|
(六十三)
評論家の老人はこのホテルに長期滞在していた。恐らく、住ま
いが東京に無くて行き来が面倒になってそうしているのだろう。
もう大した仕事もしていなかったが、それでも知名度を頼って一
文を乞う人は少なくなかった。中でもデパートが企画した小学生
の絵画コンクールは、彼が理事長として毎年夏休みに開かれて
いたが、何度もテレビのニュースで紹介されていたので私も良く
知っていた。仮に、彼が私の絵を取り上げてくれるだけで、私の
絵が破格で売り買いされることは間違いなかった。しかし、彼も
そう易々とお墨付きを与えては、築き上げた信用を失うことにな
るので、そういう利害から身を引いて、専ら、子供相手に絵を楽
しんでいた。ところが、私は卑しい算段が頭をもたげてきて、それ
を覚られたくない姑息さから何も話すことが出来なかった。すると
、女社長がその沈黙を破ってくれた。
「この人、随分苦労なすったのよ。」
「そりゃあ、楽して絵描きになった者などいないさ。」
老人のこの言葉に、私はホームレスに炊き出しをしてくれるキリ
スト教会の施しのようなシンパシーを感じた。
ホームレスに救いの手を差し伸べて希望を与えてくれたのは、
残念ながら、キリスト教会だった。こんなことを言うのはおこが
ましいが、途上国の飢餓に苦しむ人々の食糧援助には、諸外
国への対面を気にしてか理解を示す政府も、こと自国の飢餓
に苦しむホームレスには汚染米の一粒も与えようとはしない。
さらに、仏教はといえば、衆生救済はあの世へ逝ってからのこ
とで、ただ念仏を唱えるばかりで何の役にも立たない。衆生は
極楽へのパスを売り飛ばしても今生の幸せを求めているのだ
。
テーブルではワインが選ばれてグラスに注がれた。女社長と
老人はグラスを持ち上げて私を見ていた。気付いた私は慌て
てグラスを取って持ち上げた。すると、女社長が「この出会い
に祝福があります様に、乾杯!」と言った。
ラウンジでの食事は、私が日頃コンビニで済ます「ご飯」では
無かった。それは正に横文字の「DINNER」だった。私は生ま
れて此の方「DINNER」をしたことが無かった。女社長の気の
利いた乾杯の「音頭」に、私はいつもの自分を隠して、マンガ
で知った精一杯の気取った演技を心掛けようと思ったが、ワ
インを口にした途端に、今まで意識したことがなかった重力が
自分だけ解かれたような不思議な感覚になった。それは、ま
るで無重力の宇宙空間を漂っているようだった。ラウンジは
宇宙ステーションのように地上から浮遊していた。思うに任せ
ない無重力空間の中で、私は二度、ナイフを落としてしまった
。始めは慌ててそのナイフを拾いに行こうとしたら、ウエイター
が飛んで来て先に拾って、すぐに別のナイフを用意してくれた
。彼はまるで地上に居るかの様に素早やかった。私はバツの
悪さを感じながらも平静を装おうとして更にワインを飲んだが、
そのグラスを不安定な場所に戻したらしく、ワインの入ったグ
ラスがゆっくりと倒れて、赤ワインが純白のテーブルクロスを
勢いよく朱色に染めた。女社長は、自分の方へワインが押し
寄せて来たので「キヤッア―!」とラウンジ中に響くほどの大
きな声を上げた。私はその声に驚いて二度目のナイフ投げを
しでかした。ホールはほぼ満席だったので、ホールの誰もが
彼女の方を見た。またまた、地上に居るウエイターが素早く
やって来て冷静に対応したのでそれ以上の騒ぎには為ら無
かった。ウエイターは新しいナイフを渡す時に、
「私どものナイフは幾ら投げてもスプーンのようには曲がりま
せんので。」
私はしばらく意味が解らなかったが、スプーン曲げに擬えて
そう言ったのだ。彼は中々洒落たウエイターだった。私が金
持ちなら間違いなくチップを弾んだ。そして、ウエイターは、
ワインで汚れたクロスを代えましょうと冷静に提案したが、女
社長がさすが美術関係者らしく「この朱色すてきじゃない!」
と言ったので、そのままで食事が続けられることになった。お
陰で私と女社長の前には朱色に染まったテーブルクロスが事
の顛末を生々しく伝えていて、私はその朱色を見る度に恐縮
のあまり何を食べているのか分からないほど自閉した。いぶか
しげに様子を見ていた老先生は、
「君は、そのーっ、ホームレスだったのかい?」
と言った。私は、何もこんな時にそんな事を持ち出さなくてもと
思ったが、抗弁する気力も無くただ黙って頷いた。
(つづく)
|
「パソ街!」61―65
[ リスト ]


