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一年後、サラッケスは逝去した。彼はオリルシウスに自分のすべてを伝えるべく、最後まで生きようとした。オリルシウスもそれを受け、昼夜を問わず学問に励んだ。
「オリルシウス、お前はもう一人前だが、学者としてはまだ半人前だ。お前は学ぶべきことがまだたくさんある。終わりなく学問に励むのだ、愛すべきわが弟子よ……」
これがサラッケスの、生涯ただ一人の弟子に向けた、最期の言葉であった。
オリルシウスはその言葉に従い、師が居なくなった後も独学で学問を続けた。彼が学んだのは数学や基礎化学、青銅の製錬法、占術学、そして天体の動き、星の読み方、暦の決定などと様々なことに及んだ。それらはすべて師が弟子の為を思って伝えた、彼が生きる為の知識であった。
サラッケスはオリルシウスに多数の本を遺していった。オリルシウスはその本を頼りに知識を深めていったが、その中でも天体の観測記録について特に深く興味を持った。
その記録はサラッケスが彼の師であるアリスタルコスの説を証明しようと、長年蓄えてきた記録であった。オリルシウスはそれを読んで、かつての師が「太陽や月、そして星々は地球を中心に回っている、と人々は考えている」と言っていたことを思い出した。その時のサラッケスはいつもと違い、歯切れの悪そうな口調でそれを話していたのだ。
「地動説」は人々に受け入れられなかった。なぜなら、「天動説」の方が簡単で、わかりやすかったからだ。一部の学者はその可能性が十分にあり得ることを理解はしていたが、それ以上追及することはなかった。サラッケスは自分の師であるアリスタルコスの説を証明しようと、今まで密かに研究を続けてきたのだ。
オリルシウスはサラッケスに何も恩返しができないことを悔んでいた。そのような時にこの観測記録を発見したのだ。記録の冒頭には「生涯をかけて師の名誉を守る」と書いてあった。彼はこの研究を完成させることが師への恩返しに繋がると思った。
それからの彼は、青銅製錬師、暦師としての仕事の傍らに師の研究を引き継ぎ進めた。師と同じだけの知識を得るのに三年、師の研究を読み解くのにさらに三年の年月をかけた。さらに年月を費やし、師の研究を完成させた時、オリルシウスはサモス島の者だけでなく、近隣の島々の者にも慕われる一人前の学者になっていた。
彼は研究の内容を三人の連名で纏め、アテネの学院とアレクサンドリアの研究房に船便で送った。この研究が認められれば、学者達はその新たな可能性に仰天し、その発見者を称えるだろう。そうすればアリスタルコス、そしてサラッケスの偉業が学者達に認められることになる。それこそがオリルシウスの悲願であり、サラッケスへの恩返しになるのだ。
船便は時間が掛かるし、研究論文も様々な学者によって精査されることとなるだろう。オリルシウスは気長に返事を待つつもりであった。暦の上から見れば、半年も一年もさほど変わりはしまい。
しかし、その返事はオリルシウスが思ったよりも早く返ってきた。アレクサンドリアの研究房からだ。
「敬愛なる学士オリルシウスへ。貴殿の観測は綿密であり、またその考察も理に適ったものであった。しかしながら、地球は太陽の周りを回っているという説は根拠も未だ乏しく、突拍子もないものである。貴殿は天体に目を向けるあまり、大地を観測するのを忘れておいでのようだ。今一度、空を見上げ、大地を見下ろすことを学者の同志としてご忠告申し上げる」
彼はその文を見て愕然とした。かの大図書館を有する知識の都、アレクサンドリアにおいてしても天文の何たるかを見誤っていたのだ。もう一方の返事も待ったが、結局アテネの学院は返事の一つも寄こさなかった。
彼の研究の道はそこで途絶えたのであろうか。学者どもに師の偉業を認めさせたくとも、オリルシウスと学者どもでは立つ次元からして違うのだ。
オリルシウスは失意のあまり、地動説の立証を諦めてしまった。
(師よ、あなたの弟子はできうる限りの研究をいたしました。しかし、それでも人々の愚かしい先入観を覆すことはできませんでした。師の名誉を守ることができなかったのです。もう生きる価値すらもない私ですが、私が居なくなったら島の人々が困ります。生き恥をさらすことがこれからの私の一生なのでしょうか)
「先生は何故、先生の生涯をかけるとまで言われた研究を諦めてしまわれたのでしょうか?」
失意に暮れるオリルシウスに一人の弟子が尋ねた。彼はサラッケスとは違い、自分が居なくなった時のため、また研究の助手として弟子を数人採っていたのであった。彼は弟子に師の業績、そして師への恩義の重さを話した。彼の研究が学者の誰からも相手にされなかったことも。
「お言葉ですが、まだ諦めるには早いのではないですか?」
弟子はオリルシウスに言った。
「気持ちは嬉しいが、私にはどうしようもないよ。知識も足りないし、研究も師が纏めていたものにわずかな言葉を足して、体裁良くしただけのものだ。私にはもう何もできない」
「先生は思い違いをしております。先生の夢は研究を学者に認めてもらうことではないでしょう。大切なのは先生の先生が偉大であったことを皆に広く伝えることです」
さらに弟子はオリルシウスを説いた。
「先生は私にこう教えてくださいました。『縦に高く、横に長い巨大な板塀があったとしても、真横から眺めればただの高い棒にしか見えなくなる』と。暦師たるもの様々な角度から暦を読み解くべきだ、と。先生はそれを忘れておいでではないでしょうか。目的と手段をもう一度見つめ直し、真横から物事を見るべきです」
彼はその言葉に目を覚ました。そして師の今わの際の言葉を思い出した。「お前は学ぶべきことがまだたくさんある。終わりなく学問に励むのだ、愛すべきわが弟子よ……」
「ありがとう。私は師の言い付けに反してしまうところだった。師は『生涯をかけて師の名誉を守る』と誓ってみせた。私もできる限りのことをしてみるよ。君の先生として恥じることのないように」
それからオリルシウスは考えた。どうしたら師の偉業を皆に伝えることができるのか。自分にできることは何か。詩人のように詩を歌うことはできない。神官のように伝記を綴ることもできない。自分にあるのは天文の知識と、青銅の加工技術だけだ。
〜続く〜
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