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カトリック的。
信徒数13億人でも日本では知られていないカトリック。正統キリスト教会を気楽にご紹介します。

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これまではキリスト教を見ていく前段階として、「宗教」というものについて広い意味から狭い意味まで見てきました。
ここからは信経(キリスト教の信仰箇条を簡潔にまとめたもの)に即して、キリスト教とは一体どのようなものなのか、一体どのようなことを承認すべき事実として提示しているのか、見ていきたいと思います。

使徒信経、ニケーア信経ともに、「Credo」という言葉から始まっています。これは、「私は信じる」という意味です。
ちなみに、この最初の単語をとって、キリスト教信仰宣言のことを「クレドCredo」と言います。近年、ビジネスでも会社の基本理念のことを「クレド」と呼ぶところが出てきていますが、ここから来ているんですね。閑話休題。

さて、宗教といえば「信じる」という言葉がついてまわります。

合理主義者を自認する人たちは、「宗教なんて非合理なもの、しょせんは信じるしかないものだ」と言います。宗教は論理的・科学的なものではなく、個人が勝手に思い込むだけのものだ、という訳です。
一方、ある種の宗教(例えば仏教など)はこう言います。「西洋合理主義の時代は終わった。これからは<こころ>の時代、信じることの価値を再評価しなければならない」。

かたや合理主義、かたや宗教と、一見正反対の意見のようですが、実は両者に共通する点があること、お分かりになりますか?
それは、どちらも「信じる」ということを非合理的・非理性的な個人の感覚の問題として捉えているということです。
合理主義者は「宗教は非科学的な迷信だ」と言い、宗教(仏教など)の側は「迷信で結構」と開き直っているかのようです。

現在、中高年の間では仏教ブームが起きています。若年層では「スピリチュアル」と称して、霊能者と称する連中がTVで宣伝するオカルトや占いが大流行です。
「信じる」ことを除外し表層的に享受するということによって、「宗教なんて非科学的だ」と言いながら同じく非科学的なものを消費するという矛盾を隠し、自分を納得させているように思えます。

先ほど、仏教などの宗教が「西洋合理主義の時代は終わった、これからは理屈では割り切れない<こころ>の時代だ」と主張している、と言いました。
考えてみれば、この主張もおかしいと思いませんか?
物事を論理的に考えるのは、決して「西洋」の専売特許ではありません。
現代の日本人の多くが論理的な考え方をしていない(進化論を認めていながら、進化論と真っ向から対立する輪廻説に基づく仏教を受け入れるという自己矛盾を犯している)のは事実です。しかし、だからといって日本人に論理的思考の能力がないとか、非科学性が日本の美徳だとか言うのは、事実に反しているばかりか、日本人に対する侮辱でさえあります。

プロテスタンティズムに基づく西洋近代主義は、確かに行き詰まりを見せています。近代主義が「合理的だ」ともてはやしていた考え方は、環境の破壊や人間性の否定に陥るしかないことが明らかになってきました。
だからといって、「論理的なものの考え方」を捨ててよいということにはなりません。近代主義が論理的だと見なした理屈が実は論理的ではなかったということをこそ(論理的に)指摘すべきであって、論理や理屈を放棄してしまうのでは本末転倒です。
ましてや、理性を捨てて非科学的な輪廻説や人間崇拝・自然崇拝に退行させようとする昨今の日本の風潮(一部の知識人が「日本古来の伝統に戻れ」などと宣伝している)は、近代主義に毒された西洋人にも劣ると言わざるを得ません。
近代の西洋人は論理の立て方(または出発点)においてこそ間違っていたものの、少なくとも論理的に考えようと(中世以来の理性重視の立場を堅持して)いたのですから、私たちが理性の否定という究極の非論理的な立場になるようでは恥かしいのではないでしょうか。

「信じる」という言葉の問題に戻りましょう。
今から500年ほど前、プロテスタンティズムは「信じることは個人の内面の問題である」という人類史上画期的な主張を打ち出しました。信仰は客観的・論理的に検討され得るものではなく、個人の勝手な思い込みに過ぎない、というのです。個人の感情の問題なのですから、その「感情」が合ってるとか間違ってるとか、他人にとやかく言われる筋合いはない、というわけです。

この新説(珍説?)は、その後の世界に絶大な影響を及ぼしました。
それまでは、「信じる」ということは個人の思い込みではなく、客観的にその是非を論ずることのできるものだというのが当たり前に受け入れられていました。ですから、たとえば聖書ひとつとっても、色々な読み方ができるでしょうけれども、何か解釈判断を下す必要が出てきた時には、(個人の勝手な考えには何の権威もありませんから)聖書の著作権保持者であるカトリック教会が裁定するわけです。
一方、プロテスタントにとって「信仰は個人の内面の問題」という主張は、「聖書の誤読・曲解の権利」を意味しています。聖書、つまり神の言葉の記録を、個人が好きなように解釈できる、間違った解釈をすることさえできる、そしてその解釈は「個人の内面の問題」なのだから誰もそれを「非論理的だよ、間違ってるよ」と指摘してはならない、ということです。

「信仰は個人の問題」で、「誰も(キリストが設立したカトリック教会でさえも)、ある人の信念がキリスト教と矛盾しているなどとは指摘できない」というのですから、たとえその人の主張が聖書を真っ向から否定するものであっても、その「聖書解釈(誤読)」もまた正当なキリスト教として認めなければならない、という理屈です。
ある宗教を否定しながらその宗教の信者と名乗りたい人にとっては非常に都合のいいロジックですね。

さて、この考え方は、明治期以降の日本がお手本としたのがプロテスタント国家だったこともあり、我が国でも急速に広がり、一般化しました。
宗教が個人の内面の問題に過ぎないのであれば、国家は国民の外面的な行為を自由にコントロールできることになりますから(たとえば、兵役を忌避する宗教に属する信者に対しても、その信仰は個人の内面の問題に過ぎないのだから、外面的行為である徴兵に応じなければならない、という理屈が成り立つ)、国家にとっても都合がよかったのです(この問題は加藤典洋『日本の無思想』(平凡社)で説得的に書かれています)。
このロジック、戦前の日本で重宝されただけでなく、表向き「基本的人権」や「信教の自由」を尊重すると言っている共産主義国家では今でも健在ですね。

さて、今までの話からもわかるとおり、信仰を個人の内面に閉じ込めることは非常に大きな問題をはらんでいるのですが、問題はそれだけではありません。
ある信仰が適切であるか、外部から(科学によっても)検証することを一切認めないとするのですから、たとえばオウム真理教のような集団があっても、その信仰そのものを問い、検証することを可能とする場がないのです(誤った信仰の結果である個々の犯罪を法的に処罰することはできましょうが)。

オウム事件が起こったとき、メディアでは「西洋的な近代合理主義が行き詰まっている証拠だ」と騒がれました。残虐な犯罪に手を染めたオウム信者の多くが高等教育を受けた若者だったため、「科学だけではだめだ、理屈・論理では割り切れない<こころ>の問題も重視していかなくてはならない」というのです。
しかし、私はそうは思いません。
オウム事件が、近代主義が結ぶべくして結んだ恐るべき果実だったというのは事実です。ただ、その意味は、近代社会が「信じる」ことを科学(理性的検証)の対象から除外してきたため、私たちは宗教に対するセンス(常識)を失ってしまった、私たちが宗教を理性から切り離して治外法権に置いたため、宗教は無法地帯と化してしまった、ということです。
私たちが宗教を「個人の内面の問題」としていかなる迷信も許容してきたからこそ、いかなる科学とも矛盾するオウム真理教もまた存在することができたのです。

長々とお話ししてきましたが、「信じる」ことを個人の内面に限定し、理性の射程から除外することは適切でない、ということはお分かり頂けると思います。

それでは、「個人の内面の問題」「思い込み」とは違う、「信じる」とは何でしょうか。
次回は、その問題について考えてみたいと思います。

宗教とは、人間の生き方に関わる世界観を提示する一種の「学説」のようなもの、という話を前回しましたが、覚えていらっしゃいますでしょうか。
その時にも少し触れましたが、学説に「真偽」つまり間違ってるとか間違ってないとかがあるように、宗教にも真偽があるのではないでしょうか。

私は、地球が丸いという立場をとっています。一方、Aさんは地球が平らだと信じているとしましょう。

「Aさんがそう信じているならそれでいいじゃないか。Aさんにとっては地球は平らなんだよ」


世間でよく耳にする相対主義的な反応ですけれども、そうでしょうか? そんな言説に何か意味があるでしょうか? 私やAさんが何を信じていようが、地球が丸いという事実は変わらないのですから。
「Aさんが主張する『地球が平らだ』という説は偽である」、それで済む話です。
「客観的な事実」と、「誰かの個人的な信念」とを混同するのは、おかしなことでしょう。

同じことが、宗教についても言えます。宗教だけ特別扱いなのは変ですよね。
「Bさんは○○という宗教の信者だけれども、その宗教の教えは偽である」、そう言うことができるということです。偽の宗教とそうじゃない宗教とを、区別できるということです。


さて、前回の論点は、「宗教が単なる学説と違うのは、宗教には道徳的な責任が関わってくる点である」ということでした。
「親に対する人の道」が「孝」と呼ばれるように、「神に対する人の道」が「宗教religio」だ、というのが宗教のおおまかな定義です。



宗教religioとは徳目のひとつ


日本語で「宗教」、英語では「religion」といいますよね。これは、ラテン語の「レリジオ(religio)」という言葉から来ています(学問の世界では「レリギオ」というのが一般的ですが、ここではラテン語に忠実な発音に従って「レリジオ」と書きました)。

この「レリジオreligio」、いったい何かと言いますと、徳の一つなんですね。
「徳」って分かりますでしょう? 節制とか友愛とか、美徳ってありますよね。学問の方では「徳virtusとは獲得された善きハビトゥスhabitus」だなんてコムズカシク言われますけれども、要するに、倫理的に善い習慣や行いってことです。

「善く生きる」には徳の実践が不可欠ですから、善い人間であろうと思うのであれば、正しい「宗教religio」がなければならない、ということになるんです。

はい。
ここで疑問が湧き上がってきていることと思います。

「キリスト教倫理」とか「仏教道徳」とかって言うじゃない? つまり、「宗教」と「倫理」は別でしょう? 「宗教」自体が徳目のひとつというのはどういうこと?


ごもっとも。 「宗教は個人の心の問題」と思い込んでいる現代の日本人にとって、「人としての生き方(道徳)」に「個人の問題(宗教)」が入っているなんて、違和感があるかもしれませんね。

しかし、です。 宗教を個人の主観のレベルにまで引きずり下ろしたのも、宗教と倫理とを切り離したのも、プロテスタンティズムに立脚する近代ヨーロッパ哲学の発想であって、決して当たり前のことではありません。
近現代の日本はプロテスタント国家から学問を輸入したので、今の私たちはついつい近代主義を当たり前のように思っているのですけれど、実はかなり偏った考え方をしているんです。

宗教に入ると、「あれしちゃいけない、これしちゃいけない」って色々と道徳上の制約が出てくるのでは…。


よく聞きますが、その発想自体が近代主義的なんですね。
本当は順序が逆なんです。

道徳的に正しく生きようとするならば、たとえば「人を殺しちゃいけない」「親を敬いなさい」といった、道徳上の制約が出てきますよね。そういった道徳上の制約の一つに「正しい宗教を実践する」ということも入っているんだよ、ということなんです。

さて、それでは宗教(レリジオ)とは、どのような徳なのでしょうか。


宗教religioは正義iustitiaに属する徳目


レリジオという徳目がどこに分類されるかと言うと、「正義iustitia」という徳の一つだということです。

それでは、正義(ユスティツィア)とは何でしょう。例えば、債務者は債権者に負債を返済する義務がありますよね。負うたものを返済する、帰すべきものを帰すべき相手に所属せしめる、それが正義と呼ばれます。
アリストテレスでは、正義とは「他者との関わりにおいて完全な徳」と記されています。自分と他者との間の偏りを是正し、あるべき秩序に戻そうとすることが正義の徳だということです。

人間は親に対して出産・養育の恩を負っているので、親孝行をすべきであるといわれます。
同様に、人間はその存在すべてを神に負うていますので、全人格をもって神に対してふさわしい崇敬をせねばならない、ということになります。
このような、正義iustitiaの中でも神に対する徳の実践のことを敬神religio(=宗教)というのです。

念のため聖トマス・アクィナスを孫引きしてみましょうか。

自然的理性は人間にたいして、かれが自らのうちに感じとっている欠陥――それらに関してかれは或る優れた者によって助けられ、導かれることを必要とする――のゆえに、或る優れた者に従属せしめられるべきことを命令する。そして、この<或る優れた者>aliquis superiorが何であろうと、それが万人において神と呼ばれている者にほかならない。しかるに、自然的事物において劣った者共は優れた者に自然本性的に従属せしめられているごとく、そのようにまた自然的理性は人間にたいして、自然本性的傾向性にもとづいて、人間の上位に在るところの者に、従属と尊崇を、人間の在り方に即して捧げるべきことを命令するのである。


つまり、レリジオという徳目を実践することは、理性によって万人に要求されていることなのだというわけですね。


具体的にどうすればよいのか


レリジオ(敬神、宗教)の徳を実践することは、万人に課せられた普遍的な法だということが分かりました。
「法」とはいっても政府や権力者が作った法律ではなく、すべての人が生まれつき持っている良心の法(例えば「殺すなかれ」「盗むなかれ」等)ですから、時代や地域によって異なるということはあり得ません。
いつの時代、どこの場所であろうが、正しいレリジオは万人共通だということです。

万人に普遍的ですから、例えば日本でも、そのようなレリジオの思想的萌芽が見受けられます。
「おてんとさまの下で恥じることのない」とか「天道に背かず」とか言いますよね。御天道様といっても別に太陽を崇拝しているわけではないでしょう。万人の上に等しく存在し、万人をはるかに超越している何か、それを「天」と呼び、またこの「天」に「従属と尊崇を捧げるべき」と、漠然と感じているのです。

それでは、天の恩にどうやって報いるればよいのでしょう。どうすれば神に対してふさわしい「従属と尊崇を捧げる」ことができるのでしょう。
残念ながら日本では、天に背かないよう徳を修め忠孝に励むべきことは説かれてきましたけれども、天の大恩そのものに対しては、どのように感謝し礼拝すればよいのか説かれたことがないようです。
神道でも、大自然の事象に対する細やかな美意識や畏敬の念はありますが、それら大自然の事象を創造したおおもとの存在に対して何をすればよいのかということは知られていないようです。


全人類に普遍的な、つまりは唯一の真正なレリジオは、実在しているのでしょうか。
真正のレリジオは理論上に存在しているだけで、この世に無数にある宗教はすべて間違っているのでしょうか。


カトリック教会は、カトリシズムこそが真正の宗教であると主張しています。
果たしてその主張の真偽やいかに? ・・・ご判断はお任せします。

ついに次回からは、カトリックとはどのようなものか、信経に即して見ていこうと思います。お楽しみに!


続きを読む http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/48912800.html

前回まで、私たちが「宗教」という言葉をいかに偏った意味でしか捉えていないか、ということを見てきました。

「宗教」とは、(インチキ宗教でよくあるように)弱い人間が「すがる」とか「心の拠り所」とかそういうものではなくて、そんな個人の主観とか思い込みの話ではなくて、人間の思惑からは全く独立に、「世界はこういうものだ」「人間はこうすべきなのだ」という世界観や行動規範を提示するものなのです。
だから、ある人にとって「イワシの頭」を拝むのがどれほど「心の癒し」になろうとも、(イワシの頭は神でも仏でもないのだから)その信心はただの迷信であり、間違った宗教だ、という言い方ができるのです。


ある意味では、「宗教」は「学説」に近いと言えるでしょう。

私は、地球が太陽の周りを公転しているという説が真であると認めます。つまり、私は「地動説主義者」というわけです。地動説という一つの主張に賛成しているのです。
同じように、私はカトリック信徒です。カトリック教会の教理が真であると認めるからカトリックなのです。カトリシズムという一つの主張に賛成しているのです。

私が地動説を真と認めるのはなぜでしょうか? それは、地動説には信じるに足る根拠があると知っているからです。別に私が地動説に「心の拠り所」を求めているからではありません。これは皆さんが地動説を信じているのと全く同じだと思います。
地球の周りを星が巡っていると思うほうがロマンチックですし、場合によっては「心の癒し」になるかもしれません。けれども、私がどう思おうと、地球が太陽の周りを公転しているという事実には変わりないのではないでしょうか?

私はなぜカトリックなのでしょうか? それは、カトリシズムには信じるに足る根拠があると知っているからです。別に私がカトリシズムに「心の拠り所」を求めているからではありません。
カトリシズムであれ何であれ、信者になると「心が楽になるから」とか「癒されるから」信者になったって仕方ありません。私がカトリックに賛成しようが反対しようが、事実というものは変わりません。カトリックが正しければ、神は三位一体でキリストは受肉した神の第二位格ですし、カトリックが間違いならば、キリスト教なんてただの迷信だから世界から抹消すべきということにもなります(ちょっと過激ですが)。
そこに個人の感情や思い入れの関与する余地はありません。


「学説」と「宗教」との類似、お分かりいただけましたか?
けれども、学説と宗教とでは違いもあります。

学説の場合、正しい学説であると分かれば、誰もがそれを受け入れます。地動説だろうがなんだろうが、きちんと説明されれば誰もが納得して認めるわけです。
数学の証明もそうですよね。私のように数学が苦手だと説明されても分からないけれども、「分からない」のと「その主張は間違いだ」と言い張るのは違いますよね。私だって、分かるように説明されれば「あーなるほど、その通りだ」って認めますもの。

ここで、一つの疑問が湧いてきます。
カトリックであれ何であれ、その宗教の主張が真であれば全世界の人がとっくに受け入れているはずじゃないか。カトリックが全世界の5分の1の人口しかいないということは、真の宗教でないということにはならないか?

そこです。そこに、単なる学説と宗教との違いが出てくるのです。
学説の場合、それを真と認めたところで生き方には殆ど影響ありません。地球が公転していようがいまいが、正直どうでもいいとすら言えます。

ところが宗教の場合、主張されているのは「これこれすることが善である、あるいは悪である」「人はこのようにすれば救われる」といったことがらです。
つまり、ある宗教を真と認め、受け入れるということは、道徳的な責任を負うことにもなるわけです。
キリスト教の言っていることが嘘でないことは分かった。でもキリスト教的に生きるのは面倒だから拒否したい。・・・よくある話ですが、「真とわかっていながら受け入れない、実行しない」これって自己欺瞞ですよね。しかし自己欺瞞では自分のプライドが傷つくので、キリスト教そのものを否定する。そういう反応が出てくるのはごく自然のことです。
宗教とは、「これは真だからキリスト教徒になれ、仏教徒になれ」と言われてもすんなり受け入れられるようなものではないわけです。
また多くの人は、ある宗教が正しいか間違っているか調べようとしませんから、そもそも真偽を判断することからしてできない、ということもありますね。


ここまで見てきて、一つの考え方が出てきたことにお気づきでしょうか。
宗教とは道徳と密接な関係がある、ということです。


カトリックの教説を簡単に説明したものである「公教要理」では、
宗教とは「神に対する人の道」と定義されています。

「親に対する人の道」を「孝」と呼び、
「君に対する人の道」を「忠」といいます。

「道」という漢字には、「人道」「道義」という言葉があるように、倫理的な意味合いがあります。
さて、「神に対する人の道」とはどういうことでしょう?



次回からはいよいよ、カトリシズムにおける「宗教」の意味合いについて考えてみたいと思います。



続きを読む
http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/30277539.html

前回は、「宗教」というのは、生きていくうえで基本となっている世界観であり、何か行動したり判断を下したりするときの前提となる価値観であり、要するに、ある人の根本的な思想体系なんだ、という話をしました。
う〜ん、これじゃ難しいな・・・。「思想体系」というのは、互いに関連する主義主張の集まりだと考えてみてください。
ある宗教を信じるというのは、その宗教の主義主張を真実と認める立場になる、ということです。(このことについては、また今度、「信じる」ことについての記事で説明します。)


さて、次のような意見を言う人がいます。
どんな主義主張にも与せずに、どんな立場からも自由でいるべきじゃないの?
私はどの宗教にも属していないから、宗教間の争いは中立の立場から公平に判断できるよ。


はて?
どんな主義主張も持たない人っているのかなぁ?
それに、完全に客観的にものごとを判定できる人間なんて、いないよねぇ。



「宗教」とは、ある人のすべての考えや行動の前提となる根本的な世界観・価値観に関わる主義主張だと言いました。その観点からすれば、「どの宗教にも属していない」人は大勢いても、「宗教を持たない」人などほとんどいないことになるのではないでしょうか。

むしろ、「宗教を持っていない」ということは、「自分は何かする時に前提となる価値観がないので、いつも行き当たりばったりだ」と公言していることになってしまいます。
もしそれが本当なら、そんな人、恐くてとても近寄れませんよ。仲良くされるのか殺されるのか、会う時次第で分からないのですから。友人を愛し殺人を厭う程度の一貫した主義くらいは持っていてもらわないと困りますね。

さて、ものによっては、主義主張(=宗教)に名前が付いているものがあります。カトリシズムとかコミュニズム(共産主義)とかがそうです。エゴイズム(自己中心主義)とか拝金主義とかもそうですね。
名前の付いていない主義主張だって沢山あるでしょう。たとえば、日本人が自分では「無宗教」だと主張しながら神仏や先祖を崇拝し宗教行事(墓参や祭)に参加するという、これを適切に言い表す名前はまだ定まっていません。
しかし、名前はついていませんが、これだって多くの日本人が生育環境や教育などによって知らず知らず受け入れている宗教にほかならないわけです。
「自分は無宗教だ」と言う人も、何か感じて・考えて・行動して生きている以上、何らかの主義主張を(意識せずに)肯定しています。その主義主張に名前が付いていなくても、自分ひとりだけの主張だとしても、それも立派な一つの宗教と言えるのです。


こういったわけですから、多くの人が賛同しているキリスト教とかイスラム教といった主義主張と、賛同者が自分ひとりという主義主張とは、どちらもそれが宗教であるという点では立場は同じと言えます。(私としては、キリスト教やイスラム教の方が、誰か一人の思いつきの主張より上だと考えますが、それは措いておきます。)
名前の付いた宗教(=主義主張)に所属していないからといって、宗教(=主義主張)を持っていないということにはなりません。ましてや、他の宗教を客観的に見ることができると錯覚するのは思い上がりとしか言いようがありません。


たとえてみれば、人は皆、色眼鏡をかけているわけです。自分だって色眼鏡をかけているくせに、それを忘れて、自分は正しい色を見ることができると思い込むのは愚かなことです。
大事なのは、自分だけが色眼鏡をかけていないかのように振舞うことではなく、自分がどんな色眼鏡をかけているか知ることではないでしょうか。そして、より正確に見ることのできる色に、自分の色眼鏡の色をチューンアップいくことも必要なのではないでしょうか。少なくとも、自分の眼鏡だとどれだけ歪んで見えるのか、考えていなければならないでしょう。
試験勉強で使いませんでしたか? 教科書などで大事な語句の上に緑色のマーカーを引いて、赤いシートを通してみると文字とマーカーが黒くつぶれて見えなくなる、アレ。自分は今、赤い色眼鏡をかけているので見えないけれど、別な色眼鏡であれば語句が見えることもある、そういう感覚を忘れたくないものです。

「自分は無宗教だから中立だ」と無邪気に言ってしまえる人が宗教について話す時、往々にして頓珍漢なことを言ってしまうのは、そんなところに理由があるのかもしれません。自分だって色眼鏡をかけていることを度外視しているからでしょう。

宗教研究の難しさもそこにあります。学的に誠実な研究者であれば、自分も先入観をもって観察していることを常に自覚していますが(そのつもりになってるだけ、の人も多いですが・・・)、先ほどの緑マーカーと赤シートの例のように、どうしたって見えない物があるかもしれません。だからといって、一つの研究の途中で次々と色眼鏡を変えてしまっては、一貫した観察になりませんから、そうもいかないわけです。

カトリック(と自称する)論者の中にも、けっこう多いんですよ。「キリスト教も仏教も、現世の蔑視を主張する点で同じだ」とか、「カトリックが天国の霊魂(聖人)を敬うのは、日本の死者(祖霊)崇拝と親和性がある」とか、無頓着に言っちゃえる人が。
表面上だけでも明らかに違うんですけど、「万宗同根論」とか「宗教多元主義」とかいう歪みの激しい偏った眼鏡をかけていると、まったく違うものも同じもののように見えてしまうんでしょうね。そんな人はきっと、カトリシズムそのものも、ろくに見えていないんじゃないでしょうか。


今回はだいぶ余談が過ぎました。
次回はもう少し話を進めてみたいと思います。


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http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/28565835.html

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