北永劫回帰線

かつて我々は精神であった。ところが、今や我々は欲望である。

「パソ街!」96―100

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(九十九)

               (九十九)

 いよいよ私の個展が始まった。中国で歩数を数えている老先生の

一文が、それは雑誌に載った私との対談の記事が短かすぎて、仕方

無く空いた頁を埋める為に載せられた、その一文が人気を呼んで個

展は盛況だった。その一文の中で、老先生は私を「逆光の画家」と

呼んだ。

「ホームレスという逆境の中から独自の画風を掴み取り、まるで絵

画の技法に逆行する大胆なコンポジションは、将に『逆光の画家』

と呼ぶに相応しい。」

 私が酔っ払って汚した箇所を仕方なく墨で塗り潰して、逆光に翳

る建物のシルエットに誤魔化した、左半分が真っ黒の絵画が、何と

っ!斬新だと絶賛されていたのだ。ところが、女社長は間違ってパ

ンフレットに「逆境の画家」と書いた為、私はギャラリーから執拗

(しつこ)くホームレスの時の事を聴かれてウンザリした。

 それでも、老先生が名付けた「逆光の画家」は、私が悩んでいた

技法に大きな順光を与えてくれた。つまり、遠近法は近くが良く見

えて遠くなるにつれて見え難くなる。ところが、逆光は近くのオブ

ジェに反射する光が少ない為に色彩を奪われるが、離れるに従って

輪郭より反射した光で色彩が甦ってくるのだ。つまり、遠近法とは

逆行した光の法則で描けないだろうか。私はこの逆説的な「コンポ

ジション」の発見に飛び上がるほど歓喜した。私はもう個展どころ

では無かった。更に、女社長への想いすら忘れてしまった。私は今

すぐにでも部屋に閉じこもって画を描きたくなった。

 私と女社長は、老先生の留守の間ほとんど毎夜逢っていた。そ

れでも老先生の部屋があるホテルでは、さすがに人目を気にして

連れだって歩くことは無かった。私は彼女には言わなかったが、

老先生に対する後ろめたい気持ちが次第に頭の片隅を過ぎって、

黙り込むようになった。二人でいる時には老先生の話しを避ける

彼女も、恐らくそう思っていたに違いなかった。本能では許し合

えても、互いの理性には越えられないわだかまりがあった。

 私の個展は老先生の威を借りて盛況のうちに終わった。女社長

に呼ばれて何度も高名な画家に紹介されが、彼らは明らかに老先

生が目当てで、老先生が居ないことが判ると記帳を済ませて、展

示の前を足早に回ってからサッサと立ち去った。私はそういう人

たちに励まされる度に、自信を失った。それでも女社長は画商と

しての如才無さを発揮して、

「おめでとう、完売したわよ。」

そう言って私の両手を握ったが、私は訳の解らない屈辱感に苛ま

れていた。果たして、画家というのは絵画が売れるということを

どう理解すればいいのだろう。私は自分の絵画を買った一人一人

に、どうして私の絵画を買ったのか聞きたかった。描いた本人が

そんなことを言うのもなんだが、素直に私の絵画の価値を認めら

れたとは思えなかった。今や絵画は絵画本来の価値では無く、画

家には到底理解出来ないことだが、社会的な付加価値によって買

われている。そしてそれは芸術家の独立した精神を堕落させた。

更に深刻なのは、芸術家がその精神を大衆に売り飛ばしたことだ

。もはや芸術は大衆に媚びる淫売に身を落とした。私が言うのは

間違っているかもしれないが、芸術が失ったのは「独立した精神」

ではないだろうか。

 老先生への感謝と関係者への労(ねぎら)いをスピーチして打

ち上げパーティーが始まったが、私は緊張から解放されて乾杯の

シャンパンだけで酩酊した。

 目が覚めたらまたも老先生のベッドの上だった。私は寝返りを打

ってベッドの横のデジタル時計を見た。08:43、もう朝だった。

女社長は息子の支度で家に帰ったに違いない。私は再び寝返りを

打って天井を見つめながら昨夜の事を思い出そうとしたが、画廊

での打ち上げの後の映像を再生することが出来なかった。しかし

、女社長の「しっかりしてよ」と「ちゃんと歩きなさい」という

言葉だけは何故か録音されていた。上半身を起こすと、スーツの

上着が脱がされネクタイも解かれていた。ベルトは緩められてい

たが、ズボンは穿いたままだった。ネットカフェ以来のだるい目

覚めが不快だったが、それは動物的な反応でまだ感情は眠ったま

まだった。私は躊躇わずに大きな音のだらしない放屁をした。そ

して、

「そうだっ、」

「逆光の近遠法」だ。私は老先生の言葉から閃いた技法を、そう

タイトルを付けファイルして頭の中の「絵画」の引き出しの一番

大事な場所に優先番号①と書いて置いてあった。それを思い出し

て立ち上がった。

「画を描かなければ。」

私はバスルームへ入って用を足し、それから顔を洗い終えると

シャワーを浴びたくなった。バロックから借りてる部屋には浴室

が無かった。シャワーを浴びると眠っていた感情も目覚めた。バ

スタオルで頭を拭いていると、インターホンが鳴った。私は女社

長が戻って来たと思い、バスタオルだけを腰に巻いて疑いもせず

にドアを開けた。するとドアの前には中国を散歩している筈の

老先生が怪しいマスクをして亡霊の様に立って居た。

                                  (つづく)

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