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昭和55年4月 社会クラブの一環で白石城研究会を発足。
メンバーは佐藤 洋、佐藤 文弘、佐藤 繁の三人で始まる。
同5月 社会クラブの森谷氏の紹介で相原 淳一氏と出逢う。
社会クラブの面々と相原氏とで白石市福岡深谷地区八宮地区の高野遺跡、大網遺跡での表採活動を行い縄文を初めて採集する。 佐藤庄吉氏の縄文土器収納館を訪れ以後何度も足を運ぶ
同7月 村上克彦氏と深谷地区の高野遺跡を再び訪れ縄文時代の研究を改めて始める決意をもつ
同8月 再び相原氏付き添いにて槻木地区の貝塚を踏査。
同9月 9月15日メンバー再編で小熊 充氏と高橋正弘氏を迎え鉢森考古学研究会と名付け活動を始める。 深谷地区の遺跡、高野、上高野、三本木、荒井遺跡を踏査する。
同10月 深谷地区をメインに白石市史別巻を元に30箇所の遺跡を訪れ表採活動を行い文化祭にて成果を発表する。 この頃は相原氏宅を頻繁に訪れ文献を借りて学んだり教えをいただいた。 また白石市役場の教育委員会の清野氏にも放課後遺跡地図など観覧させて頂いた。 白石城主の片倉故十朗景綱の子孫である片倉信光氏宅を訪問し、活動内容を説明、採集遺物を拝見させてもらうと共に会の名前を旧名の鉢盛山からとって鉢盛郷土考古学研究会と命名していただく。
同11月 二泊での遺跡調査を計画。大網地区と三住地区へ自転車での踏査活動を行う。
メンバーは三人の他に片岡 剛氏、日野 勝則氏を迎えて行なった。 この時の成果は未登録の遺跡を見つけた。 (仮)二ノ萱遺跡、採集遺物から縄文早期後半と前期の遺物が採集された この後メンバーが増えた。 最大12名
同12月 室内での研究が主で役場と相原氏宅を訪れた
昭和56年1月 観音崎遺跡の踏査活動
同2月 斎川地区の遺跡踏査、深谷地区の青木遺跡の踏査活動
同3月 学級編成により活動一時休止
同8月 大鷹沢の小菅遺跡を集中で踏査活動(佐藤)
同10月 高橋と佐藤が深谷地区の上高野遺跡の集中踏査活動。
同11月 薬師堂遺跡の踏査活動。
同12月 個別の遺跡踏査活動が続き受験時期という事もあり全体の活動停止
昭和57年3月 佐藤が福岡地区の蔵王開拓F遺跡より鵜ヶ島台式土器を採集する。
同4月 高校へ入学から再度、会の活動再開はじまる。高橋は違う学校の為予定があわないこともあったが小熊と佐藤はこの時期から踏査計画を練る
同6月 佐藤と小熊が白石高校の郷土研究部に入部する。
同7月 蔵王開拓F遺跡へ小熊と佐藤が踏査する。この時期現場がバンガロー建設によって大きな破壊を受けており貴重な遺物を採取することとなる。
同7月 横川地区へのキャンプの際に七ヶ宿の遺跡を踏査。
相原氏からの依頼にて初めての踏査活動の発表の場を与えて頂くことになり同人誌『赤い本』へ載せるべく執筆活動を夏休みをかけて作成。 相原氏の指導のもと完成に至る。
同8月 夏休み中に3度くらいの踏査活動 片倉信光氏に赤い本のタイトル文字を依頼する。
同10月 赤い本〜民間考古学の可能性〜出版
昭和57年
同4月生徒会へ郷土研究部の夏の合宿の申請をおこい予算を検討してもらう。
一時は許可が下りなかったが活動内容を理解してもらい許可がでる。
同8月白石高校郷土研究部で初の合宿。 高橋氏が発見した白石の牧場遺跡への自転車での踏査を部員で参加。 翌日槻木地区へ電車で移動徒歩にて貝塚郡を調査活動する。
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