BLOG/雑記帳

進行中のプロジェクトの経過報告や、活動の報告、日常感じたことなどの記録です。

中村彝アトリエ

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彝が亡くなった直後に撮影されたとされる下の写真
わずかに左上に照明器具が写っています。

イメージ 1

この広さに電球ひとつですから、むかしの家は暗かったでしょうね。
記念館という施設の性格からすれば、冬の夕方など少し暗いかもしれませんが、
今回あえて、区に了承してもらい、そのままに復元しました。

復元したのはこちら

イメージ 2

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この照明器具、協力してくれたY湖さんがアンティークのネットショップで見付けてくれました。
曲がりなりにも公共工事でネットショップで買って(しかも中古品!)納品するなんて異例中の異例かも?!
まあ、異例ずくめのこの現場、ご笑納ください<(__)>



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アトリエと居間以外には、3畳の和室と台所と便所があったと思われ、このように復元しました。

イメージ 2

この和室、なんだか少し変だと思いませんか?
そう、和洋折衷なのです。


和室は病状の悪化した彝の世話をするために住み込んだ岡崎キイが使っていたので、
「キイの部屋」と呼んでいます。
この岡崎キイという人、土佐藩主山内容堂の側室であったとか(ちょっと脱線)。

間取りは鈴木良三氏のスケッチに見て取れますが、
その後の増築のため取り壊されてその実体は残されていませんでした。

イメージ 1


和室、台所、便所であれば真壁の和風という可能性も高かったのですが、

・残された外観写真の3畳の部屋の窓が洋風上げ下げ窓であること。

イメージ 3

・唯一残されている便所入口の柱の痕跡調査からアトリエと同じ大壁であったことが解り、
洋風大壁として復元しました。

イメージ 4

専門的になりますが、上の写真でチョークで印を付けてあるように、
建具の鴨居が柱に刺さる部分に彫込みがないのです。
このことから便所入口も洋風のケーシングという枠の納まりであったことが推定されました。

その姿が残されていない付属屋の和室、台所、便所に関しては、
このようなわずかな手掛りからの推定復元とならざるをえなかったのでした。
もしかしたら、3畳の部屋はもともと彝の寝室で洋室だったものを、
キイが住み込むことになった時に畳を入れたのかもしれないと推理するのも楽しいもので(笑)。



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昨日にひきつづき、建具の話です。

おもに外回りに使われていて、残念ながら傷みがひどくて再利用出来なかった建具は、
実測に基づき出来る限り忠実に新規に復元しました。


・アトリエ建築の特徴である北側に設けられた大きな採光窓

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これは建具の根継ぎの跡でしょうか?

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大切に使われてきたことが伺えます。
今こんなことをしてくれる建具屋さんいるんだろうか?


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なお、枠のケーシングはオリジナルを残しました。

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・上げ下げ窓には2種類の調整金具が使われていました。

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比較的大きな窓はバランスのおもりが仕組まれたこの方式

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重量の軽いちいさな窓はスプリングで調整する金物

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おもりは制作で造ってもらいましたが、
スプリング式のものは同じ金物が見付からず、
堀金物の上げ下げ窓用のはじきを使いました。


・またおまけ
アトリエを守ってきた鈴木正治氏(吉村順三事務所に勤務)のデザインと思われるこのモダンなデザインの建具は管理棟に復元しました。

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え〜と、前回の投稿が11月8日だからおよそ50日ぶりってことですか、、、。

今回は彝アトリエの再生建具のお話。

使えるものは極力残そうと取り組みました。

・調査して行く中でメンバーに最大の驚きと興奮をもたらしたのがこちら。
オリジナルの庭に面した両開きの硝子戸が場所を変えそれぞれに保存されていたこと。


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両開き扉を改造したものであることが確認され決め手となったのが、こちら

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召し合わせ部分を削り取った痕跡です。

このように再生しました。

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・こちらはアトリエと居間の境の引込み戸。

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枠廻りは再塗装しましたが、こちら穂そのままの再生です。

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動きの悪さもそのままです(苦笑)


彝がペインティングしていたのではないかと噂のあったこちらのドアは、
非破壊のX線による映像診断の結果、残念ながらペインティングは発見されませんでした。

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車いすが通れない幅のため、位置を変え、元便所の扉の位置に保存しました。

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・物入れの扉は寸法が合っていないので、どこかからの移設再利用であったと推測し、
高さが他の建具より高いことから玄関ドアであったのではないかとの推理のもと、
玄関ドアとして再生しました。

イメージ 9

このように再生。

イメージ 10

腰板が割れたままで外が見えると区の担当からは疑問も出ましたがあえてそのままにしました(笑)


・おまけ
オリジナルでは無く、後に増築された和館の建具ですが、これも再利用しました。

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どこに使ったかここでは答えを書かないでおきます。
ぜひ訪ねて見付けてみてください。
(正解しても何も出ませんが(笑)




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アトリエの床も復元に際して悩んだり、いろいろあった部分でした。

解体前の状態はこんなでした。

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安価なカーペットが敷かれ、その下に両面テープで貼られフェルトがすっかり風化してぽろぽろになっていました。


彝と親交の深かった鈴木良三は『中村彝の周辺』のなかで、
「壁は薄いグレー、腰壁やドアは暗緑色、床にはリノリウムの上に赤いタッピーが敷きつめられ」
と、回想しています。(タッピとは絨毯の事のようです)

再び彝の静物画に登場してもらいましょう。

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天然リノリウムの色はこの床の色だったのかもしれません。
なお、大正5年当時リノリウムは日本では生産されていなかったようで、輸入品と思われます。
(現在の東リ、旧東洋リノリウムの創立は大正8年)


床の下地の板をよく観察すると、

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釘の頭が上に貼る仕上材に影響しないように板を彫込み埋め込まれています。


また、板には絵の具が残り、使い込まれた色をしています。

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このアトリエを引取り大切に使った鈴木誠も画家でしたので、その後長らくこの下地板のままで使われたと思われます。


さて、復元に際し、静物画の色に近い天然リノリュウムを貼る事もひとつの選択肢ではありましたが、
歴史の証人としてのこの下地板をそのままに復元する事にしました。

一枚一枚番号を振り、解体。

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この当時の製材技術では、現在のように均一な厚みの板になりませんでしたので、床を支える角材に当たる所をチョウナという工具で一カ所一カ所厚みの調整をしながら貼っています。お解りになるでしょうか?


そして復元したのですが、ここで大問題が発生!!

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両面テープを剥がすためにこんなになってしまったのです(泣)

仕方なく、柿渋に松煙を混ぜたもので、設計者自ら補修しました。

イメージ 8

どうです、うまいもんでしょう?
これも日頃の鍛錬の賜物(うそです)
こんな時はプロがやると均一になり過ぎて、
素人のむらむらがかえって良いのです(笑)




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