うつ 抗精神病薬 副作用 遅発性ジスキネジアの苦痛

うつ病 薬の副作用による遅発性ジスキネジア 負けるな 自分!!

自分史

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故郷。。。

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新年、おめでとうございます。
2011年(平成23年)明けて3日目。
みなさん、お元気で新しい年をお迎えでしょうか。

冒頭の写真は、私が高校卒業まで生まれ育った街です。
大井川の向こうに市街地が広がり、その先は緑の山々。
圧倒するかのように、冠雪の富士が望めます。
向こう岸、川沿いに見える白い建物は
おそらく、私が卒業した高校の校舎かと思います。

うさぎ追いし かの山 ・・・うさぎは追いませんでした
こぶな釣りし かの川 ・・・釣りました
志しを 果たして ・・・果たせませんでした (志し、、あったかなぁ)
いつの日にか 帰らん ・・・年金暮らしになったら帰ろうかな (生きていればネ)

あの学び舎に向かって、川岸に沿い自転車で、
雨の日や冬の寒い日は、路線バスで通学。
日々、見慣れた富士とは言え
雪を頂いた姿を見ては おっぉー!
夕日を浴びる赤富士を眺めては おっぉー!

♪ 青春の かけらを 置き忘れた 街 ♪

みなさんのご健康、心からお祈りいたします。
 

(減薬・断薬状況につきましては、また後日、記事UPさせていただきます)

おはようございます。

今朝の東京は、雨も上がって日差しが出ています。

風が強く寒い朝です。


友人と11時に会う約束がありました。

メールがきました。

「ごめんなさい。用事が出来ました。会うのはまた、後日に」



暇になってしまいました。

とりとめもなく、思いつくままにペンを走らせます・・・。



私は現在、東京に住んでいますが

静岡県、大井川のほとりにある小さな町「島田市」で生まれ育ちました。

人口7万人ほどの田舎町です。

何処からでも富士山が望めました。

富士山は、常に「そこにあって当たり前の山」でした。


私が生まれた時、家族は両親・祖母・姉・兄、私の6人家族でした。

姉とは8歳違い。

兄とは6歳違い。

当時は、3人兄弟が普通でした。

兄の後に子供が出来たようですが死産だったようです。

その子供が元気に成長していれば、今の私は生まれていなかったと思います。

すぐ上の兄とは6歳違いですから

家族みんなから「あーちゃん」と呼ばれ可愛がられて育ちました。


父は元々、島田市の生まれ。

母は神奈川県・逗子市で生まれ育ちました。

逗子には海軍の基地がありました。

戦争が激しくなり、母の一族は親戚縁者のいる島田市に疎開しそのまま住みついたと聞いています。


祖母には5人の子供がおりました。

男の子2人。女の子3人。

長男は若くして病死、次男は東南アジアのどこかの国で戦死したと聞いています。


疎開先の島田市で、私の伯母にあたる、長女は望まれて嫁に行き、次女も程なく結婚しました。

残ったのは祖母と三女(私の母です)だけの2人になりました。


やがて戦争は敗戦に終わり、母は養子を迎えることになりました。

父は軍属として出兵していましたが、運良く生き残って帰郷。
(この軍属という言葉、兵隊との相違が今もってはっきり分かりません)

父と母は見合い結婚だと聞いています。


物心付いた時には

父は親戚が営む建設業の小さな会社で働いていました。

建設業と言えば格好よい響きですが

言ってしまえば「土建屋」です。

父は独学で建設の青写真を読むことが出来ました。

「このビルは、俺達が建てたんだ」

たまに市街地に出かけた時、

父は自慢そうに、そのビルを指指しながら私に語ったものでした。

母は近所の製材所で今でいうアルバイトのようなかたちで働いていました。


父は勤勉な人柄でした。

病気(風邪等を引いていても)でも仕事を休むようなことは無い人でした。

酒が好きでした。

普段は、どちらかと言えば無口。

休日には、釣りに連れて行ってくれたり

キャッチボールの相手をしてくれたり

楽しい思い出が、沢山残っています。

普段は優しい「良い父親」でしたが

酒が好きで、

度を越すと、やや酒乱気味の傾向がありました。

何の理由があったか私には分かりませんが

母の髪の毛をつかんで、部屋中を引き回してことを何度か目にしています。

父の目つきは、尋常ではありませんでした。


私は怖くて、姉や兄の後ろに隠れるようにして

父の荒れる様を、息を詰めて見ていました。


父も母も、私が20代・30代で相次いで亡くなりました。

母は「胃癌」。

父は自ら命を絶ちました・・・。

父方のいとこも20代で自殺しています。

県庁に勤める役人でした。

いつも、穏やかで、もの静か人柄でした。

会えば挨拶はしましたが

私が、まだ幼かったこともありジックリと話したことはありませんでした。


今、思うに、父もいとこも「うつ病」だったのかも知れません。

この病気を発症してから

私の中にも「父の家系の血」が流れている・・・。

「狂気の血統」・・・。

自身もいつか、同じ様な行為に走るのではないか・・・。

いつも、何処かで、おびえた気持ちが付きまとっていました。



私は幼少時、祖母の後について畑で遊んだり、近所の悪ガキと野山を駆け回る野生児でした。


(また、PCが落ちてしまいそうなので、いったん中断します)

〈PC何とか、やっと復活したようです・・・19日になりました。続きを書きますネ)

(昨日、わざわざ訪問くださいましたみなさん。申し訳ありませんでした・・・)


私は5歳になりました。

幼稚園に入園の時期です。

桜の咲く季節でした。

真新しい幼稚園の制服を着せられ

私は、初めての集団生活に投げ込まれました。


園の生活になじめませんでした。

当時、姉は中学2年生。兄は小学校6年生になっていました。


幼稚園は自宅から歩いて10分ほどの場所にありました。

更に5分も歩くと小学校・中学校の校舎が並ぶように建っていました。

時には姉が、時には兄が、朝、私を園まで送ってくれました。

園の入り口まで来ると、私は大お泣きを始め

学校に向かう姉や兄を困らせました。

私は園に行っても、いつも孤立していました。

自分から心を閉ざしていました。

途中で自宅に逃げ帰ったことも、何度もありました。


そんな様子を見かねた祖母が
「学校じゃあるまいし、無理に行かせることは無い。
 この子の面倒は自分がみる。」
と話を切り出し、以後私は園に通うことはなくなりました。


相変わらず、祖母にくっついて畑で遊んだり

与えられた積み木等のおもちゃで一人遊びをして日々を過ごしました。

近所の同級生や友達と遊ぶ分には、何の抵抗もなく野山を走りまわっていました。


私には「吃音(どもり)」という障害がありました。

「おはよう」と言うのに

「お、お、お〜は、は、よ〜う」こんな感じのしゃべり方でした。

この障害が、自らを孤立化させた一因でもありました。


思いつくままに

出生から幼児期の記憶を思い起こして

書きなぐってみました。


また、機会をみて

小学校時代、中学校時代、高校生時代、大学生時代、社会人になってからの

自分史を記してみたいと思います。


長文、お読みいただきまして、ありがとうございました・・・。


今朝も「早朝覚醒」です。

きょうは10時〜12時まで「ボランティア活動」の日です。

施設では、仲間が待っています。

元気で「ボランティア活動」に励んでこようと思います。



只今の時間、午前4時50分。


さて、眠れるか分かりませんが、

もう一度布団に入ってみようと思います・・・。

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