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未知への開拓と邂逅(中橋先生へ捧げる)
鉢盛郷土考古学研究会 代表 佐藤 洋
私たちが中学二年の秋頃に発足した鉢森郷土研究会は郷土である白石に於ける遺跡の調査ならびに遺物の表採を目的に始まりました。 私は小学校時代から歴史に興味を抱いており、中学校入学と同時に地元の歴史を研究したいという思いで白石城に関する歴史研究をする事に始まりました。 そんな中、未知の歴史、想像もつかない過去への興味が湧いた切掛けともいえる体験をしたのが社会クラブでの体験調査で後に我が会の師となる相原淳一氏に出会い、遺跡踏査に同行して白石市八宮地区の大網遺跡及び白石深谷地区の高野遺跡の踏査がきっかけになったのです。 初めての遺跡調踏査は私にとっては忘れられない体験となりました それ迄好きだった歴史はある程度の資料や逸話、伝説によって自分なりの解釈で想像をしていました。 けれどこの縄文時代という、教科書ではたった一頁で終わってしまう歴史なのに実は想像を超えるような悠々と流れた時代ではないかと感じた私は早速、会員の総入れ替えを行ないこの研究を実らせたいと思ったのです。 ある程度歴史認識と理解力を持ち、自転車による踏査活動に於いて行動力のある人材を探し社会の試験の成績で特に優秀だった小熊充氏を迎え、さらに彼の盟友である高橋正弘氏を迎えて三名での活動が始まりました。 研究会の名前は三人の地元である白石市大平地区にある鉢森山から名を取り、鉢森郷土研究会と命名して始まりました。 昭和50年代半ば白石市史別巻と国土地理院の地図を片手に毎週深谷地区さらには蔵王町への踏査活動、情報収集に関しては定期的に相原氏宅と白石市教育委員会の清野氏を何度も訪れ、丁寧な指導、教育さらには資料の提供を受けながらメンバーも一時期は十名まで増えるなど、今考えれば中学生の範疇を超える状況と思える程、精力的に活動していました。 この頃白石市史別巻で知った片倉小十郎景綱の子孫である片倉信光氏宅にも何度か訪問して当時の踏査経験を報告し郷土の歴史を教えて頂いたとともに会の名前も新たに鉢盛郷土考古学研究会と命名して頂きました。 その精力的な活動もいつしか受験という壁から序々に参加率が落ちて公式の最後の活動は中学三年生の秋頃に、七ヶ宿ダムの建設により水没する小梁川遺跡の発掘の現場説明会の見学でした。 再開したのは高校入学後、相原淳一氏、菊地逸夫氏、阿子島 香氏が築いた社会部の活動が途絶えていた為、後に顧問となる八巻先生や和泉校長のご理解をいただき、文化部では当時認められなかった合宿の許可を得て、二度の合宿行い調査活動をするなどして、社会部を復活させました。 その活動から当時相原氏が計画していた「赤い本」での発表の場を与えて頂きさらには下川原子A遺跡での整理を依頼された我々はそこではじめて中橋 彰吾先生と出逢いました。
中橋先生は無知な中学生である私たちに対してとても親切に教えてくれました。 歴史に興味を抱く少年らを大らかに受け止めてくれる人でありました。
下川原子遺跡の遺物の整理、拓本まで丁寧に指導して頂き高校一年の夏にはその論文の載る「赤い本」へ自分たちの研究成果を発表する場も与えて頂くなど相原氏と中橋先生へは大変感謝しております。 しかし私たちも再び受験、就職という壁にあたり考古学研究を封印してしまいました。 その後25年という紆余曲折を経て活動再開したもののブランクの空いた状況の中、相原氏との繋がりがとれないと挫折しておりましたが不思議な事にふと中橋先生であれば教えて頂けると思い古いメモを見つけ連絡をとりました。 二十五年振りに電話で会話した中橋先生はしっかり私の事も覚えていてくださり「相原君のところでやっていた佐藤君だね、覚えていますよ。」この言葉は大変有り難い物でした。 こうして相原氏への連絡先を教えて頂き会員とともに再開できたわけです。 再会のない邂逅,,,,,,
電話で話したその2ヶ月後亡くなられた事を昨年末に逢った相原氏から訊いて動揺を隠し得ませんでした。 これも何かの因果関係による繋がりによって私たちは考古学研究を再開出来たと思います。 人生の節目に出逢えた事に感謝します。
先生!僕らは最後の貴方の弟子であり考古学探求者でした。
今後も私たちは専門家としてではなく純粋に研究者としての未知への歴史を想像し続け素直な見解をして行こうと思います。 先生、最後にありがとうございました
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