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(七十五)
女社長からのお土産は、とぐろに巻かれたサン・ローランのネ
クタイだった。私はホテルでの失態があったので、私の服装に対
する当て付けかと深読みせずには居れなかった。Tシャツでノー
ベル賞の授賞式に出席する計画は考え直さなければならない。サ
ッチャンへの振込みは帰り道に済ませた。その事をK帯で伝える
とサッチャンはまた泣いた。
「ちゃんと学校は卒業しなきゃダメだよ。もう少しなんだから。」
「ありがとう。」
「何言ってるの!礼を言うのは僕の方だよ。これはサッチャンが
、あっ違う、チカちゃんが僕にしてくれた事じゃないか。」
「ウッ、ウッ。」
彼女の笑い方は変わっていたが、泣き方もおかしかった。私は
恩返しが出来た事で気分が晴々しくなった。かつてホームレスだ
った頃に、私を襲ったクリスマスのイルミネーションも、まるで
祝福するかのように美しく燦いていた。澄みきった大気が漆黒の
宇宙をさらに遠ざけて、ツリーの頂点に輝く「ベツレヘムの星」
を際立たせた。そして何処からとも無くクリスマスソングが聴こ
えてきた。
私は子供の頃、イエス・キリストのことが好きだった。それは
母の誕生日が偶然にもイエスと同じだったからだ。ただ、私は決
して偶然などと思っていなかった。子供心にその繋がりに何か深
い意味が在ると信じてた。母は、私にとってイエス以上に特別な
人だった。ただ、貧しい暮らしの中で、母の誕生日もイエスの誕
生日でも、何かが起こるという事はなかった。母も自分の誕生日
など無頓着で、そんな洒落たことが出来るほど恵まれてはいなか
った。クリスマスはテレビの中と家の外の出来事だった。私が友
だちのことを羨ましそうに話すと、人と比べることを厳しく叱責
され、「恨みを持つこと」を強く諌められた。ある年のクリスマ
スの日に、12才で始めた新聞配達のお金で、母の誕生日とクリ
スマスを兼ねて、初めて「丸のまま」のケーキを買い、母の誕生
日を祝ってあげた。ロウソクに火を点けて、「ハッピーバースデ
イ」を歌うべきか、「聖この夜」を歌うべきか迷ったが、まずは
、手拍子で「ハッピーバースデイ」を歌っていると、突然、母が
号泣した。私もつられて泣いてしまい何とも悲しいクリスマスに
なってしまった。この季節に為ると、そして「聖この夜」を聴く
と、私はあの聖夜のことを思い出す。
年を重ねて、私は「汚れちまった」が、絵を描くことが好きだ
ったので、よく図書館で大きな美術図鑑を観ていた。そこで、西
洋絵画に描かれたイエスの表情に強い衝撃を受けた。イエスの表
情はどれもペシミスチック(厭世的な)だった。もしも、神の存
在など信じる者がいないとすれば、それは、イエス・キリストこそ
ではなかったか?彼が説いた博愛とは救いの無い世界にこそ意
義が在るのではないか。約束の地に召されんが為に神と契約を交
わし、神を信じる者だけが罪を赦されるというのであれば、それは
謂わば取引だ。神など存在しない、救いなど無い、それ故に人は
助け合わなければならないのではないか。神が不在でなければ
イエスの説く無償の愛は成り立たない。私は伝え聞く人間キリスト
の生き方にペシミストの影を見る。布教の為に弟子達に因って救
世主に祀り上げられ、捏(でっ)ち上げられた言い伝えのイエス・
キリストで無く、争いの絶えぬ世界に絶望し、神に依る救済では
なく他者への愛に由ってこそ救われなければならないと説いた
「人間」キリストを尊敬する。
神の存在の有無はどう有れ、つまり、生きてようが死んでよう
が、人間はこの世界で「共生」しなければならない。「共生」と
は自分だけが救われることではない。「共生」とは苦しみや歓び
を分かち合うことである。神の意志に通じた者だけが救われるの
であれば「共生」は破綻する。救いの無い暗澹たる世界だからこ
そ、人は助け合わなければならない。もしも、神の意志が世界の
平和にあるとすれば、神は御座をお立ちに為ってお姿をお隠し
に為られたに違いない。そして、神の救済が失われた世界こそ
が、人は苦しみを分かち合って、自らで救いを見出す縁(よすが)
とするべきではないのか。つまり、神の不在こそが我々をより
敬虔な祈りの気持ちへと向かわせるのではないだろうか。
無神論者といえども祈りの気持ちを失った人ではないのだ。
高層ビルの玄関横に飾り立てられたツリーの下から、大きなバ
ッグを背負った若者が俯きながら歩いて来た。彼は行くあても無
く彷徨うホームレスの若者に違いなかった。彼は全身を絶望に侵
されて、眼は辺りを見ようともせず、足取りは重かった。それは
嘗ての私だった。そして明日の私かもしれない。私は堪らなくな
って声を掛けた。
「あのー、すみません!」
彼は私の呼び掛けに一毛も応えなかった。私は更に大きな声で、
「あのー、ちょっといいですか?」
やっと重い足を止めて無言で私を見た。
「君は、今夜寝る場所が在るのかい?」
彼は私を見ずに小さな声で言った。
「大きなお世話だ。」
「全くその通りだけど、もし、よかったらこれを役立てて貰えな
いか?」
そう言って、私は下ろしたばかりの一万円を財布から抜いて、彼
に差し出した。すると、彼はしばらくそのカネを見ていたが、
「どういう意味?」
「誤解してもらっちゃあ困るけれど、つまり、これは君のものな
んだよ、本当は。」
「はあ?」
「僕は君のものを間違って手に入れたんだ。君から社会的な権利
を奪ったのは私達だ。全く済まなかった。どうか、気にせずにこ
れを受け取ってもらえないだろうか。」
すると彼は素早くそのカネを奪い、反対の手を拳にしてこっ酷く
私の顔面を殴った。
「おいっ!これだけじゃないだろ!持ってるものを全部出せよ!」
そう言って彼は、眼をギラつかせて、私の財布に手を伸ばした。
「おおっ、全くその通りだ!君にはこのカネを奪う正当な理由が
ある!何故なら、君は社会から生きる権利を奪われたのだから。
社会の規範に従う必要など全くない。」
その男は私の財布を奪い、軽い足取りで走り去った。
(つづく)
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「パソ街!」71―75
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