北永劫回帰線

かつて我々は精神であった。ところが、今や我々は欲望である。

「パソ街!」61―65

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(六十二)

                 (六十二)



画廊の女社長は、若い頃に女優として活躍して、自動車のCM

に抜擢され脚光を浴びたが、その世界でのキャリアを重ねずに、

大きな会社の跡取り息子と恋愛に堕ちてすぐに結婚してしまった

。子供が生まれて引退したが、やがて夫の浮気癖に愛想を尽かし

て子供を抱えて離婚してしまった。その後、どんな経緯で画廊を

始めたのかは知らないが、彼女の後ろ盾には著名な美術評論家が

いた。ただ、彼女が美術に深い造詣を持っているとは思えなかっ

た。と言うのは、一方で、名の知れた芸能人たちが片手間に描く

絵にも係わって頻繁に個展を催していた。それは、サッチャンが

テレビで私の絵を取り上げて、始めて売れるようになった経緯と

通じるものがあった。つまり、誰も描かれた絵の価値を認めるの

では無く、隅っこに書かれたサインを買っているのだ。以上のこと

は女社長が留守の時に、事務の女性がこっそりと教えてくれた。

だからこそ、女社長は絵に対する知識が無くても、元女優のキャリ

アを生かして、その美貌と演技で収集家を煙に巻いて来れたのだ。

彼女は話しが見えなくなると絶妙のタイミングで思わせ振りな目を

投げかけて、話しの流れを変えることが出来た。私もその眼差しに

思わず変なスイッチが入りかけた。その女社長から電話があった。

「話しがあるの。」

「はい。」

「ちょっと、会って欲しい人がいるの。来れる?」

「はっ、はい、伺います。」

彼女が決めた時間に画廊へ赴くことになった。

 銀座は日没とともに一変する。ダークスーツのサラリーマン達

は暮れゆく街に同化して姿を隠し、焼き立てのパンを載せたよう

な髪型のホステス達が、妖しげなコスチュームに身を包み、男を

迷わす銀粉を撒き散らしながら、燈ったばかりのネオンに群がっ

て舞っていた。彼女らの浮世離れした艶やかさに気を取られなが

ら、女社長が待つ画廊へ向かった。画廊はすでに看板が片付けら

れて表の灯りが落とされていた。おそる恐る扉を開くと、ギャラ

リーの奥の机でこっちを向いて女社長がK帯をしていた。私と目

が会うと手で招いてソファに腰を下ろすように促されて座ったが

、女社長はK帯を止めなかった。

「だから、バスルームにあるでしょ?」

別に聞くつもりは無かったが、静かなギャラリーの中で女社長の

声だけが気になった。私は、仕方なくテーブルにある美術年鑑を

取ってページを繰った。

「だって、起きなかったじゃない!」

何だか仕事の話しではなさそうだった。私は見る気も無い美術年

鑑に集中している振りをして、耳に入ってくる女社長の言葉に、

卑しい好奇心を掻き立てられた。

「子供がいるんだからしかたないでしょ!」

相手の声までは聞こえなかったが、話しの内容から男に間違いな

かった。すると女社長は、

「これから一緒に行きますから、しばらく待ってて下さい。」

私は「えっ!」と思った。もしかして一緒に行くというのは私の

事じゃあないのか?まさか自分にとっては他人事と思って聴いて

いた男女の痴話話しに、突然、自分自身が引っ張り出されて動

揺した。

「それじゃあ。今から伺います。」

と言って女社長はK帯を折り、私に応対した。

「ごめんなさいね。ご飯、まだでしょ?」

「はっ、はい!」

「出ましょうか。」

そう言って女社長は帰り支度を手早く済ませ、私を追い出して入

口に施錠した。そしてタクシーを捕まえてドライバーに誰もが知

っている超高級ホテルの名を告げた。私はTシャツの上に、私に

とっては唯一のフォーマルな、ヨレヨレの紺のジャケットを羽織

っただけで、下はジーンズに、ホームレスの時から履いているス

ニーカーだった。それは、元は白かったが今では汚れてグレイに

しか見えなかった。

「ホテルですか?」

「ごめんなさい、言わなかった。」

タクシーはすぐにホテルのポーチに着いた。私は、回遊魚のよう

にロビーを進む女社長の後を、全身のヒレを使っても思い通りに

動かないフグのように必死で追った。煌びやかなホテルの装飾に

臆してしまい、華やかな服装で身を飾った人々の冷たい視線が気

に障った。鮮やかに彩られた毛足の長い絨毯の上を、ホームレス

の時に路上生活を共にしたスニーカーで穢すことに躊躇いながら

、まるで布団の上を土足で歩くような後ろめたさを感じた。そこ

は、私の自由を奪う為に収容所へと向かう長い通路だった。ラウ

ンジの席に着いて、歩くことを止めた時、逃げ場を無くした惨め

さが堰を切って襲ってきた。まるで、売れない漫才師が会場を間違

えて、オーケストラの居並ぶコンサートホールの指揮台に、手を

叩きながら現れるくらい場違いだった。私は蝶ネクタイをした看

守のスキを狙って何としても脱走を図りたかった。

「そんなに気にしなくてもいいのよ。ホリエモンだってTシャツ

で居たんだから。」

私はその時にホリエモンの偉さがわかった。しばらくして高齢の

老人がゆっくりと現れた。この老人が女社長の「男」であること

は先程の電話で判っていた。

「どうも、お待たせしました。」

中背の老人は私に軽く頭を下げ、内ポケットから名刺を差し出し

た。その頭髪はほとんど抜け落ちていたが、地肌の輝きから健康

そうに見えた。私はその名刺の名前を見てぶっ飛んだ。新聞の美

術評にも記述する有名な美術評論家だった。私は、手の平をその

まま伸ばせばしっかり地面に着くほど前屈をして頭を下げていた。

「ああっ、靴が汚い!」

                                 (つづく)

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