|
(五十三)
美しさは対象に在るのでは無く、それを美しいと思う人の意識
に在る、と言うのは私の卓見だと自負していたら既にニーチェが
書物に残していた。かつて性欲について、こんなにも人口が増え
れば、やがて人から性欲が失われていくだろう、と書いたら、後
日あるブログに同じような記述があって愕然とした。ネットの進
歩で様々な意見が記述され、記述が被って丸で盗作をした様な後
味の悪い思いをする事がある。世に溢れる全ての記述を確かめる
事などできる訳が無いし、私は極めて怠読家で、人からも私の認
識が著名な書物からの引用だと指摘されることもままあるが、そ
んなこと気にしてたら「何も書けねえ!」ってことで、先人の数
多の名著に敬意を払いつつ、「美くしさはそれを美しいと思う人
の意識に在る」を拡げて考えてみたい、多分誰かが書いているだ
ろうけど。
そこで、美しさとは、それを美しいと思う人の意識に在るとす
れば、様々な「もの」の価値とは、その「もの」に在るのでは無
く、それを価値が在ると思う人の認識に在るということに為る。
つまり、「もの」に価値を与えているのは人なのだ。ただ、我々
は社会生活を営んでいるので、様々な価値感を共有しているわけ
だが、だからと言って社会的な価値感を全ての人が認めている訳
では無い。つまり、「もの」に対する価値感は人それぞれ違うの
だ。
そこで、今まさに生きる意味を見失って死を決意した人が居る
とする。彼は自らの人生を生きる意味が無いと認識したのだ。さ
てそれでは「生きる意味」とは何だろうか?「もの」の価値が「
もの」に在るのでは無く、それを価値が在ると思う人の認識に在
るとすれば、「生きる意味」は、生きること自体に在るのでは無
く、生きる意味を見出した人の認識に在ることになる。つまり、
我々はただ生きているだけでは「生きる意味」など見出せないの
だ。しかし、「生きる意味」が無いからと言って死を選ぶ理由に
はならない、何故なら、始めから生きることには意味などないか
らだ。それでは彼は、「生きる意味」をどうすれば得ることが出
来るのだろう。富士山の美しさは富士山に在るのでは無く、それ
を美しいと思う人の意識に在るとすれば、彼は「生きる意味」を
生きることに求めずに、生きることを忘れさせてくれる「もの」
に求めるべきだ。つまり、彼がこれこそ私の「生きる意味」だと
言える「もの」を見出せば、もはや「生きる意味」すら意味を失
くすだろう。何故なら、美とか価値とか、意味などは、対象に在
るのでは無く、我々の意識の中に在るからだ。
(つづく)
|
「パソ街!」51―55
[ リスト ]



