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カトリック的。
信徒数13億人でも日本では知られていないカトリック。正統キリスト教会を気楽にご紹介します。

書庫カトリック的に考えようとしてみた

世の中の出来事、信仰に関わる問題などについて、カトリック信徒の視点から思うことなどをつらつら書いています。記事は上から下に新しい順から並んでいます。

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先週まで、日経新聞の「やさしい経済学――名著と現代」という連載コラムに、マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』について連載されていました。

『プロテスタンティズムの・・・』といえば、誰もが知っている(読んでなくても・・笑)古典の一つですよね。私も大学入った時に岩波文庫を買って読んだなぁ、と懐かしく思い出しました。
内容は皆さんご存じかとは思いますが、念のため簡単に説明しますと(もう記憶が定かではないですが)、蓄財を救いの妨げと考えたカトリックに対し、プロテスタントは職業を神聖視し、頑張って働いた結果金持ちになることを良しとした。特にカルバン派はある人が救われるか地獄に落ちるか予定されているという独特の教義から、仕事で成功することは、その人が救われる側にいることの証拠だと考えた。このような倫理観の相違から、プロテスタント国家で近代資本主義が隆盛したことを説明できる、というお話でした。


ここで余談なんですけど、よくプロテスタントは「聖書のみ」で聖書に基づいているけれども、カトリックはそうじゃない、とプロテスタントの人も言うし世間でも言われていますよね。
しかし、それは本当でしょうか?
確かに正統キリスト教にとって大事なのはキリストが設立した教会を通して常に導いている神のみ旨に従うことであって、神のみ旨の現れは聖書だけとは限りません。
主は使徒(教会の指導者)に「真理の霊である聖霊を遣わす」と仰せになり、また「世の終わりまであなたがた(使徒)とともにいる」と仰せになりました。「世々に生きておられる」神のみ旨は「死んだ文字」に限られるのではありません。いや、むしろこう言うべきでしょう、そういった神の導きのうち明文化され教会が聖典と定めたものが「聖書」なのです。
聖書には、「使徒の伝える教えに従え」とは書いてありますが(マタイ28・20参照)、「聖書のみを信仰の基準とせよ」とはどこにも書いてありません。


それはともかく。この件に関して言えば、カトリックの方が聖書の記述に忠実なのに対し、プロテスタントの方は聖書と違った考え方をしているようです。
たとえば聖書には、「金持が天の国に入るのは、むずかしいことである。重ねて、あなたたちに言っておく。金持が神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」(マタイ19・23−24)と記されています。
真福八端には「貧しき者は幸い」とありますし、「神とマンモン(富)とに兼ね使える事はできない」(マタイ6・24)という言葉もあります。
カトリックはこれらの聖書の言葉を真面目に受け止めています。富を持つこと、富を求めることは、救いの妨げになると考えています。
これに対して、プロテスタントではそうでもないようです。

ここで、どちらの宗教が正しいとか言うのではありません。ウェーバー自身が指摘しているように、少なくとも最初期のプロテスタント資本主義は、拝金主義や享楽主義とは無縁で(むしろそれらを敵視していた)、労働の結果として富ができてしまったのです。(この点、禁欲的であるがゆえに尊敬されて寄進を受け富裕になって困ってしまったベネディクト会やフランシスコ会などのカトリック修道会を連想しますね。)
ここではただ、「カトリックは聖書に反している」などという陳腐な言説は当たらないと言いたかったのです。


閑話休題。
日経のコラムでは、現代の高度に発達した統計学の手法をもって宗教が経済活動に与える影響を追試した研究を紹介していました。
それによると、なんと、「プロテスタント比率が、カトリック比率と比べて、国の経済成長率を高める効果が相対的に小さい」という傾向が発見されたのだそうです。カトリックの多い方が、経済成長率が高くなる傾向があるということです。1965年〜75年、75年〜85年の期間では、有意差も出ているとのこと。

ひょえ〜〜、ですね。
日経の言葉を借りれば、「この結果は、ウェーバーが研究の出発点とした統計的観察に疑問の余地があることを示している」わけです。
今まで私たちが常識だと思っていたことが、覆される可能性が出てきたわけです。

この調査を行った、ロバート・バローとラシェル・マクレアリーの今後の研究に期待、ですね(私は経済学も統計学もよう分からんけど)。



最後に、日経コラムでの用語法について苦言をひとつ。
カトリックとプロテスタントの信者を対比させる時、コラムではプロテスタントの信者に対しては単に「プロテスタント」、カトリックの信者に対しては「カトリック教徒」という呼び方をしています。
これは、キリスト教とは別に「カトリック教」なるものがあるかのように誤解させる誤った用語法です。
カトリックはキリスト自身の設立になる正統キリスト教会であり、実際、キリスト教と呼ばれる中で過半数を占めています(さらに言えば、プロテスタントは個々の小さな宗派に分かれているため、カトリックは一宗派としては圧倒的規模である)。
一方プロテスタントはキリストの教会設立後1500年も経ってから宗教改革者たちがそれぞれ作った教団の総称です。彼らもキリスト教には違いありませんが、宗教学的見地からはプロテスタンティズムはまったく別の宗教類型になりますので、「プロテスタント教」と呼ぶ方がふさわしいのです。
まぁ英語ではCatholicism(=カトリック教?)、Protestantism(=プロテスタント教?)という具合に同じ語尾ですから、余り気にすることもないかもしれませんね。


いわゆる「オウム真理教」の上祐サンが、分派独立をするそうですね。先日ニュースで見ました。
その彼がインタビューに答えて曰く、
「暴走しないような教義を作っていく」

・・・って。

おいおい。
教義を作るんかい。


もしかすると彼は、「暴走しないように教団内の規律を改定する」と言いたかっただけかもしれませんが。
いずれにせよ、「教義」というものをいかに軽く、いい加減に捉えているかを露呈した言葉だと思います。

カトリックからすれば、「教義」を人間が「作る」なんて、考えられませんね。
むしろ、教義が人間によって作られたものだと判明すれば、その時点でそんな宗教には用がない、と判断するもんです。


教義というものは、その宗教が何を真理だと考えているか、つまり何を信じているか、を示すものです。
その宗教のアイデンティティ、その宗教そのものと言ってもいいわけです。

カトリックにおいて教義とは、神から啓示された真理、信仰と道徳に関する命題の集合体を意味しています。
「2+2=4」が数学に関する「真理」であって未来永劫変わることがないように、
教義も、もしもそれが真理であるならば、絶対に変更されることなどあり得ません。

仮説は人が立てるものですが、科学的真理は人が作るものではないですよね。
人間が地球は平面だと思おうが立方体だと思おうが、実際には楕円球体であるように、
人が科学的真理を発見しようがしまいが、その真理自体は厳然として存在しているわけです。

教義もそれと同じです。
人間が何と考えようが、「人間とはこういうものだ」「救いのためにはこうするべきだ」という真理自体は厳然として存在しているわけです。

ですから、もしも教義を途中で変えるような宗教団体があれば、その教団はそれまで嘘を教えていたということですから、そんな宗教は真理に基づいていないから信ずるに足らない、と判断できます。
ましてや、教義を人間が作ると公言するような宗教は理解不能ですよ。教える内容が「真理」だというのではなく、一介の人間がでっち上げた「仮説」に過ぎないと公言しているんですから。
私だったら、自分の霊魂の救いを、そこらのオッサンの思いつきに委ねたいとは決して思いません。

お分かりいただけたでしょうか?
「教義を作る」云々で、一カトリック信徒が感じた違和感というのは、こういうものです。



(以下つぶやき)

ただ最近は、キリスト教の中にも頭のおかしい人が時々いて、
「教会も時代に合わせて教義を変えていくべきだ」とか言っているんですよね。
堕胎(妊娠中絶=殺人)を容認せよとか、女性司祭をつくれとか。
教会が「地球は平面だ」と宣言したって、丸い地球が平らになるわけないでしょうに。
教会が「盗みは悪くない」と宣言したって、盗みが神の前で罪悪であるという事実は変わらないでしょうに・・・。

というか、「教義を変えろ」と叫ぶ人たちはキリスト教(の教義)を人間が作るものとして捉えていて、神に由来するものと認めていないのだから、キリスト者とは呼べないのですけどね。
困った人たちもいるものです。

前にも紹介したことがありますが、白取春彦『この一冊で「キリスト教」がわかる!」(知的生きかた文庫、三笠書房)に有益な情報がありますので、引用してみたいと思います。
著者はカトリックではありませんが、この本は「キリスト教がわかる」と題しているだけあって、通俗本にも関わらず非常に役に立つと思います(若干の明白な事実誤認は散見されますが・・・)。とある出版社に勤務する友人によると、この本はよく売れているのだそうですよ。


[以下引用]


ニセのキリスト教、ホンモノとここが違う!



みずからキリスト教である、あるいはキリスト教の系列だ、あるいはまた真のキリスト教だと名乗っている組織や団体で、内実はまったくキリスト教ではないものは多数あります。それらの多くは営利目的の組織であったり、勝手な解釈に基づく狂信的集団です。
しかし、政府はこのような集団にも宗教法人格を与えたりしていますから、まことに見分けがつきにくい状態になっています。また、いったんこのような組織に染まってしまいますと洗脳されてしまいますから、いったい何が本当のキリスト教であるのか気づくのに多くの時間がかかってしまいます。
そのようなニセキリスト教の特徴をいくつか挙げれば、

○聖書解釈がこれまでのものと極端に異なっている
○カトリック教会を否定する
○驚くような事柄を真理だとして聞かせる
○秘密主義である
○今までにない文書を聖書とする
○あらゆることを理路整然と説明する
○その組織のボスが神であったり仏であったりキリストの生まれ変わりであったりする
○信者の勧誘グループがある
○感情的である
○勧誘が強引かつ執拗である
○どのような形であれ金銭や財産を要求する

といった点があります。
次に掲げる三団体は、規模の大きなニセキリスト教です。


◆ものみの塔聖書冊子教会(エホバの証人)

突然に数人で、あるいは子供づれで戸別訪問してきたり、「目ざめよ!」という冊子、あるいは「ものみの塔」という冊子を持って道路にじっと立っているのがこの団体の信者である。たまに、学校の体育の剣道を拒否するとか、輸血拒否で死んだなどとニュースになるのもこの団体の信者である。
一八七〇年頃にアメリカのチャールズ・ラッセルという商人の聖書研究から始まり、その後継者ジョゼフ・フランクリン・ラザフォードが拡大した。この現実世界と既成のキリスト教教会のすべてが悪魔の支配化にあると独断する。
本部はニューヨークにあり、世界の信者数は約二〇〇万人。信者らが宣教に熱心なのはそれが義務とされているからである。

◆世界基督教統一神霊協会(統一教会)

この団体は原理運動、あるいは統一運動ともいう。大学で聖書研究サークルを作って学生を勧誘しているケースが多い。
勧誘のためには名称をいくらでもつごうよく変え、ナントカ国際会議とか称する場合もあって、カトリック神父や教授がだまされるほど手口は巧妙。集団結婚式で世間を騒がせているのもこの団体である。
一九五四年に韓国のソウルで文鮮明が創設。その四年後から日本への布教を始めた。教典は文鮮明が書いた『原理講論』。内容は単純な善悪二元論によっており、聖書を勝手に解釈するどころか、めちゃくちゃというほどに曲げて解釈している。
この団体では文鮮明をキリストと見なしている。しかし、その実体は若い人の道徳心を利用した悪徳商法にすぎない。

◆末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)

正式名称はいかにもキリスト教のようだが、内容はまったく違う。「モルモン教」という名称のほうが一般的である。アメリカインディアンが古代イスラエル民族の子孫であると信じ込む団体。
一八三〇年にジョセフ・スミスという男がアメリカで発足させ、埋められていた金板に書かれていたものを解読したのが経典『モルモン経』とされる。
キリスト教の安易なパロディにすぎない新興宗教であるが、世界に六五〇万人の信者を持つ。アメリカのユタ州のソルトレークシティが本拠地。
日本での宣教活動も盛んで、髪をきっちりと短く刈って清潔な背広、あるいはシャツにネクタイをしめて二人づれで街角を歩いて、いかにも正統的なキリスト教に勧誘するような口ぶりのアメリカ人が、このモルモン教の信者である。日本ではモルモン教の宣教師がタレントとしてテレビで活躍している。

[引用終わり]



今年もキリスト教と自称する宗教団体による犯罪がいくつか報道されました。
キリスト教を看板にした悪徳集団が多いようですから、お気をつけ下さい。


ただ、誤解しないでいただきたいのは、そのようなニセキリスト教団体に所属している信者個人のことを、邪悪な存在と見なしたり攻撃したりすることがあってはならない、ということです。

日本には「罪を憎んで人を憎まず」という格言がありますね。
カトリックでも、「罪」と「罪を犯した人」とを徹底的に分離して考えます。
どういうことかと言いますと、「どんな軽微な罪であれ、罪はどこまでも糾弾し排斥すべきだが、人間そのものはどこまでも尊重されねばならない、厭うべき罪そのものと犯罪者とを混同してはならない」ということです。

たとえば盗みという「罪」それ自体は(どんな軽い盗みであれ)断固として認めてはならないのですが、その罪を犯した「人」に対しては「七の七十倍でも」赦し、隣人として「自分自身と同じように」愛すべきだと考える、それがカトリックの姿勢です(難しいことですけどネ)。
同様に、上述のような教団の信者は、神に対する信念において間違っているのですが、だからといって「その人自身」の人格が否定されることがあってはなりません。


以前の記事で、「エホバの証人」のおじいさんと仲良くさせていただいたことがあった、ということを書きました。
私の方では(私がカトリックであるか否かに関係なく)彼らの聖書の翻訳や解釈が明らかに間違っていると確信していましたし、そう指摘もしましたけれども、そのおじいさんのことは好きでした。
彼の方も、教団から教わる通りに「カトリック教会は悪魔の組織で偶像崇拝だ」と信じ込んでいたようですが、いつも誠実に私と話してくれました。

真の寛容と対話は、「どちらの言い分も正しいと認める」などという非合理な折衷のうちにあるのではありません
(なぜなら、互いに対立・矛盾する言説の両方が真であるということはあり得ませんから)。片方が真なら片方は偽、あるいは両方が偽ということはあっても両方が真ということはあり得ません。
「どちらも正しい」という非合理な折衷から始まる対話は、結局のところウソに立脚した対話ですから、失敗するしかないと思われます。

ホセ・ヨンパルト神父も仰っているように、「相手の考えが間違っていると確信しながらも相手自身のことを尊重する」こと、そこにおいて初めて、真の対話(宗教間対話も含む)が始まるのではないでしょうか。

ロザリオの月

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10月はロザリオ月。10月7日はロザリオの聖母の祝日ですね。
常にも増して、ロザリオの祈りをするようにいたしましょう。

写真は、自作のロザリオを『Liber Usualis』の上に置いて撮ったものです。
開いているページは、まさに10月7日、ロザリオの聖母のところです。

前にも書きましたが http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/14464705.html
ロザリオ作るのが好きなもので。





ところで…。言わずもがなですが。

ロザリオは、ネックレスではありません! 首にかけるものではありません!
手で爪繰る「祈りの道具」です!
(もちろん「魔除け」などでもありません)

ロザリオをケースに入れず、首にかけて持ち運ぶ人はいますが(特に南米系の人に多いような)、
そういう人も、いざ使う時には首から外します。装飾品ではないので服の上に出して人に見られるようにはしません。

どうか、勘違いなさらないように!


教皇(ローマ法王)ベネディクト16世がイスラム教を批判したとして世界中でニュースになっています。
イスラム諸国では抗議の声も広がっているとのこと。

ところがニュースを見てみると、教皇の発言そのものを読んだとはとても思えないものばかりで、むしろそういった歪んだ報道こそがイスラム教徒の怒りを煽っている観があります。

「宗教は互いに争うから困ったもの」などと訳知り顔でコメントする輩がおりますが、(そういう輩のレベルに合わせて?)メディアが「キリスト教vsイスラム教」という構図の報道をするものだから、それによって(それまで存在していなかった)宗教間対立がメディアの手で作り上げられているのではないでしょうか。


教皇がレーゲンスブルク大学で行なった講義の全文は下記サイトでも読めます。
(私はドイツ語は不得手なので英語訳を読みました。)
http://www.zenit.org/english/visualizza.phtml?sid=94748


これを読みますと、教皇がイスラム教を批判したという読み方はあり得ないことがすぐに分かります。

何しろ講義タイトルが「Three Stages in the Program of De-Hellenization」ですよ。
「脱ヘレニズム化」についての思想史の講義です。イスラム攻撃の演説なんかじゃないんです。

約50のパラグラフのうち、イスラム教に言及している部分は前半のごくわずかな部分です。
そこでは、この講義のテーマでもある「信仰と理性」の問題について述べる導入として、イスラム教の一部の神学が取り上げられます。
その中で、14世紀末のビザンツ皇帝マヌエル2世パレオログスの言葉が引用されているのですが、これが所謂「剣かコーランか」という暴力的布教(実は史実ではない)を暗示させる表現だったのです。
(とはいえこの引用の中でも、皇帝自身が、暴力的布教がイスラム教に直接由来するものではなく、一部のイスラム教徒の行動に過ぎないことをはっきりと認めています。)

報道を見ますと、この部分だけを文脈から切り離して取り出して、教皇がイスラム教を暴力的だと発言したかのように言われています。しかし、それはおかしなことです。


ここで教皇は信仰と理性とは対立しないという講義のメインテーマに入る準備として、14世紀末のビザンツ皇帝とペルシア人との対話における「暴力によって改宗させることは非合理的だ」という文章を引用しているに過ぎません。その文章が当時の一部の暴力的なイスラム教徒を指していたのは事実ですが、だからといって教皇ベネディクト16世がイスラム教を批判したことにはなりません。

事実、教皇は暴力的布教がイスラム教では実際には禁じられているという証拠として、コーラン2章(牝牛章)256の、「宗教には強制があってはならない」という言葉を引用しているのです。


マヌエル2世パレオログスの言葉を引用したベネディクト16世が軽率だったのでしょうか? しかし文章を読めばわかるとおり、教皇にイスラム教について何かを言う(ましてや批判する)気などなく、信仰と理性との関係について世間で言われている一つの類型を挙げただけの話です。


「教皇、イスラム教を批判」なんて記事を最初に書いたのは、一体どこのどいつでしょうかね?
その記者の読解力・論理性の欠如こそが批判されるべきでしょう。

そして(そういった報道を検証もせずに真に受けて?)、人々の敵意を煽ろうとしている連中も批判されるべきですね。

主が世界に平和をお与えくださいますように!



「汝らに平安を残し、我が平安を汝らに与う」と使徒等にのたまいし主イエズス・キリスト、偽りと謀計とによりて害をなさんとする者どもより、御身の聖会を護り、世界に平安を与え給え。アメン。

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