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平岡養一、続編!

お待たせしました!(誰も待っちゃいないって?)木琴奏者、平岡養一氏についての続編。
先日届いたコロンビアのCDに入っている木琴やビブラフォンを弾いているのが、「平岡養一」だという確証がないまま、平岡氏について書き進める私って・・・・。まあ、要は、興味深い音楽人生を歩んだ平岡氏について、書きたいってだけでして。今回も興味の無い方は、するっとスルーして下さい(笑)。あ、興味ない方も、今日のブログのラストにトリミングしたてのかわゆいサラちゃんの写真を載せたので、それは見て行って下さい(^^)←親ばか・・・

さて、前回は金春館について、マメ知識を書いたところで力尽きました。

私は、平岡さんのことを調べていて、金春館に行き着き、「金春館」については、主に荻野寧著、「西銀座・金春館小史という本を読むことで情報を得ました。他に、この時代の音楽については、堀内敬三著、「音楽50年史」「ヂンタ以来」などで、知ることができます。と言っても、私はそれらの文献を所有しているわけではなく、国会図書館で、立ち読み、じゃなくて、座り読み?しただけなんですけど。

また、金春館で、オーケストラを指揮していた、波多野福太郎ですが、前回、金春館・マメ知識で、サラっと触れるにとどまりましたが、実は、日本の音楽史上、かなり重要な人物で、このことに触れていると、いつまでたっても平岡氏のことが書けませんので、私は割愛させて頂きます。
波多野福太郎金春館、及び日本のジャズ史について、非常に詳しく書いているページを見つけました。菊池清麿という方のHPの一部なんですが、興味がある方は、ご一読を。面白いです!!
日本ジャズ史、その黎明の時代(←こちらをクリック)

木琴奏者・平岡養一氏についての続き

さて、今までの長い前置きで、平岡氏が幼少の頃に通い、見聞きした、「金春館」の音楽が、その時代の最先端であったことが、分かってもらえたと思います。

幼少の養一が、金春館の木琴に魅せられているころ、既に、ビクターなどから木琴で「金婚式」「モッキングバード」などを吹き込んだレコード(←と資料にありました。SPのことですね)が出始めておりました。

養一は、共益商社で売っていた子供用2オクターブ半の木琴を買ってもらい、金春館で覚えた「金春マーチ」やレコードの曲、当時流行していた「船頭小唄」「籠の鳥」などを耳コピで弾きまくりました。う〜ん、いいですねぇ。この「大好き」感が、たまらなくいいです。二年後、共鳴管付きの国産木琴を購入。

話はまた、脱線しますが・・・。
「金春マーチ」について、面白い記事を発見したので、貼っておきます。
大正ロマン銀座「金春館」のテーマ曲、響け、金春マーチ(←こちらをクリック)
平岡さんが、金春マーチの録音をしていたことも触れられています。本当に好きだったんですね!(^^)

養一はその後、慶応大学に進み、そこで、朝吹英一氏(←いずれこのお方についても書こうとは思っています)に出会います。朝吹氏は、当時としてはおそらく珍しいDEAGANの木琴を持っていました。その「舶来の凄く立派な木琴」を見て、養一は「オレだって、いつかあの立派な木琴で、オケをバックに演奏するんだ!」と奮起したとか。

練習を重ね、養一は、1927年(S2年・慶応の予科2年生)、帝国ホテル演芸場にて、初のコンサートを開きます。400席は、満席でありました。

その後、養一は、木琴に人生を賭けることに決め、留学を決意。当初は、漫然と「音楽するならヨーロッパか」と考えていた養一に、父・寅之助は重要なアドヴァイスをします。これが、本当に凄いアドヴァイスなんだわ。びっくりですよ。この時代にこんなことが言える寅之助の言葉に、私は非常に感銘を受けました。ちょっと大変だけど、全文を載せてみたいと思います。みなさんも、是非、読んで見てください。

養一、日本人はな、音楽といえば何でもヨーロッパだと考えている。それは、ウィーンには立派な音楽学校があり、パリには世界一のオペラ座がある。しかしな、ヨーロッパでは、パリ、ベルリン、ウィーン、ローマと回らないとその土地のよいオーケストラは聞けないし、よい奏者に会うことも出来ない。そこへゆくとアメリカは便利だ。お父さんは何度もNYへ行ったが、あそこはタウンホールの他に、鉄鋼王といわれるアンドルー・カーネギーが日露戦争の直前に7番街の56丁目にたてたカーネギーホールなどという立派なコンサートホールもあって、世界中のオーケストラや名演奏家がやってくる。何と言ってもNYは世界一豊かな町だ。そして世界中からさまざまな人種が集まってくる。聴衆の質も低くはない。ブロードウェイには、ハイクラスの劇場が並んでいる。そこでトスカニーニがオーケストラを指揮したり、ハイフェッツやクライスラーがバイオリンを弾いたり、ピアニストならルービンシュタインやホセ・イタービを聞くこともできる。養一、悪いことは言わんから、NYへ行きなさい。そして、洋行するならば、世界一の木琴奏者になるまでは、日本に帰らないんだ。その位の覚悟で行くんだぞ。
「平岡養一・木琴人生(豊田穣 著)」より引用

父のもう一つのアドバイス、「大学は卒業しなさい」に従い、1930年(S5年)三月に慶応を卒業したものの、予算のメドはたたない。父は、留学に関しては理解は示したものの、費用は自分で工面するよう、試練を与えたのです。いやぁぁ、偉大なる父親です。そして、養一もすごい。

留学資金をためるために養一は、木琴演奏を一枚100円で、レコーディングすることに。これは、帝国ホテルのコンサートにお客で来ていた鈴木育三氏(←ポリドール、営業担当重役。)が、そのように取り計らってくれた。10枚録音し、1000円くらいになりました。

当時のレート:1ドル=2円
横浜からサンフランシスコまで3等で150ドル(300円)
このレートを考えると、当時のレコーディングって、いい仕事になったんですね。すごいなあ。(いいなあ・・・)←本音

資金も出来たし、いざ出発!!という時の寅之助のアドバイス。

日本移民排撃が盛んなアメリカへ行くのだから3等では行かず1等で(片道400ドル以上)行け。そのほうが便宜がはかれる。

・・・息子想いな、立派な父親です・・・。(寅之助は東京高商〜現・一橋大〜出、会社の重役を務めるエリートだったようです)

1930年(S5年)6月6日出発。当時アメリカは、大恐慌の真っ只中。市民は不況にあえいでいた。

アメリカに着いた養一は、毎日、NBCのロビーで仕事を探します。そこには、仕事を探しに、または仕事をしに、ベニー・グッドマン、グレン・ミラー、サビア・クガーなんかが、出入りしていました。

1931年(S6年)NBCで、夜7:15〜週一回15分のレギュラー番組を獲得。同年、3月15日より、毎朝7:30〜7:45の番組にも出演が決定。「さくらさくら」「お江戸日本橋」など、日本の曲を始め、ありとあらゆる曲を毎朝演奏した。この番組は、1942年(S17年)に帰国するまで続きました。

またまた余談ですが、養一もアメリカへ行きたての頃は、アメリカの曲を一生懸命弾いて、アピールしていたそうです。しかし、なかなか評価されない。「お前は日本人なのに、どうしてアメリカの曲ばかり弾くのだ」と。考えた養一はある日、日本の音楽を演奏したそうです。すると、オリエンタルな響きが、アメリカ人にはウケた。
折角、アメリカに行ったのに、日本の曲?と思う方もいるかもしれませんが、私は結構考えさせられました。

あぁぁぁぁ〜〜〜、もう疲れてきた・・・。

後は、ざっとにします・・・(^^;)

アメリカでの養一の活躍で目を引くのが、1938年(S13年)、カーネギーホールで、デビューを果たしたことでしょうか。1938年といえば、そう、ピンと来ましたね、、、にやり。グッドマンのカーネギーホールライブがあった年ではありませんか。この時代のNYを養一はどのように感じていたんでしょうね!!

カーネギーでのコンサートプログラムは、まだ私見つけていないんですが、1936年タウンホールでのリサイタルは「お江戸日本橋」「モーツァルト小夜曲」「春の声」「チゴイネルワイゼン」「越後獅子」「出船」などを演奏したようです。だから、ジャス路線ではないですね。

ちなみに帰国後に出しているCD木琴の子守唄(←こちらをクリック)も、小曲を歌うように演奏する、クラッシック(という表現もあまり適切ではない気がしますが)なスタイルな演奏です。

どこまで書いたっけ・・・?あぁ、もう集中力切れた。

アメリカで着々と演奏活動を続けていた養一が帰国せざるを得なかった理由は、ただ一つ。戦争です。戦争の影響で、養一のみならず、在米日本人の音楽家は表立った演奏がしにくくなります。1931年から続いた、朝のレギュラー番組も中止となり、1942年(S17年)、やむなく、日米交換船にて帰国。

帰国後はビクターと専属契約。戦争が激しくなると、各地を慰問演奏したりしました。放送の仕事もしました。

戦後の活躍については、割りに知られているので、私はここまで。

これが、木琴人、平岡養一氏の歩みのごくごく一部です。

書き終わってみると、一体何のためにこのような記事をブログに載せているのか、ますます謎は深まる一方ですが、個人的には勉強になりました。これで、養一氏が「アメリカでAdrian Rolliniと出会い、、、、」みたいな方向に発展していけば、私的には発狂ものでしたが、今のところそういう記述は見つからず。

ただ、平岡精二氏(調べたところ、養一の息子説と、養一が叔父であった説があり、今日のところは分からないと書くしかない)はジャズをやっているし、、、。いやいや、精二氏がインスパイアされたのはMJQだったみたいだしなあ・・・。でも養一だって、あの時代にNYに居たんだから、当然ジャズは耳にしているだろう。もっと調べたら、なんかしら面白い話が出てくるのに違いない!!!

コロンビアの戦前ジャズCDから始まり、こんな意味不明なブログになってしまいました・・・。まあ、いいか。


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トリミング直後のサラ
とってつけたような話題ですが(っていうか、とってつけてますが)、今日は仕事が早く終わったので、既に「レベル4・納豆」に達していたサラを念入りに洗い、トリミングしました。「シャンプー・リンス、コーミング&ドライヤー、カット、耳掃除、あし毛切り」のフルコース。サラもよく我慢してくれたので、今日は特別に「鶏肉と野菜スープ」(←私の手作り!・・・ぷぷぷ、手作り料理を食べる相手が、犬ぅぅ?・・・ぅぅ、いいのっ!)をご馳走してあげました(^^)。めちゃくちゃ喜んで、丸呑みしておられました・・・(汗)

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