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「死」について深く考えさせられるできごとが、私の身近ではとても多いな〜って気がする。
肉体が亡くなって、魂が天に帰ることが「死」の意味なのだろうな、と淡々と思う。
「死にたい」と思ったことがないわけではない。
何度か思ったことがある。 でも、いつでも死ねる、と思ったらバカらしくなって、また頑張ってみようかな、と思ったりしながら過ごした思春期の頃
なぜ、死にたいと思っていたのか?・・・知りたい人は個人的に・・・
まず、
小学校の頃、大好きだった祖母が、肺結核で亡くなった。
厳しかった両親に叱られているのを、唯一止めてくれ、慰めてくれた優しい祖母だったが、身体が弱く、ある日床に着くようになり、
「お婆ちゃんの部屋には入るな」と言われた。
こっそり、入って遊んでいてとても叱られたことを覚えている。
そのうちに、石川療養所に移されて、数回お見舞いに行ったのを覚えているが、長居はできず、祖母はひとりぼっちでさぞ淋しかっただろう、と、今になって思う。
ある朝、電話が鳴り、食べ物を喉に詰まらせて亡くなった知らせを受け、祖母は家に帰ってきた。 「おばあちゃん」と呼んでも目を開ける気配もなく、色白の痩せこけた顔は穏やかで、口と耳と鼻に綿が詰められていた。
7歳の私は、これが、「死」というものなんだと、小さいながら思っていた。棺おけの祖母の顔の周りに花を入れて、わーわー声を上げて泣いていた。
淋しかったからでも悲しかったからでもなく、今まで生きていた人が「動かなくなったこと」に対する恐怖、「死」の怖さ故に泣いていたのを鮮明に覚えている。
そして、お向かいのよく遊んでくれたお姉ちゃんの死、母方の祖父の死、父の死、祖父の死、伯父の死、友達の死、娘の死、娘の友達何人かの死、ご近所の子の死、親戚の人の死、お隣さんの死、・・・・。
特に、娘の「死」の後は、引き続き死んで行く子どもたちを見ているうちに、「死」という思いが「辛い」ことに麻痺をしてしまったような感覚だった。
感覚を麻痺させなくては、日常生活が送れない状態になることを脳は自然と察していて、「死」というものに対する感覚を麻痺させた。
死んでゆく仲の良かった子どもたちを見ても涙さえ出なくなっていた。
まるで、戦場で次々と人が死んでいくのを見ている感じに似ている。
人間はいつ死を迎えるかわからない。
アンビリーバボーな事故に遭ったとき、「まだ、死んだらいかん!」って言われて奇跡を持って生かされたから
だから、神様から「生きていなさい」といわれてる間は、自分にできることを精一杯やって、人のためになることもしたい、自分が生きていた証を少しでも残しておきたい、そのために何ができるかな、時間がないな〜って思ってしまう。
ほんとはいつ死んでもいいんだよ私。。。
あ!ダメダメ、せめてお部屋を綺麗に片付けてからにします ^^;;;;
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