北永劫回帰線

かつて我々は精神であった。ところが、今や我々は欲望である。

「パソ街!」6―10

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(九)

              (九)



 朝も十時を回ると仕事場へ向かう亡骸の群れは、ステンレスの

シンクを流れる水のように駅の改札に吸い込まれた。私は流れに

取り残された生ゴミのように、排水口には向かわずに駅前のコン

ビニへ入った。別に、駅にもコンビニにも用は無かったが当ても

無く時間を遣り過すには大勢の人の中いる方が気楽だった。群集

の中に居ると自分の境遇を忘れて一人の社会人として振舞うこと

ができた。独りで居ると不安に苛まれる毎日を束の間でも忘れさ

せ、関心が外の世界に向いて自分と向き合わなくてよかった。

集団は個人の不安から生まれる。何故ホームレスは他人の眼に曝

される恥辱を忘れてまでも競争の苛酷な都会に住み着くのか薄々

疑問に思っていたが、いざ自分がその身に為ってみると到底人里

離れた山の中で世間を捨てて独りで自分自身と向き合うことに耐

えられないことが解った。群衆の中で私は私の考えを封印して群

衆の一人として考える。群衆と状況を共有しやがて感情も同化し

て我が身の憂慮を忘れて気楽になれる。例えば、電車の中で偶然

にも非常識な出来事に遭遇しても、人は個人の行動を封印させら

れているのだから、すぐに自分に返って事態を把握して行動する

ことなど出来る訳がない。況して日本人は生まれてより自分の色

を消して「朱に交わる」よう教えられてきた。我々は群衆の中で

自分を隠す擬態は得意であるが、模す対象を取り上げられ一個の

生き方を問われてもどうしていいのかわからないのだ。

 独りで山道を歩く時は誰でも自分の考えを巡らして細心の注意

を心掛けるだろうが、人の数が増えていけば比例して考えを人に

預けるのは生き物の本能かもしれない。社会は個人の切迫した状

況を忘れさせる。我々は自分自身と社会人を使い分けていきてい

る。こうしてホームレスも犯罪の容疑者も人の眼があっても群衆

の中に紛れ込んで、社会人に成り済まして自分からも自分自身を

隠そうとする。

 とはいっても私の頭の中心は二日酔いのせいで前後左右にぶれ

て、周りの人々に合わせて善良な社会人に成り済ます余裕が無く

、ただ頭が転げ落ちないように頭の動く方へ体を従わせて歩いた

ので自分の思う方へ真っ直ぐには行けなかった。駅前のコンビニ

は誰もがこの場所に居ることが時間の浪費だと云わんばかりに慌

しく行き来していた。毎日が時間の浪費の私はゆっくりと右側

の雑誌の棚へ向かった。こう見えてもついこの前まで出版社に出

入りしていたのだ。私が投稿していたマンガ雑誌の発売日はやっ

ぱり気になった。そのマンガ雑誌を手に取ろうとしたが二人のフ

リーター風の男がその本の前で周りを気にもせず立ち読みに耽っ

ていた。もとより私も買う気など更々なかったので、つまり私も

彼等と狢(むじな)穴を同じくするので、後屁を拝す者の礼儀と

して慎ましく席が空くのを待っていたが埒すら明かないので、遂

に、店より正式に許可された購買者の振る舞いで、

「すみません。」

と言ってから、二人の間に半身を入れて、頭が落ちないように注

意しながら、腕を延ばして強引に目指す本に手を掛けた。すると

二人の男は私を避けながら、排便を覗かれた者が返す様な怪訝な

目で私を睨んだが、私は粛々と許可を与えられた者の権利を執行

した。だが、そこまでして手にした雑誌を彼等と連るんで立ち読

みする訳にもいかず、仕方が無いのでその雑誌を持ってレジに行

った。そしてレジのカウンターに雑誌を置いた時に、初めてそれ

がイカガワしい雑誌であることに気付いた。

「ええっ!」

二日酔いの頭の中で、接続不良を起こしていた神経が緊急事態で

蘇り、滞っていた電気信号が私の社会人としての安全装置を稼動

させた。カウンターの真ん中に置かれた雑誌には、あどけない少

女が許される限りの裸身を曝け出して出勤前の会社員でごった返

すコンビニの店内には相応しくない天真の笑顔で、無表情なレジ

の女性を見ていた。レジの女性はその微笑みに応えることも無く

、私の緊急事態を察することもなく平然とバーコードを通して、

私に、

「袋に入れますか?」

と聞いた。私は慌てて、

「あっ!すみませんっ!これ、間違っちゃった!」

と言ったが、レジの女性は、

「もう、バーコードを通しましたけど!」

と不愛想に言った。私は、その雑誌のお金で充分一日の食費が賄

えたので支払いを躊躇してると、すぐ後ろに若い女性が並んで居

てその遣り取りを腕を組んで聞いていた。するとレジの女性は、

私のあどけない少女が微笑む卑猥な雑誌を汚らわしいモノを扱う

ようにカウンターの端に除けながら、私の後ろで不機嫌そうに腕

組みをしている若い女性に向かって、

「どうぞっ、次の方っ!」

と私を無視して言った。若い女性はすかさずに、

「すみません。」

と、どっちにともなく言いながらレジの前に出てきたので、私は

仕方なく横へズレた。三人の真ん中で、あどけない少女が卑猥な

微笑みを空気を読まないで投げかけていた。若い女性はカウンタ

ーのその雑誌の横に怪訝そうに菓子パンと缶コーヒーを並べて置

いた。私が背を向けているうちに精算を済まして、頭を下げなが

ら急いで店を出て行った。私はさすがにメゲて、裸で微笑むあど

けない少女を仕方なく身受けした。ただ、それから二日酔いが醒

めて私の頭が首から外れ落ちる心配は無くなった。私は関わって

いるうちに多少愛着を感じる様になった、あられもない姿で明る

く微笑むあどけない少女が表紙のイカガワしい雑誌を持ってゆっ

くりと店を出た。

                                 (つづく)

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