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カトリック的。
信徒数13億人でも日本では知られていないカトリック。正統キリスト教会を気楽にご紹介します。

書庫カトリック的に考えようとしてみた

世の中の出来事、信仰に関わる問題などについて、カトリック信徒の視点から思うことなどをつらつら書いています。記事は上から下に新しい順から並んでいます。

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教書「Benedictus Deus」

教皇ベネディクト12世 教書 Benedictus Deus(1336年)

デンツィンガー・シェーンメッツァー『カトリック教会文書資料集』(A.ジンマーマン監修、浜寛五郎訳、エンデルレ書店)より引用。



死後の状態について



1000 神の至福直観について。

次の教令の中で述べることがらは、永遠に保持すべきであると使徒的権威をもって宣言する。
すべての聖人、すなわち、われわれの主イエズス・キリストの受難以前に死去した聖人、また、聖なる使徒、殉教者、証聖者、処女および洗礼を受けたあとに浄化を必要とする汚れを何一つ持っていない信者の霊魂、さらに、死亡の時に浄化を必要とする汚れがあったが死後に浄化された霊魂、その上、キリストの再生の洗礼を受け、分別の年齢に達する前に死亡した幼児の霊魂は、死後ただちに、あるいは上に述べたように必要な浄化を受けた後に、われわれの主イエズス・キリストの昇天以後は、彼らの肉体の復活と公審判の前であっても、過去も現在も未来も天国にある。
また、主イエズス・キリストの受難と死の後には、被造界の認識像なしに、顔と顔を合わせて直観的に神の本性を見るのである。神は自分自身を裸のまま、はっきりと、明白に彼らに示すのである。
死者の霊魂は、そのような至福直観によって、真の幸福を味わい、永遠の生命と安息を楽しむのである。さらに、後に死亡する者も、同じ神の本性を直接に見、公審判の前に、永遠の生命を持つのである。

1001 神の本性の直観によって、信仰と希望は不要となる。信仰と希望は厳密な意味において対神的であって、神の本性を直観し、顔と顔を合わせて神の本性を見、それを楽しむようになると、中間に介入するものは全く不要となり、この神の直観が公審判まで続き、公審判の後には永遠に続くようになる。


1002 地獄と公審判について。

さらに次のことを決定する。
神の定めによって大罪の状態のままで死んだ霊魂は死後直ちに地獄に落ちて、言語に絶する罰に苦しめられるであろう。
そして審判の日に、すべての人間が自分の体をたずさえて「キリストの法廷に」たち、自分の行いについて報告をするために、「正体をあらわし、おのおのがその体で行ったことの善悪にしたがって、報いを受ける」(2コリント5・10)のである。

=====<引用終わり>=====


「死亡の時に浄化を必要とする汚れがあったが死後に浄化」ということの意味について
お知りになりたい方はこちら(「贖宥(免償)とは何か」)をご覧ください。
http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/26057842.html

賢者の贈り物

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東方の三博士(三王)が神の子イエズスを礼拝するために贈り物を持ってやって来たというエピソードは、色々な興味深い意義を含んでいるように思います。

まずは、この話が記されているマテオ福音書・第2章から抜粋してみましょう。

イエズスはヘロデ王のとき、ユダヤのベトレヘムで生まれた。そのころ、東の国の博士たちがエルサレムに来て、「お生まれになったユダヤの王はどこにましますか。われわれはその星がのぼるのを見たので礼拝に来た」と尋ねた。・・・ヘロデは・・・、彼等をベトレヘムに送った。彼らがヘロデ王のことばに送られて出発すると、なんと、前にのぼるのを見たその星が先に立って、幼児のいるところの上に止まった。星を見て大いに喜んだ彼らは、その家に入って、子どもが母のマリアと一緒にいられるのを見た。彼らはひれ伏して礼拝し、宝箱を開いて、黄金と乳香と没薬の贈り物を献上した。
 (バルバロ訳『聖書』)


「博士たち」のことを、底本(ラテン語)では「Magi」(Magusの複数形)と書いています。Magusには魔術師という意味もありますが、ここでは「司祭階級に属し、同時に天文学者でもあり政務にもたずさわっていた」(バルバロ訳の注)人を指しています。
「三王来朝」という言葉があるように、この博士たちを「王」と見る向きもありますが、王国の最高支配者というよりも、学者であるがゆえに「まつりごと(政治・祭祀)」を主導する立場にある人と見るほうが自然でしょう。

マテオと同じく御降誕の状況を描写するルカ福音書では、羊飼いたちが幼子イエズスを礼拝するエピソードが記されています。彼らは、言わば貧しく学もない人々の代表です。彼らには天使と天の軍団が出現して、救世主の誕生を教えてくれました。
一方、三博士にはそのような超自然的な助けはありませんでした。彼らは学問によって、つまり人間の理性の力だけを使って、「その星」を発見し、その意味、つまりイエズスのところに行って「ひれ伏して礼拝」すべきだということを理解したのです。


何か学問に関わっている人や、少なくともまっとうな常識を持っている人には言うまでもないことなのでしょうが、神がこの世界を創造した以上は、真正な宗教と正確な学問とは矛盾するはずがないのです。
理性的推論のみによって唯一の神の存在が証明されるように、学問は(啓示のみによって教えられる神秘の領域には至れないとしても)宗教の問題を適切に考察することができます。
啓示と理性はキリスト教という車の両輪のようなもので、どちらが欠けても真理の道を大きく外れてしまいます。

ところが、今の日本では、宗教と科学は対立するものだという考え方が一般的ですね。

宗教は個人の心に関係する話で、科学とは無関係、みたいな。「こころ」と言えば聞こえはいいですが、ぶっちゃけ「宗教なんて個人の思い込み」だと言うわけですね。思い込みでない宗教があるかもしれないとは考えてもみないのでしょう。

一方、宗教の側もそういった風潮を利用して、当たり前の検証にさらされることすら避けてきました。

仏の存在を科学的に証明した人がいるでしょうか? 仏教の究極理想は悟りを開いて輪廻の循環から脱することですが、そもそも輪廻転生という大前提が、事実に反しているのではないでしょうか?(生物は死ねばまた人や動物に生まれ変わるという話ですが、それは地球上の生命体の数が常に一定だということを意味します。そんなことがあり得るでしょうか?)
神道だって、美しい外見と政治的な鎧を取り去ってその内実を見てみれば、極めて原始人的な自然崇拝と怨霊の畏怖に過ぎません。伝統的慣習であるとか日本人の心(また「こころ」がでてきます)を持ち出して科学的検証から逃げているのではないでしょうか。


神道や仏教の非科学性はともかく、現代の日本人が「宗教と科学は対立する」と無根拠に思い込んでいる直接の原因は、プロテスタンティズムに由来しているようです。

カトリックは、真正な宗教かどうかは別として、少なくとも前提としては常識的なものの見方をしてきました。啓示と理性の両方を大事にしてきたのです。「カトリック」という言葉が「普遍的」という意味であるように、信仰は個人の内面に属するだけでなく、普遍的な客観的なものだと考えてきたわけです。

一方、教会を離れてプロテスタントという画期的な新宗教を作ることになったルターさんは、理性を「娼婦」と呼んだと言われています。しかし、理性を追放してしまえば、信仰は普遍性・客観性を失い、個人の思い込みの領域に狭められてしまうのは目に見えています。
「自分の思い込み」イコール「神聖なキリスト教信仰」と断言できてしまう確信というのはすごいもので、ルターさんは自分に都合の悪いことが書かれている新約聖書のヤコボ書簡を「わらくずの書簡」と呼んで、聖書から除こうとさえしたそうです。
プロテスタント諸教団の大原則である、信仰の源が「聖書のみ」というのはどこへ行っちゃったんでしょう? もっとも、「聖書のみ」という原則自体が聖書のどこにも載っていないばかりか、そもそも全く聖書的じゃないんですけどね・・・。

ともあれ、聖書を好きなように(ただしカトリック的でない限り)解釈してよく、それらの解釈はそれぞれ正当と見なされる(聖書の自由解釈といいます)とか、信仰と不可分に現れる外面の行動はどうでもよく内心に信仰心がありさえすれば良いという「信仰のみ」といったプロテスタンティズムの方針が、信仰の「内面化」つまり「私事化」を推進しました。信仰と理性とが断絶してしまったのです。
このような背景で、反キリスト教的な傾向を持つ近代哲学が成立しました。明治以来、近代哲学しか聞くことのなかった日本の私たちが、ついつい「信仰は個人の心の問題だ」と考えてしまうのも、無理はないのです。(ここらへんの事情は稲垣良典先生の本で説得的に書かれてます。)


聖書の記述に戻りましょう。カトリックで大切にされている「清貧」の徳を実践していた羊飼いたちはイエズスの所へ天使に導かれました。学者たちにはそのような助けはありませんでした。しかし、彼らも神を見出したのです。
啓示と理性と、比較すれば啓示のほうがはるかに偉大なのは明らかです。また、信仰は超自然的な恩寵によるものであって、理性的推論が信仰になるわけではありません。
けれども、だからといって信仰生活に理性が不必要だということにはなりません。自分に都合のいいことを「これは啓示だ」と勝手に思い込んでいれば良いというものではないでしょう。

信仰は個人の思い込みやら「魂の盲目的な動き」ではないのです(第1バチカン公会議「Dei Filius」参照)。

東方の三博士の贈り物は、イエズス・キリストの天上地上の支配権、信仰生活に必要な典礼、キリストの死と復活、を象徴するものでしたが、このエピソードが聖書に記載されたということは、信仰が「魂の盲目的な動きではない」ということを教えてくれる、私たちへの大きな贈り物かもしれませんね。


「聖書に基づく信仰」についてはこちら
http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/13599130.html

>聖書を読まねばキリスト信者たり得ないという暴論は、古代教会の信者を貶めるだけでなく、神を貶めるものである。
http://blogs.yahoo.co.jp/kjrik/13944585.html


カトリック教会が正典目録を定めるまでの数百年間、キリスト教に「これが聖書」といえるものはなかった。
その数百年間、世界にキリスト信者はいなかったのだろうか? そんな馬鹿な話はない!

人は聖書によってキリスト教徒になるのではない。
聖書が信仰を作るのではなく、キリスト教信仰(カトリシズム)が聖書を作ったのだ。
詳しく言えば、カトリック教会成立(紀元30年頃)以降、数多く書かれた書物や書簡の中で、「神の霊感によって書かれた」と教会が認めたものを、教会は「聖書」として一巻にまとめたのである。



岩下壮一神父は、この点について次のような言を遺している。

カトリック信者はもとより聖書を尊重する。彼にとって聖書は神感によって書かれた不可謬の神の言であり、(中略)これなくしては(中略)もはや活くるに堪え難くなるであろう。」
しかしカトリック信者の信仰は、聖書に基づくものではない。なぜならば、彼の信仰は新約聖書に先在するからである。彼の信仰が新約聖書を作り出したので、聖書が彼の信仰を産んだのではない。それは彼の有する信仰の記録にすぎぬ。(岩下壮一『カトリックの信仰』第十四章、講談社学術文庫)

プロテスタントは、しばしばカトリック信者は聖書を知らぬとか読まぬとか言って非難する。事実我等は聖書について彼等のように神経質ではない。自分等の教会の作ったもので日夕その精神を呼吸しており、その内容は聖書のテキストによらずとも、教会の祈祷書や、説教や、教理問答によって絶えず教えられているからである。我等は霊的修養の書として聖書を読む。信仰は教会を通じて既に与えられているのだから、その信仰の光に照らして聖書をよみ、心の糧とするのである。我等が聖書をよむのは心読体読するので、本来同一なる信者の心にある信仰と、聖書を作り出した精神とが、以心伝心的に交感するのである。決してこの語は複数だからこういう意味だろうとか、この章の史実性があやしいとかいうような、つまらぬ詮議だてをして日を暮らしているのではない。重要な点は教会にきけばわかる。細目にわたって研究したければ、自由に研究し、討論する。而して教会の信条に抵触せぬ限り、できるだけ寛厚にあらゆる解釈を包容しておく。どれが絶対的にまたは排他的に真であるか、確かな保証がないからである。それをきめる必要が生じた場合には教権が発動してきめるから、それまでは安心して、できるだけ大胆に、かつ自由に討究する綽々たる心の余裕がある。(同上、第九章)



さらに言えば、聖書がカトリック教会の検閲と編纂によってできたという歴史的事実がある以上は、悪い言い方だが、聖書の中にカトリック教会にとって都合の悪い文言が残っているはずがないという見方もできるだろう。

だから、聖書と教会を対立させたり、聖書をもってカトリックを批判したりするのは、愚の骨頂、というか不可能なことだと私は思うのである。

お告げの祈り

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先日、教皇様のアンジェラスの話を書いたが、未信者だと何のことか分からない人が多いかもしれない。今回はこれを簡単に説明してみよう。


「アンジェラス(ラテン語の正しい発音ではアンジェルス)」とは、日本語で「お告げの祈り」と呼ばれるもので、カトリック信徒が、朝、昼、夕方の3回、毎日(復活節を除く)唱える祈りである。
略して単に「お告げ」ということもある。
冒頭の絵は、ミレーの有名な「晩鐘」。教会は「お告げの祈り」のために、午前6時、正午、午後6時に鐘を鳴らすのだが、この夕方の鐘を聞いて農民夫婦が「お告げの祈り」を唱えている情景が描かれている。

Angelusとはこの祈りの冒頭の語を取ったものだが、この綴りからも了解されるとおり、Angelusとはラテン語で「天使」という意味である。(もともとはギリシャ語で「使者」という意味、転じて「天のみ使い」即ち「天使」という意味になった。)

この祈りは、大天使ガブリエルが終生童貞なる聖マリアの前に現れて、神の子を宿すと告げる、いわゆる「受胎告知」の場面を黙想するものだ。
それによって、神が人類の救いのために人となったという偉大な神秘(「託身」あるいは「受肉」という)を讃え、また、終生「神のみ旨のとおりになるように」という謙遜と従順の精神に満ちていた聖母の徳に倣おうとするのである。

カトリックであれば毎日唱えているし、教会によってはミサの前か後に唱えることも多いので普通は暗唱しているのだが、知らない人のために一応掲載しておこう。



お告げの祈

V. Angelus Domini nuntiavit Mariæ,
R. et concepit de Spiritu Sancto.
 V. Ave Maria, gratia plena, Dominus tecum.
   Benedicta tu in mulieribus et benedictus fructus ventris tui Iesus.
 R. Sancta Maria Mater Dei, ora pro nobis peccatoribus, nunc et in hora mortis nostræ. Amen.
V. Ecce ancilla Domini,
R. fiat mihi secundum verbum tuum.
 V. Ave Maria...
 R. Sancta Maria...
V. Et Verbum caro factum est,
R. et habitavit in nobis.
 V. Ave Maria...
 R. Sancta Maria...
V. Ora pro nobis, Sancta Dei Genitrix;
R. ut digni efficiamur promissionibus Christi.
Oremus.
Gratiam tuam quæsumus, Domine, mentibus nostris infunde: ut qui Angelo nuntiante, Christi Filii tui
incarnationem cognovimus, per passionem eius et crucem ad resurrectionis
gloriam perducamur.
Per eundem Christum Dominum nostrum. Amen.


V. 主のみ使いの告げありければ、
R. マリアは聖霊によりて懐胎し給えり。
 V. めでたし、聖寵充ち満てるマリア、主御身とともにまします。
   御身は女のうちにて祝せられ、御胎内の御子イエズスも祝せられ給う。
 R. 天主の御母聖マリア、罪人なる我らのために、今も臨終の時も祈りたまえ。アメン。
V. 我は主のつかい女なり、
R. 仰せの如く我になれかし。
 V. めでたし…
 R. 天主の御母…
V. しかしてみことばは人となり給い、
R. 我らのうちに住み給えり。
 V. めでたし…
 R. 天主の御母…
V. 天主の聖母、我らのために祈り給え。
R. キリストの御約束に我らを適わしめ給え。
祈願
主よ、我ら天使の告げをもって、御子キリストの御託身を知りたれば、願わくはその御苦難と十字架とによりて、ついに御復活の栄えに達するを得んため、我らの心に聖寵を注ぎ給え。我らの主キリストによりて願い奉る。アメン。



教皇様のアンジェラスに話を戻すと、聖下は毎週主日(日曜日)の正午(イタリア時間)に、信徒と一緒にお告げの祈りを唱える。
この時に、短い演説というか教皇メッセージがあり、その内容は教皇の定期的な公式発言として世界中に配信されるのだ。(日本語でもラジオバチカンの日本語サイトで読むことができるが、全文ではなく、また主旨とは関係ない部分だけ掲載されることも多いのが残念。)

教皇聖下の動向に関心を持っているカトリック信徒はしばしばこれを話題にするのだが、部外者が聞くと大きな勘違いをしてしまうかもしれない。

「ねえねえ、この前のパパ様のお告げ、聞いた?」

などという会話を耳にしたら、何も知らない人は、キリスト教では教皇が神がかって天のメッセージを伝えているのか、などと思ってしまうかもしれない(んなわけないか)。

念のため繰り返すが、「お告げ」とは「お告げの祈り」のことであり、聖下が毎週トランス状態になっているわけではない。誤解のないように。

ロザリオ月

10月はロザリオ月だ。常にも増して、ロザリオの祈りをすることが勧められる。私は毎日1環を唱える習慣なので、今月は1日3環にしようかと思う。

10月はまた、ロザリオの祈りの最後に「聖会の保護者なる聖ヨゼフに向かう祈り」を唱えることが勧められている。聖家族の中でいまひとつ影の薄い聖ヨゼフであるが、貞潔と家庭の守護者でもあることだし、今月くらいは聖ヨゼフの執り成しを願って祈りをささげたいものだ。


聖会の保護者なる聖ヨゼフへ向かう祈

Ad te beate Ioseph, in tribulatione nostra confugimus, atque, implorato Sponsæ tuæ sanctissimæ auxilio,
patrocinium quoque tuum fidenter exposcimus. Per eam, quæsumus quae te cum immaculata Virgine Dei
Genetrice coniunxit, caritatem, perque paternum, quo Puerum Iesum amplexus es, amorem, supplices
deprecamur, ut ad hereditatem, quam Iesus Christus acquisivit Sanguine suo, benignus respicias,
ac necessitatibus nostris tua virtute et ope succurras.
Tuere, o Custos providentissime divinæ Familiæ, Iesu Christi sobolem electam; prohibe a nobis,
amantissime Pater, omnem errorum ac corruptelarum luem; propitius nobis, sospitator noster fortissime,
in hoc cum potestate tenebrarum certamine e cælo adesto; et sicut olim Puerum Iesum e summo eripuisti
vitæ discrimine, ita nunc Ecclesiam sanctam Dei ab hostilibus insidiis atque ab omni adversitate defende:
nosque singulos perpetuo tege patrocinio, ut ad tui exemplar et ope tua suffulti, sancte vivere,
pie emori, sempiternamque in caelis beatitudinem assequi possimus. Amen.

幸いなるヨゼフよ、我ら困難のうちに御身によりすがり、かつ御身のいと尊き浄配の助けを求めたれば、また御身の御保護をも頼もしく願い奉る。
御身は天主の聖母なる汚れなき童貞と結ばれたる慈しみあり、幼きイエズスに尽したる父の愛あれば、またイエズス・キリストが、その御血をもって贖い得たまえる家督を、一層憐みて顧み、かつ全て我らの急に迫れる時、助力と救援とを下し給わんことを、伏して願い奉る。
聖家族のいと忠実なる守護者よ、イエズス・キリストの選ばれたる末を守り給え。
慈しみ深き父よ、我らのために、全ての誤りと腐敗との伝染を防ぎ給え。
いと強き保護者よ、我らが闇の権威と戦うを憐みて、天より助けを垂れ給え、また昔幼きイエズスを、生命の危険より救いし如く、今も公教会を守りて、敵の罠と、全ての困難とを免れしめ給え。
かつ常に我らをことごとく保護し、我らをして御身に倣わしめ、御助けによりて、聖なる一生を送り、信心をもって死し、天国の永遠なる福楽に至ることを得しめ給え。アメン。

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