北永劫回帰線

かつて我々は精神であった。ところが、今や我々は欲望である。

「パソ街!」96―100

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(九十七)

                  (九十七)




 私はメールを返した。

 「過去のパラダイムシフトは、明治維新では封建社会が終って

文明開化し、戦後は軍国主義が敗れ民主主義がもたらされた。い

ずれも不安があったが次の明るい時代を展望することができた。

ところが、今の温暖化問題はCO2を削減し消費を節約して環境

を元に戻そうという実にネガティブな話しである。単にダウンサ

イジング(使い方間違ってる?)を迫るだけではモチベーション

が起きない。あんたが言うように、人の意識がチェンジしなけれ

ばパラダイムシフトは生まれないかもしれない。しかし、新しい

時代を受け入れるには何らかのインセンティブが無ければ人の意

識は変わらないのではないだろうか。つまり、パラダイムシフト

が文明『退化』をもたらす様では人はポジティブに為れないと思

う。華やかな祭りの時代の幕は引かれた。我々はここを立ち去ら

ねばならない、ただ何処へ向かえばいいのか解らないのだ。」

 しかし、私はそんな事はどうでもよかった。パラダイムシフ

トも、経済危機も、北朝鮮のミサイルが飛んで来ようとも、ただ

頭の中は女社長の甘い言葉だけがリフレーンしていた。

「会いたい。」

私はこの三日間、上の空で描いていた画を早々に諦め、握り締め

ていた筆を放り投げて部屋を出た。もう昼を過ぎていた。大通り

でタクシーを止めて座席に飛び込んだ。するとドライバーが、

「都心は入れないっすよ。」

「えっ!何で?」

「あれっ、知らないんですか、マラソン。」

「あっ!今日?」

知ってはいたが今日だとは思わなかった。仕方が無いので最寄の

駅に行ってもらい電車で向かうことにした。

 大体、3万5千人もの人が一体何の為に一緒に走るのだろうか

。42キロも走ることがとても身体に良いとは思え無い。そんな

に走りたければそれぞれで走ればいいことではないか。首都機能

を止めてまですることなのか。人でごった返す電車に乗ってから

老先生の言葉を思い出した。

「ただ走る為に走るのは実に虚しい。」

「あっ!そーかっ、それで皆で一緒に走るんだ。」つまり、走る

ことが目的では無いのだ。皆と一緒に走る事が目的なんだ。殺伐

とした競争社会で、孤立した人々が社会との紐帯を確かめる為に

皆で一緒に走るんだ。ランナーにとって「走る」という個人的な

運動も、やがてその目的を見失い社会の共感を求めようとする。

「走る」ことはすでに個人的な目的では無いのだ。それは皆で一

緒に行うラジオ体操のようなものだ。私は、この国を象徴するも

のを一つ挙げろと言われれば、間違いなく「ラジオ体操」を挙げ

る。身体を解(ほぐ)すという極めて個人的な動作も、やがて組

織化され全体との協調を強いられ、本来の個人的な目的は失われ

る。我々は個人のことまで社会に委ねすぎてはいないだろうか。

個人を苦しめる競争は個人の社会性が創り出したのだ。我々は

この個人と社会の間に在るメモリーを見直すべきではないだろうか

。個人が耐えなければならない事を社会に委ねてもどうにもならな

い事がある。

 「ただ生きる為に生きるのは実に虚しい。」

しかし、社会と共感したからといってその虚しさが無くなる訳では

ない、ただ、紛らわしているだけだ。私は、虚しさに耐えられない

自分に言い聞かせた、
     
     自分の虚しさくらい

     自分で始末しろ

     ばかものよ

 

 東京マラソンは地方から多くの人が来て、地下鉄の駅も普段と

は違って華やかな格好の人々で混雑していた。彼らの健全なスポ

ーツ精神の前では、私の邪(よこし)まな欲望が情けなく思えて

きて、すぐ近くの出口から地上に出た。しかし、そこは全く見覚

えの無い場所で、しかもマラソンコース横の歩道に出たらしく、

3万5千人の中から顔見知りを捜そうとする応援の人々でごった

返していた。私は女社長の居るホテルの方角を確かめてから、応

援する人々の邪魔をしながら向かったが、今度はマラソンコース

が邪魔をして向こう側へ渡ることが出来なかった。仕方無く来た

道を引き返して、再びさっきの入口から地下を通って対岸を目指

すしか無かった。入る前に大きく息を吸い込んでから、人熱れ(

ひといきれ)する地下迷路に潜った。しばらく進むと何事が起き

たのか、あらゆる出口から一斉に群衆が押し寄せて来て危うく人

の波に溺れるところだった。誰かが雨が降ってきたと教えてくれ

た。混雑に行く手を阻まれて目指す出口を見失いながらも人波を

掻き分けて、やっとのことで目的の出口に辿り着いて岸に這い上

がったが、そこは目指していた道路の向こう岸では無かった。

「あれっ?」

雨に打たれて途方に暮れていると、K帯が鳴った。女社長からだ

った。気が付かないうちに約束の時間が過ぎていたのだ。私は顛

末を説明してから必ず行くからと説得した。ただ、もうあの複雑

な地下迷路には一生入らないと決めていたので、彼女の元へ辿り

着く方法は一つしか無かった。私は、ガードレールを跳び超えて

3万5千人のランナーが引きも切らさず通り過ぎるマラソンコー

スへ侵入した。近くに居たギャラリーは騒いでいたが、私は女社

長の元へ行く事しか考えていなかった。ランナー達は疲れている

にも拘わらず私に罵声を浴びせた。それでも私は止めずに、向か

ってくるランナー達にぶつかりながら激走した。そう!私はマラ

ソンコースを逆走していた。ヨレヨレのランナー達をステップを

踏んでかわし、気付いた係員等が阻止しようとしたが、クリステ

ィアーノ・ロナウド並みのフェイントですり抜け、彼女が待つホ

テルを目指して激走した。私は、彼女にGOOOOOOOOOO

OOOOAL!を決めたかったのだ。次から次に現れて私の邪魔

をするランナー達が私の彼女への想いを更に頑固なものにした。

そして、全力で走ることがそれまでの憂鬱な感情を忘れさせ爽快

な気持ちすら覚えた。顔を打つ雨さえ心地良く、私は、もしも機

会があればこの次はちゃんとマラソンを走ってみたいと思いなが

らマラソンコースを逆走した。

                                  (つづく)

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