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カトリック的。
信徒数13億人でも日本では知られていないカトリック。正統キリスト教会を気楽にご紹介します。

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(つづきです)
岡田猊下の紋章、ネタの豊富さゆえに3回連続となってしまった。
今回はそろそろ紋章本体を離れて、装飾部分を見ていきたいと思う。 


・・・なに? まだツッコミが残ってる、って? 

え〜、言っちゃうの? みんな気づいてて言わないだけでしょー? 


・・・え? それでも言えって? それじゃあ言うよ、言っちゃいますよ。でも一回きりですよ・・・。


十字架が楯を突き破ってますから! 残念!!


イメージ 1


以前にも書いたが、紋章には装飾として「サポーター(スュポール)」と呼ばれる物が付けられることもある。英国王の紋章の左右に立つ鎖で繋がれた一角獣とライオンを見たことのある人は多いだろう。
司教の紋章には、行列用十字架(杖の先端に十字架が付いたもの)や司教杖(司教は牧者として羊=信徒を司牧することから、牧杖に似た、先端がゼンマイの芽のように渦を巻いた杖)がサポーターとして用いられる。

しかし、それらはあくまでも「楯を支えるもの」であり、紋章本体(楯)の装飾にすぎない。装飾であるサポーターが紋章の本体を突き破って表に顔を出しているというのは、前代未聞・・・というより、紋章として成立していないのではないか?

ちなみに、通常の司教紋章では、サポーターの十字架は下図のようになる。

イメージ 3



ところで、紋章学では、装飾の付いた紋章図像を「大紋章」と呼んで、装飾のない紋章本体だけの図像と区別することがある。
猊下の紋章から装飾を取り除いた、いうなれば「小紋章」、紋章本体だけではどのようなものか、試みに再構成してみたのが、下の図である。

イメージ 2



紋章は比較的、創作する際の自由度が高い表現形式である。しかし、前にも書いたように、紋章というものが国際ルールに則って通用している以上、そのルールを破って自己流の紋章を作っても意味がない。
紋章として通用させたいのであれば、「紋章風イラスト」や「紋章パロディ」ではダメだろう。

「既存の規則にとらわれず、自由に創作する」というと、現代人には格好よく聞こえるかもしれない。
しかし、たとえば、ワールドカップに出場しようというサッカーチームが「うちは因習に縛られない自由なチームなので、ボールを手でも扱います」と宣言したら、どうだろう。笑われるのがオチだ。

我らの敬愛する司教ペトロ岡田猊下の紋章が、海外で笑われてはいないかと心配になってしまう。

大きなお世話、だろうか?

(つづきです)
さらに視線を下へ向けると、五つの丸い物体(東京教区のHPによると、これはパンを表している)を囲んで二匹のスズキが向き合っている。
スズキと言っても、もちろん人名ではない。紋章学では、こういった形状の魚の図像をスズキと呼ぶらしいんである。繰り返すようだが、私は紋章学を習ったわけでもなく全くの素人なので、細かいところを突っ込まれると困るのである…。

五つのパンと二匹の魚といえば、共観福音書に出てくる、キリストが食物を増やして人々に与えたという奇跡だ。
東京教区のHPには、「五つのパンと二匹の魚は新約聖書の話(マタイ14章、マルコ6章、ルカ9章)にあるように、私たちが持っているわずかなものでも分かち合うのなら、神の祝福によってみんなが豊かになることを表しています。」と説明されている。

そ、そうだったの!?

私は、この話は「神の言葉には事物の本質を変化させる権威がある」ということを示すもので、「聖体の秘跡」の予兆の一つである、と習ったように記憶していたのだが。

最後の晩餐で、キリストはパンとぶどう酒を取って「これは私の体、私の血である」と言い、聖体の秘跡を制定された。この時にキリストが意味もなく使徒たちに悪い冗談を言っていたのでなければ、神の言葉の権威によって、パンとぶどう酒は外見はそのままで本当にキリストの体と血に変わったに違いないのだ。
カトリック教会で行われるミサ聖祭とは、「これを行え」とおっしゃったキリストに従って行われるものである。聖体制定の時の主の言葉と同じ言葉によってパンとぶどう酒がキリストの体と血に変わり、多くの人の罪のゆるしとなる十字架上のキリストという犠牲とその恵みが、リアルタイムのものとして眼前に立ち現れるのだ。

この聖体制定を準備するものとしてパンを増やす奇跡が行われた、と私は思っていたのである。
もしかすると、私の記憶違いかもしれない。
だが、それにしたって、教区HPが「分かち合えばみんなが豊かになる」とだけしか言わないのはどうかという気もする。何も知らない未信者には、「みんな仲良くね、独り占めはダメよ」という通俗道徳か、「私有財産制を廃止すれば労働者が豊かになる」という共産主義スローガンのようにしか聞こえないのではないか。 ・・・と要らぬ心配をしてしまった。
いや、実に要らぬお節介である。話を元に戻そう。


五つのパンと二匹の魚は、グレーで彩色されている。

グ、グレー?

前回も書いたように、グレー、灰色という色は紋章で使用できる色ではない。
ふむう、何色を表現したかったのか。近いところでは銀(白)かもしれない。そうだ、そうに違いない!


…ところが、である。前回見たように、地の色は(黄であれ白であれ)金属色という結論であった。だとすれば、金属色の上に金属色を重ねることになり、紋章ルール違反ということになってしまうのである。うーむ、困ったものだ。

(この項さらにつづく)

イメージ 1

「司教紋章」というシリーズ名にも関わらず、連続で教皇紋章を取り上げてしまった。まあ、教皇もローマ司教であり司教団の首位の司教であるということで、ご勘弁願いたい。

今回は東京大司教ペトロ岡田猊下の紋章を取り上げてみたい。
激動の時代に神学校生活を送り、周囲の学生が騒いでいても一人黙々と勉学に励み、その博識ゆえ「歩くラテン語辞書」と称賛された猊下である(という噂話を聞いたことがある)。直接お目にかかった機会は数えるほどしかないが、きっと素敵な方に違いない。


で、期待しつつ猊下の司教紋章を見てみると・・・、ううむ、控えめに言って驚きである。

地の色は、・・・これは、クリーム色?
紋章の規則では、使える色が限定されている。金(黄)、銀(白)の「金属色」2色と、赤、青、黒、緑などの数種類の「原色」である。それぞれの色は用いる人、描く人によって色調は様々でよく、たとえば青といっても深い色から鮮やかな色まで自由に用いることができる。
そのかわり、色と色の中間色など、原色でない曖昧な色を使ってはならないことになっている。これは、紋章の本体が通常楯の形をしていることからも分かるように、紋章が本来、戦闘時に遠くからでも個人を見分けるために発達したものだからで、紋章のルールの根本には識別性の高さという要請が常に存在している。

ま、まあ、・・・地の色は金(黄)ということにしておこう。もしかしたら銀(白)のつもりだったのかもしれないが、いずれにせよ金属色だということで、先へ進もう。


楯の周囲は、赤色で細く縁取られている。さらに中央にも同じ細さの赤い線が入っている。これは紋章学的になんと記述するのだろう?
もしかすると、この紋章は金属色一色の地ではなく、上下とも金属色の水平二分割という違反紋章で、金属色同士が触れ合うのを避けるために原色で縁取ってあるのだろうか? 私は素人なので、諸賢のご教示を請いたい。

(紋章を知らない方のために、素人なりに説明してみると、紋章の基本ルールとして、金属色と金属色、原色と原色とが触れ合ってはならず、また、金属色の上に金属色の図像を置いたり、原色の上に原色の図像を置いたりしてはならないことになっている。これも、識別性を高めるために成立した規則と考えられている。)


縁取り(?)はともかく、地の上に配された図像を見てみよう。

楯の上部には二つの黒い星が左右に並んでいる。東京教区のHPによると、この二つの星は東京教区に属する東京都と千葉県を表現しているらしい。

それぞれの星の下には、「CARITAS」と「FIDES」という単語が黒字で記されている。紋章図像の書物の中に文章(例:オックスフォード大の紋章)や、文字(例:教皇ヨハネ・パウロ2世の紋章)ならともかく、地に直接単語というのは斬新だなあ、と思う。
ちなみに、Caritasとは愛徳(愛)、Fidesとは信徳(信仰)という意味のラテン語で、紋章下部に記されたSpesつまり望徳(希望)と併せて三つの「対神徳」という。これらは神から与えられる恩寵で、その名の通り神に対しての行動における三つの重要な美徳なのである。

文字の下には、なにやら装飾曲線が引かれている。これはいただけない。紋章は単なるロゴやイラストとは違うのだから、言葉で記述できない装飾を入れるのはどうかと思うのだが・・・。もちろん、これは私の個人的な感想にすぎない。

(この項つづく)

イメージ 1

前回は現教皇ベネディクト16世の紋章が従来の教皇紋章と異なっている点を取り上げたので、今回は従来の教皇紋章の例として前教皇ヨハネ・パウロ2世の紋章を見てみよう。


冠は教皇のシンボルともいえる三重冠(ティアラ)。天辺に十字架を頂く卵状(?)の帽に、祭儀を執行し、信徒を司牧し、神の教えを正しく説くという三つの権能を表す三つの冠が付いているものである。
といっても、教皇登位の戴冠式くらいしか使われず、祭儀の際は教皇も司教冠(ミトラ)などをかぶるのであるが、三重冠はその外見のインパクトから教皇の象徴として余りにも有名である。

余談だが、装飾過剰の気味があるとはいえ、キリストが定めた教皇職を美しく表現しているのだから、ここ何代かの教皇様が使わなかったのは寂しいなあ、と思っていた。
しかし、サンピエトロ大聖堂の宝物庫で実物を見て考えを改めた。あの大きさと宝石の数からして、相当な重量と見て取れる。あれをかぶったら頭が胴体にめり込んでしまうのではないか。教皇掩祝は信者の霊魂が煉獄にいる期間を短くするが、三重冠をかぶる教皇の方はこの世にいる期間が短くなりそうだ。どうやら三重冠が着用されなくなったのには極めて物理的・実際的な理由があったように思われる。

楯の後ろ側には交差した金銀の鍵が配される。前回も説明したとおり、マテオ(マタイ)福音書にはキリストが使徒ペトロを初代教皇に任じる場面がある。そこで教皇の権能が鍵によって表現されているので、教皇位の象徴に鍵の図像が用いられるのである。

紋章本体を見てみよう。地の色は青で、金の十字が楯を左右非対称に4分割し、向かって右下(紋章の左下)にあたる部分に、金のMの文字が配されている。このM字は、聖母マリアMariaの頭文字を取ったものと言われている。
ヨハネ・パウロ2世は聖母を深く愛しており、モットーの「Totus Tuus(直訳すれば、すべてはあなたのもの)」も聖母への敬虔な呼びかけであるという。


キリスト教をわかっていない人は、カトリックは聖母マリアを崇拝する偶像教だと誤解しているらしい。残念なことだ。

聖母マリアは、生まれた時から神の恩寵に満たされ、神である救い主イエズス・キリストを懐胎した方である。その謙遜(へりくだり)の生涯はキリスト者の模範であると同時に、キリストご自身の定めによって、キリスト者の母でもある。
キリストは十字架上で、聖母に対して「キリスト信者は汝の子である」とおっしゃり、信者に対して「聖母は汝らの母である」とおっしゃった。キリストの弟子となる者は、マリアという強く優しい母を持つことになるのである。

聖母マリアは決して「女神」などではない。聖母は我々をいつも守り助け、祈りを神へ取り次いでくださる身近で頼もしい存在である。そして、彼女をたたえることは即ち、彼女を通して救いと恵みをもたらした神の愛を賛美することなのである。

それゆえカトリック信徒は、日々ロザリオをつまぐり、福音書からとられた「天使祝詞(アベ・マリア)」という祈りを唱えるのである。



天使祝詞

Ave Maria, gratia plena, Dominus tecum. Benedicta tu in mulieribus, et benedictus fructus ventris tui, Iesus. Sancta Maria, Mater Dei, ora pro nobis peccatoribus nunc et in hora mortis nostrae. Amen.

めでたし、聖寵充ち満てるマリア、主 御身とともにまします。
御身は女のうちにて祝せられ、ご胎内のおん子イエズスも祝せられたもう。
天主のおん母 聖マリア、罪人なる我らのために、今も臨終の時も祈りたまえ。アメン。

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