんて、想像するだけでも恐ろしい。

それに、何かを制限されているように見えて、実はより多くのものを手に入れて
いたりもするのだ。
司祭は結婚しないが、それは家庭を持つことが「できない」とか「諦めている」の
ではない。むしろ、結婚しないことにより全ての信者の父となり得るという
積極的な生き方なのだ。
だからこそ司祭は「ファーザー」、「神父(霊的な父の意)」と呼ばれるのである。


以上、お分かりいただけただろうか?
これからカトリック信者の出て来るお話を書こうという人は是非気をつけていただいて、
くれぐれも「神に仕える身」などというありえない台詞をでっちあげないようにして
いただきたいものである。

先日ネットで興味深い記事が目に留まった。

ある仏教研究家が、「請求書の祈り」「領収書の祈り」という区別を提唱しているそうだ。
私の読んだ記事ではそれを引用して、「これだけ賽銭張り込むんだから御利益ください」という<請求書の>祈りから、「一年無事に過ごせました、お蔭様」という<領収書の>祈りへのシフトを呼びかけていた。
くださいくださいと求めるばかりでなく、実は私たちにはもう既に沢山のお恵みが与えられていることに気付こうよ、という訳である。

論旨自体はごもっともな話である。ただ私は同時に違和感も覚えた。
「何かを求める祈り」と「もらって感謝する祈り」…、どちらも大切だし、人間に不可欠な祈りだ。
しかし祈りとはただそれだけのものだろうか。何か足りないのではないだろうか?


私見だが、キリスト教の祈りは「賛美」「感謝」「祈願」の三つに分類される。
このうち「祈願」は<請求書>の、「感謝」は<領収書>の祈りに相当するだろう。
だが祈りの根本にあるのは「賛美」だ。

賛美とは、自分の利得とは無関係に、神をそれ自体の善さ、偉大さの故に讃えることである。
その極致が、天上で神を仰ぐ天使達の叫び、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな!」であろう。
カトリックの祈祷文も多くの場合、1.神を讃えて礼拝し、2.恩恵に感謝し、3.救霊のための助力を乞い求める、という構成になっている。

わかりいいようにサッカー観戦に例えてみよう。
ひいきのチーム、あるいはトトカルチョで賭けたチームに「勝ってくれ!」と願うのが「祈願」、試合の結果トトで儲かり嬉しい、あるいは「感動をありがとう」というのが「感謝」である。
それらに対して、「なんと素晴らしいプレーだ!」と、選手や技術そのものを賞賛するのが「賛美」ということだ。

もちろん仏教にも「賛美」という概念は存在していると思うが、上述のネットの記事を見る限りでは、少なくとも現代日本の信仰実践は、「与えてほしい/もらって嬉しい」という、つまるところ自己の利得が中心的主題のようだ。
実際に存在している実体を基盤に置かない宗教の、あるいは神なき霊性の、限界ということだろうか。

これからの宗教間対話は「黙祷」がトレンドになるのかもしれない。

教皇庁「正義と平和協議会」の総裁Turkson枢機卿は18日、イタリアはアッシジで27日に開かれる諸宗教イベント(平和の巡礼)で、諸宗教・宗派からの参加者による合同祈祷会は行わない、と語った。
愛と平和の聖人として名高い聖フランチスコゆかりの地で全世界の諸宗教・宗派の代表者が平和のために集うこのイベントは、前教皇・福者ヨハネ・パウロ二世の肝煎りで1986年に始まった。

しかし、異なる信仰を持つ参加者が同一の祈りを唱えることに対しては、当初からシンクレティズム(宗教混淆)や相対主義、宗教無差別主義(どの宗教によっても救われ得るという説)につながるとの批判があった。批判者の中には当時の教理省長官ラッツィンガー枢機卿、今の教皇ベネディクト16世もいた。

二十五周年ということで教皇庁がイニシアチブを取る今回は合同祈祷は行わず、各参加者はそれぞれの信仰の流儀に従って「沈黙のうちに」祈ることとなった。
この理由についてTurkson枢機卿は次のように語った。即ち、このイベントは宗教間対話を促すもので、対話とは互いのアイデンティティを尊重するものだ。しかるに合同祈祷の試みは、諸宗教の教義や祈りの様式において厳然と存在している深刻な相違を無視しようとするものであり、対話とは相入れない――。

報道(CWN)によると、同枢機卿は合同祈祷を指して「信仰の水増し」とも発言したという。
日本語の語感ではさほどでもないが、「水増し」とは、それ自体で十全である正統信仰を世俗的利益などのために曖昧化し歪曲しているということであり、信仰者にとっては極めて強い非難だ。
古代ローマ時代から、ブドウ酒を水で薄めて供する行為は、悪質な詐欺の代表格だった(左党の諸兄にはこの点よくご納得いただけることだろう)。

バチカンの今回の決定は、エキュメニズムや宗教間対話の実践面における転換点となるのではないだろうか。
期待して見守りたい。

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