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(八十二)
私は、間近に迫った個展の為にバロックのメールに付き合えな
かった。二十号の絵はほぼ完成したが、その間に画廊の女社
長が仕組んだ雑誌のインタビューを、あの高名な評論家から受け
なければならなかった。私は仕方なく宇宙服に身体を入れて、女
社長から貰った赤地に筆で墨を引いた様な頼りないストライプの
ネクタイをして、例の宇宙ステーションホテルへと向かった。そし
てホテルのラウンジで女社長と待ち合わせて客室に入った。女社
長は私のネクタイに気付いたが「似合わない」とは言えなかった
。しばらくすると先生が現れて、私は早速立ち上がってホテルで
の無礼を詫びた。老先生は「なぁに!」と言って手を振った。同
行して来た出版社の一人が、誌面の都合上すべてを記事にしない
旨の断りをしてからテーブルに置いたレコーダーをONにした。
そして、
「先生、フランスですごい人気だそうですね。」
と会話の糸口を開いた。私は「先生」などと呼ばれたことが無か
ったので、てっきり老先生のことだと思い黙っていると、気付い
た老先生が「君のことだよ」と無愛想に教えてくれた。私は慌て
てしまい、初めて「先生」と呼ばれたので自分の事だとは思わな
かったと弁解すると皆が笑った。そして私も連られて笑うと、も
う一人のカメラマンが私の笑い顔をすかさず連写した。私は前回
の失敗に懲りて気後れだけはしまいと自分に言い聞かせていたが
、自分の笑い顔が雑誌に載ると思うと落ち込まずにはいられなか
った。というのは、子供の頃、生え変わった前歯の永久歯を舌で
確かめるのが癖になり、止む事の無い干渉に隙間が生じ、やがて
僅かだった隙間も成長するに従って、その歯の下に身を委ねた小
魚などは断首を逃れるほどのスキッ歯に為ってしまった。普段は
口を閉じていれば人は気付かないが、一度笑ったりして真ん中が
空いた歯並びが見えると、その場の緊張が緩むのが判った。それ
はマンガの「ついでにとんちんかん」の抜作先生のようにノー天気
な表情になった。さらに母親は他人事の様に「卑しさは口元に出る」
などと言った五味康祐の人相学に心酔していて、元はと言えばア
ンタの責任じゃないかと言いたかったが、他人には結構思い当た
るフシがあって納得した。そんな訳で私は自分の笑い顔を他人に
見られることを甚く気にした。それなのに抜作先生の表情だけを写
真にして載せられたら堪らなかった。当たり障りの無い会話は進
んでいたが、私が上の空で、老先生のご高説に相槌ばかり打って
いる事を訝った出版社の人が間に入ってきて、
「先生の方からも何か気にしてる事があれば言っていただけませ
んか?」
と言ったので、私は思わず、
「笑い顔は載せないで欲しい。」
と、それこそとんちんかんなことを言ってしまった。
対談は飲み物が届いたので少し休憩することになった。その間
に編集者から、写真は無断では載せないと改めて説明された。そ
して再び彼のホイッスルでゲームは始まったが、
「先生は、美についてどのようにお考えですか?」
と、年上の彼はいきなり掴みどころの無い質問をしてきた。主審
の彼は明らかに私の緩慢なプレーに嫌気が挿し、このゲームに飽
きてしまい、さっさとPK戦で蹴りを着けようとしていた。
「えっ!美?」
「ええ、美!」
「ちょっと、わからないですね。」
すると老先生が口を挟んだ。
「君、それじゃあ漠然とし過ぎてるよ。大体画家は言葉では描か
ないんだから。」
「はっ、はい。」
編集者は納得したがそれでは対談など成り立たなくなる。私はも
う一度気後れすまいと言い聞かて、普段自分が思っていることを
喋った。
「むかし読んだ小林秀雄の本で、彼はゴッホの絵の拙い複製を観
て涙を流さんばかりに感動を受けたが、後日、期待して実物を観
たら大して感動しなかったって書いていたけど、美というのはそ
ういうものではないでしょうか。つまり、美は絵に在るのではな
くて画家やその絵を観る人の心の中にあると思います。だから、
いくら美に接していてもいつも感動するとは限らないんです。」
すると老先生が言った。
「それじゃあ、君はどうしてその感動を与える絵を描けると思っ
ているんだい?」
「私は今まで巧く描くことを心掛けていましたが、だから巧いと
言われるともちろん嬉しいんですが、それは技巧を褒められてい
て、それって美とはすこし違うんじゃないかと思っています。た
とえばゴッホとかルオーとか絵は稚拙ですが、それでも深い感動
を受けます、画家の魂というか深い精神性のようなものが確かに
伝わってくる。そういう絵がどうすれば描けるようになれるかど
うか解りませんが、ただ、もう巧いだけの絵は描きたくないんで
す。」
「それじゃあ墨をやめるのかい?」
「何れそうするつもりです。どうしても日本画は写実を重んじま
すから。」
「抽象画へ行くのかい?」
「そこまでは思っていません。」
それを聞いていた女社長が椅子から立ち上がって、
「ちょっと!そんなこと聞いて無いわよ!」
と大きな声で叫んだ。
女社長の抗議は激しかった。彼女はベンチを飛び出してテクニ
カルエリアを越えピッチの中まで入って来て、私の発言を非難し
た。
「よくもそんなことを言えるわね!そんな勝手なことをしたら契
約違反よ!」
と、私の言った事を実行すれば反則だと訴えた。主審の編集者は
慌てて女社長を止めに入ったが、彼女の怒りは治まらなかった。
彼女は間に入った主審越しに、
「まったく!誰のお蔭で売れたと思っているの!」
と、私を罵倒した。堪らずに主審の編集者は、
「社長!ちょっと落ち着いて下さい!此処は私に任せて、そんな
話しは後でもゆっくり出来るじゃないですか。」
と、レッドカードを示して彼女に退場を促がした。確かにそれま
で、私は彼女の画廊とどんな契約を結んでいるのかさえ知らなか
った。私の言った事が契約に反するなら謝らなければいけないが
、最後に言った「誰のお蔭で売れたと思っているの!」は僅かば
かりの私の自尊心を傷つけた。彼女は老先生にも促がされて次第
に落ち着きを取り戻したが、私が述べた事を決して記事にはしな
いように編集者に迫った。そして、編集者の彼もあっさりとそれ
を受け入れてしまった。そして、
「さあ、それじゃあもう一度始めからやりましょうか。」
と、サドンデスへと突入したPK戦の笛を鳴らしたが、今度は私
が納得いかないと主審に食い下がった。
「今喋った事がダメならもう他に喋る事なんてありませんよ。」
すると主審は縋るような目をして、
「そんな事言わないで、ねっ、ほら、ホームレスだった時の話し
とか聞かせてくれませんか?」
と、美術とは全く係わりの無い、しかも私が決して話したくない
過去の話しを求めてきた。私は「一杯のかけそば」のような情に
訴える浪花節を語りたくないのだ。そこには必ず虚飾に彩られた
語りが生まれる。現実の悲哀には安っぽい感情など入り込む余
地など無い。つまり、他人事だから同情出来るのだ。感涙に耐え
られなくなった聞き手に隠れて彼等はしてやったりと小さく舌を出
しているのだ。それにしても近頃は同情を誘う小説が多すぎない
か。私はそういった小説を「一杯のかけそば」小説と呼んでいる。
「それが絵画とどんな関係があるのですか!もう何も話す事はあ
りません!」
私は怒りを露にしてピッチを後にした。
(つづく)
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「パソ街!」81―85
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