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(八十八)
ロビーを行き来する着飾った人々を、私は防犯カメラの様に虚
しく眺めて居た。テレビで見覚えのある人が何人か通り過ぎた。
彼等の服装は一般に紛れようと心掛けていたが、どこかに人に気
付いてほしい思いもあってそれが返って目立った。この頃はやた
らと人の存在感を云々するが、それは畏敬や好意を持って見る者
の意識がそうさせるのだ。本当に優れた人は「オーラ」などとい
った怪しいものは出さない、ただ優れているだけだ。とその時、
襟元にファーが付いた黒っぽいロングコートの女性が、特異な「
オーラ」を発して現れた、女社長だった。
「待たせたわね。」
確かに。ただ、これだけ待たされると怒りが不安に転じ、遂に彼
女が現れた時には安堵の気持ちに変わってしまった。彼女は遅れ
た言い訳をして私を宥(なだ)めた。そして腰を下ろす前に、私
と交わした契約書のコピーをテーブルに置いた。そこには、私が
守らなければならない箇所にマーカーが記されていた。私は仕方
なくそれを手に取って眺めた。
「断りもなしに勝手に画風は変えられないのよ。」
彼女はそう言った。契約書には細かい約束事が書かれていて、確
かにそう為っていた。
「どうも、すみません。」
とは言ったが、実は私はもう高層ビルを描く事に飽き々々してい
た。ちょっとした思い付きから描き始めたが、描いていて全くお
もしろく無いのだ。東京中のビルを探して歩いたがもう関心が湧
かないのだ。無駄を排した高層ビルの機能性は、同時に人の感情
も排除するかのようだ。絵にしたいと思わない街とは果たして楽
しい街なのか?私は東京という街の本質的な欠陥を知った。つま
り、無駄を欠いてるのだ!まるで乗るあても無く紛れ込んだ新幹
線のホームのように、目的を持たない者は冷たく拒絶される。新
幹線の駅は新幹線に乗る人の為に機能するように、東京という都
市は何らかの目的を持った人の為に機能する手段なのだ。目的な
どは何だって良いのだ、起業家でも政治家でも詐欺師でも作家で
もペテン師でも、目的さえあれば励ましてくれるだろう。しかし、果た
して我々は目的を持った正統な存在なのだろうか?ひとたび生きる
目的を見失って立ち止まると、この街の機能的な手段は意味を無く
し、何と殺伐とした街に思えてくることか。かつて励ましてくれた高層
ビルも係わる事を拒むかの様に無愛想に聳え立っていた。
「もう、描けないんです。」
彼女は無言だった。
「個展が終わったらすこし休ませてくれませんか。」
私はか細い声で訴えた。
女社長は席を替えようと言ってエレベーターホールへ向かった
。私は彼女の後を臆病な犬のように辺りを確かめながら続いた。
恐らく私の尻尾は警戒心から股間に仕舞われていたに違いない。
ドアが開いた所は東京の夜景を見渡せる高層階のバーだった。派
手なシャンデリアや高級なインテリアに圧倒されてたじろいだ。
しかし、眼下には多くのホームレスが集って年を越した公園があ
った。木陰から漏れるブルーシートの小屋の灯りや、外灯の下で
寒さを堪えて佇む人々に見入ってしまった。
「気になる?」
「あっ!いいえ。」
ホームレスを見下ろす高層階のバーはまさに格差社会の象徴だっ
た。貧困の忌避からより高く離れたいと望み、此処までは来れま
いという安心と同時に、それでも地に足が着かない不安が残る。
そしてその安心と不安が更に地べたの暮らしから逃避させる。
人は地面から離れるほど鳥のように高慢になるに違いない。
彼女は「いつもの」とオーダーしたが、私は「いつもの」酎ハ
イを注文する訳にいかずに途惑っていると、彼女が代ってブラン
デーをオーダーした。彼女は私の正面ではなく横に居たので、私
は常に彼女の横顔を目にしていた。それは宮永武彦の美人画のよ
うに、つんと伸びた鼻筋や細く長い首が美しかった。私は美人の
条件は絶対に横顔にあると思っている。否、私はただ鼻の高い女
性に弱いだけかもしれない。カメラが出来てから我々は当たり前
のように人の顔を正面から見るが、それは随分大胆なことで、そ
の人格と向き合い様々な感情を読み取ろうとする。エジプトの壁
画に描かれている人は何故横を向いているのか?それは、見る
者にそういった感情を与えない為ではないだろうか。あの壁画の
作者こそが第三者に徹した人類最初のジャーナリストかもしれな
い。
「お休み、いいわよ。」
彼女は「いつもの」シャンパンを飲み干して、私を見ずにそう言
った。グラスを傾け顎を上げた首筋が、さらに細く伸びて食道を
落ちるシャンパンの流れが分かるほどだった。私は喉の渇きを
癒す為に一機にブランデーのグラスを空けて、咽(むせ)てしま
った。
ジャズのライブが始まった。女社長はさっきからフランスでの
見聞録を語っていた。私は慣れない世界での緊張が限界を超えて
、空腹に垂らし込んだ飲み慣れないブランデーの所為もあって、
ついに脳が私を見放した。誤操作によって変換がおかしくなった
PCのように、彼女の言葉が訳の解らない記号のフォーマットの
羅列のように聞こえた。それでもジャズの演奏は心地よかった。足
下ではホームレス達が飢えと寒さに耐えていた。私は戦地から奇
跡的に生還した兵士のように感謝の気持ちから泣き出してしまった
。それを見て女社長は私が怪しいことに気付いた。
「ちょっと!酔っちゃったの?」
思春期の頃、早朝の微睡(まどろみ)の中で何度か夢精をした
。夢の中で、好きな同級生の娘と抱き合って、雑誌に載っていた
「こうすれば彼女はとろける!」というテクニックを駆使して快楽に
導き、いざ本番という時になって、その娘の股間には肝心の性器
が見当たらず、のっぺらぼうだった。私は驚いて目が醒めた。童貞
の私は大人の女性の性器を見たことが無かった。つまり、私の記
憶の中に女性の性器の情報が無かったので、夢の中の彼女をの
っぺらぼうにさせてしまったのだ。それからは必死に為ってアダル
トビデオを漁ったが、「薄消し」とか「ほぼ無修正」といったサブタイ
トルに随分騙されて、結局モザイクの壁を超えられなかった。やが
て学校を出て職場の年上の女性と付き合ったが、それは愛とか恋
とかで無く、ただただ性的好奇心だけだった。「そんなに見ないで
よ。」と言われるほど思春期の恨みを晴らしてやった。
気が付いたのはホテルのベットの上だった。サイドテーブルの
照明だけが怪しげに燈っていたが、他に誰も居なかった。何故そ
こで横たわっているのかさえ全然覚えが無かった。私は身体を起
こしてしばらく記憶を辿った。それから堪らなく喉が渇いたので、
水を飲む為にバスルームへ行った。ドアを開けると、女社長がシ
ャワーを浴びていた。
「あら、酔いが覚めた?」
「・・・!。すっ、すみません!」
私は慌ててドアを閉めた。
(つづく)
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「パソ街!」86―90
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