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カトリック的。
信徒数13億人でも日本では知られていないカトリック。正統キリスト教会を気楽にご紹介します。

書庫カトリック的に考えようとしてみた

世の中の出来事、信仰に関わる問題などについて、カトリック信徒の視点から思うことなどをつらつら書いています。記事は上から下に新しい順から並んでいます。

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死刑の問題

しばしば誤解されているが、キリスト教において死刑はそれ自体で「天主に反することがら」つまり本質的な意味での罪、ではない。

もちろん「汝殺すなかれ」とある通りで殺人が許されているわけではないけれども、たとえば正当防衛がそうであるように、自分自身を犠牲にしてまで他人の悪行を甘んじて受けよと言っているわけではない。
同じことは世俗国家にも言えて、正当な秩序を維持するために罪人を処罰する(最悪の場合には死刑に処する)ことは、人の幸福を守るためにも「あり得る」(必須かどうかは別だが)ことと考えられてきた。

とはいえカトリック教会は現在、諸国家に死刑を行わないよう呼びかけている。
最初に述べたように、それが本質的に罪(天主に背くことがら)だからではない。
(つまり、死刑がそれ自体で例外なくキリスト教信仰に反すると主張する者は間違っている)。
それでは、なぜだろうか。


私が思うに、
教会が死刑制度に拒否感を示しているのは、社会が以前よりも人道的になったからではなく
むしろその逆で、社会が非人道的になり愛徳が失われたからではないだろうか。


G.K.チェスタトンが書いていたと記憶しているが、
中世には少なくとも「正義」と「愛徳(日本的に言うと慈悲)」を同居させる心の広さがあったが
現代では正義と愛とは対立概念のように扱われている、と。

実際に某国では、死刑を司る大臣が「死刑判決を受けた者はオートマチックに処刑されるのがよい」という趣旨の発言をしたりしていて、そこには愛徳つまり「罪を憎んで人を憎まず」という感覚など微塵もないことが露呈しているわけである。

「現代は人道的な社会だから、死刑のような前時代的な悪習は認められない」と考える啓蒙主義的な(笑)論者には気の毒であるが、社会が不可逆的に善くなっていくなどという仮説が荒唐無稽である以上、そのような欺瞞は通用するまい。
むしろ、社会が(可逆的、不可逆的であるかはいざ知らず)悪化しているのが現実だと考える方が当を得ているように思われる。


なお誤解のないように言っておくが、
私は中世に執行された死刑が全て正義と愛徳に基づいていたなどと言うつもりは全くないし、
また、このブログは死刑制度について賛成・反対のいずれの意見をも表明するものではない。


悪さもする(引用者注:使い始めに色移り・色落ちする)。だけどそれは嫌うべき欠点ではなく、個性。
そんな風にインディゴをキャラとして受け入れることで、インディゴと楽しくつきあっていこう、と提言するのはイッセイミヤケのクリエイティブディレクター、藤原大さんである。

藤原さんの提言は、基本を知らなくてもやり過ごせる現代社会に対する気がかりから生まれた。

テクノロジーのおかげで、色落ちしない生地や洗濯可能な絹も出現し、衣素材は便利になった。
消費者は素材の本来の特性を知らなくても困ることはない。
だが、その傾向が加速するのはいかがなものかと藤原さんは疑問を呈する。
インディゴは色移りするからいやだ、素材は知らないけど便利なものだけ使う、という態度は、「自分の思い通りにならないものは排除する、という不寛容と結びつく」と藤原さんは危惧する。
「色落ちする」インディゴキャンペーンは、コントロールできない相手を理解し、まるごと個性として受け入れ、楽しく共存しようという提案にほかならない。

  日本経済新聞2007年6月29日夕刊「モードの方程式」(中野香織)より抜粋

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この記事は衣素材に関するものですけれども、自分にとって都合のいい点だけ相手を利用し、コントロールできなければ排除する、というのは不寛容であり危険だ、という指摘がなされています。

私はこの記事を読んで「日本人は宗教に寛容だ」という通説を思い出しました。

一般に、日本人は「無宗教」を標榜し、それゆえにどの宗教からも中立だと思い込んでいます。
そして、神社で初詣、教会で結婚式、仏教で葬式という「無節操」(自嘲的な表現ながら、そこには特定の宗教に縛られている者よりも上位にあるという無自覚な優越感が存在します)ゆえに、日本人は宗教に寛容であるというお決まりの謬説が結論付けられるわけです。

通過儀礼に複数の宗教を利用するからといって宗教に寛容だと言うのは論理的でない
、というのは言うまでもありません。
それだけではなく、私たち日本人は徹底して他者に不寛容なのではないでしょうか。

言っておきますが、寛容というのは、他者の意見に迎合したり、同一化したりすることではありません。
(たとえばイスラム教に対して寛容であるということは、自分がムスリムになるということを意味しません。ムスリムである相手を、ムスリムでない自分が、相手がムスリムであるという事実も含めて相手を認める、という意味です。)
自分とは異なる他者を、その異なる面も含めて自分と同等の存在として認め、遇することです。

「和魂洋才」という言葉があります。
西洋の精神は無視して、自分たちに都合のよい技術だけを取り入れよう、という意味です。
ここには「西洋という他者」に対する視線はありせん。西洋人が自分たちと同等の人間であると認め、交流するという発想は根本的に存在しないのです。自分の利益のために技術を利用できればよい、相手がどのような人間であるかとか、そもそも相手と付き合うなどということはどうでもいい、というわけです。
これは寛容とは対極にあります。

通過儀礼に複数の宗教を利用することも、それと同じです。
そこには、それぞれの宗教に対する寛容や理解は存在しません。ただ自分に都合がいいように、あるいは周囲の考えや流行に従って、諸宗教の表層を「利用」しているに過ぎません。それで「日本人は宗教に寛容だ」というのはおこがましいのではないでしょうか。


ホセ・ヨンパルト神父は、『カトリックとプロテスタント』(サンパウロ)の中で次のように述べています。

寛容というものは、他人に対して寛容であるということです。今日は神社に、明日はお寺に、そして次の日は教会に祈りに行くという人のことを、迷っている人、または自分の宗教心を真剣に考えていない人、あるいは矛盾をおかしている人とは言えますが、決して寛容な人とは言えません。
人間は一定の立場をとらないかぎり、寛容というものはありえないのです。ひと言で言えば、自分の考えが正しく、相手の考えが間違っていることを確信しながら、なおかつその相手の考えを尊重することが、寛容の本質なのです。



寛容には、相手を理解することが大前提です。
宗教で言えば、自分と違う信仰を持つ相手の、その信じていることを知り、理解することが前提です。

「君が信じていることを知る気はないが、決して排除しないし、好きに信じていればいいよ」

これは「寛容」ではなく、単なる「無視」「無関心」です。

そもそも相手と人間同士の関係を結ぼうとしていないのですから、寛容が成立する余地はありません。(それでもこの「無視」を「寛容」と勘違いしている人の何と多いこと!)


相手が何を信じているかを理解した、しかし自分は絶対に相手の信条が間違っていると思う。
そういう時にでも相手を排除せずにいられるか。
それが寛容であるか否かの分かれ目です。

ヨンパルト神父が、自分に確固たる主張があって初めて寛容があり得るというのはここです。
自分の意見があやふやなら、他人が何か主張したって賛成も反対もできません。「どうでもいいよ、君の好きに主張していてくれ」・・・これは先ほどの「無関心」です。

自分が正しく相手の意見が間違っているのを知っていながら、相手のことを排除せず、
「この点については君は間違った意見を持っているが、君という人間そのものを受け入れる」
と言うことができるかどうか。
自分の愛する人々に対しては誰だってしていることですが、他の人々に対してもたやすく同様に出来るものでしょうか。


つくづく、寛容という美徳は困難な、それだけに高貴な徳だと思います。

水vs霊?


現在でも流行しているのか寡聞にして知らないが、様々な名で呼ばれている或るムーブメントがある。
種々のセクト的なグループによって実践されているが、単一の宗派というより超教派的ムーブメントというのが適切らしい。

さて、彼らによると、救いのためには洗礼を受けるだけでは不十分だという。
「水の洗礼」だけでなく、「聖霊の洗礼」を受けなければならない、というのだ。
「聖霊」を求める彼らの集会において、参加者が感極まった状態になったり、意味不明の言葉を語りだしたりすれば、それは「聖霊を受けたしるし」と見なされる。

トランス状態で意味不明の言葉を語ることを、聖書に出てくる「異言」と同一視することが適切なのかどうか、また「目に見えるしるし」を求めることがキリスト者としてふさわしいのかどうか、大いに疑問はあるが、ここでは措く。

問題は、「水の洗礼」と「霊の洗礼」を対立的なものとして捉えていることだ。
彼らの論拠は
「水と霊によって生まれぬ者は天の国に入れぬ」(ヨハネ3・5)

であるが、この箇所をもって水と霊と二種類の洗礼があると考えるのは無理がある。

この章句で述べられているのは、キリストが制定した「洗礼の秘跡」の必要性である。
「上から(=再び)生れ」る(ヨハネ3・3)、つまり洗礼によってキリストの死と復活に与り、新しい生を受けることの必要性が説かれている。そして、キリストによる再生の水洗い(洗礼)こそが、「水と霊によって生まれる」ことだとされているのだ。

つまり、洗礼(彼らの言う「水の洗礼」)によって、「水と霊によって生まれる」即ち「水と霊の両方の洗礼」が含蓄されているということだ。

このことは、
「イエズス・キリストのみ名によって洗礼を受けなさい。そうすれば、聖霊の賜物を受けるでしょう」(使徒行録2・38)
からも明らかである。


洗礼の秘跡のうちに霊的要素が欠落しているなどと主張するのは、救いのためにこの秘跡を制定した主イエズス・キリストをおとしめることに他ならない、と思われる。



以上は、カトリックにとっては当然のことではありますが、当該ムーブメントはカトリック教会内にも一定の影響力を及ぼしているらしいので、念のため書いてみました。

いのちのパン

先日、ある人が亡くなりました。
今日は告解してミサに与り、聖体拝領をしてから、聖堂で信心業をして、全贖宥(全免償)をゲットしました。もちろん、代願でその方に譲らせていただきました。

Requiem aeternam dona ei, Domine,
et lux perpetua luceat ei.
Reqiuescat in pace.
Amen.

贖宥(免償)については、「贖宥(免償)とは何か」という書庫をご覧下さい。


さて、今日のごミサの福音朗読は、使徒聖ヨハネの福音書の第6章でした。
ヨハネ6章といえば、聖体制定の表象となる章です。
でも、聖体の秘跡という、主イエズス・キリストからの最も偉大かつ甘美な御恵みを持っていないプロテスタント教徒にとってはヨハネ6章は新約聖書の中で最も理解不能な箇所といっても過言ではありません。

パンを増やす奇跡(これ自体、全実体変化によって複数のパンの形色のうちに唯一の主がおられることの予兆でありますが)の後、主は

「私は天から下った生きるパンである。このパンを食べる者は永遠に生きる。・・・私の肉を食べ私の血を飲む者は、永遠の命を有し」
云々とおおせになりました。

これが、聖体の秘跡を示しています。
屠られる小羊として十字架につけられた主イエズスが、パンの形色において祭壇上に臨在する、これがミサ聖祭、聖体の秘跡なのです。

主は、御自らが信者に食される「天のパン」であることを、ハッキリと語っています。たとえ話やシンボルとして話しているのではありません。
事実、これを聞いた一部の人々は嫌悪感を表明して去っていきました。シンボリックな話であれば人肉食と誤解することはなかったでしょうし、主自身も、つまらぬ誤解を招く表現をすることはありません。

プロテスタント教における「聖餐式(象徴的な食事としてパンを食べる)」と、正統キリスト教のミサ聖祭(聖体の秘跡)とは、根本的に違うものです。

聖書のこの箇所においても、命のパン(霊的な糧)と、通常のパン(肉体の糧)とは、明確に区別されています。
主ご自身が、「あなたたちが私を捜しているのは・・・パンを足るほど食べたからだ」と、通常のパン、つまり(ご聖体ではなく)会堂に集うことで得られる感覚的・肉体的な喜び、を求める人々を難詰しておられます。


キリストを主と認めるすべての人が、ご聖体のイエズスを共に礼拝する日が、一日も早く来ますように!

ガリレオ裁判に思う。

先日よそのブログで、ガリレオ裁判について「宗教が科学を弾圧した」などと書かれた記事を見て、
記事中に散見される事実誤認を指摘するとともに裁判の歴史的事実についてコメントしたところ、
どうやらそこの管理人さんたら頭にきちゃったらしく・・・、


数日後、「天動説を教義としたカトリック教会がガリレオを有罪とした」とか、
間違いに輪をかけた記事がアップされてた・・・(苦笑)


「教義」って・・・。
カトリシズムにおける「教義」のなんたるかを知ってたら、いくらなんでもこんなありえない主張をすることはないのでしょうが。


私は思うんですけど、デタラメなことを言って他者を誹謗中傷するのって、善くないことではないでしょうか。




ガリレオ裁判については、以前にも「おすすめの本」の書庫で取り上げました。
 http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/39890508.html
 http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/39968476.html

「カトリック教会と科学とが対立する(した)」という主張は、歴史的にも思想的にも、事実に反しています。



それにしても、カトリック教会が天動説を教義としたなんて馬鹿らしい話、誰が思いついたんでしょうか。
そんなこと言うの日本人だけですよ、きっと。
どんなに頑固な反カトリックのプロテスタント信者だって、カトリック教会が自然科学の仮説に対して
教義的判断を下したことなどないということについては、喜んで証人になってくれるでしょう。

むしろ、ルターなど当時のプロテスタントは天動説の立場から強硬に地動説を非難していましたから、
ルネサンスや科学者達のパトロンであるカトリック教会が地動説という新説を擁護している、と
逆に批判していたくらいのものじゃないのでしょうか。

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