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(八)
東京の朝は物憂い。残飯を漁るカラスの鳴き声がいち日の始ま
りを不安な気分にさせ、そんな朝は決まって救急車が走り、犬が
吠える。こっちの様子など解からない筈のテレビの連中が「空気を
読め!」と罵り合っている。やがて人の気配が忙しくなって世間に
日常の電源が入る。稼動を始めた日常は加速を強め朝の「物憂さ」
を消し去るが、「ものぐさ」な気分は身に付きまとう。
「ああ、またいつもの一日かっ!」
と、慌てて起き上がろうとしたが昨夜の酒が残っていた。立ち上
がると頭が首から落ちるように思えた。しかし、どうしても水が
飲みたくなったので、頭が落ちないように両手で支えてフラつき
ながら洗面所に行った。
「いつもの一日にはなりそうもないな。」
私は昨日に続いて今日も仕事を休むことになり、社会から取り残
された解放感とそれを超える不安と、どちらを気にするべきか迷
っていた。これは子供の頃、学校へ向かう登校路を外れて山の中
にある私だけの秘密基地に行った日のことを思い出させた。
それは幽霊屋敷と云われた廃屋で、奥の一室には書棚があって
自殺したと云われる主人に見捨てられた本や雑誌が寄り添いなが
ら朽ちていた。その部屋を発見した時の興奮は今でも忘れられな
い。僕等は仲間の四人で探検することになって、というのはその
本棚にエロい本が一杯あったという話しを誰かが言ったからだ。
学校が休みの日に、芽生えたばかりの好奇心は興奮を隠せずに、
皆なで揃ってその屋敷に入った。すぐに僕は書棚の本を手にした
が、誰かが奥の壁に吊るされた肖像写真を指差して奇声を発した
ので恐怖のあまり皆なで一斉に逃げ出す破目になった。それでも
その本に強い興味を持った僕は恐る恐る後日になって単独行を試
みた。そこには見たことの無い写真集や百科事典、単行本のマン
ガ、それに目当てのイカガワシイ写真が載った雑誌、とりわけ裸
の男の人と重なり合った女性の「哀しげで嬉しそう」な複雑な表
情に不思議な動揺を覚えた。私は興奮を抑えられずにその写真を
丁寧に破り取って四つ折りにしてポケットに入れて持ち歩いた。
授業中も僕のポケットには友だちの知らない世界の秘密が隠され
ていた。しかし、ついにはボロボロになって、彼女の哀しさと嬉
しさを切り離そうとする裂け目が現れたので、しかたなく基地に
作った秘密の宝入れに隠した。それからは学校が終わってもすぐ
に家には帰らず、人に気付かれないように道を外れて、幽霊屋敷
の書棚に残された知られざる世界の秘密を解き明かすことに熱中
した。
ある日、何があったのか忘れたが学校へ行くのが嫌になり登校
中に道を逸れて秘密基地に行った。光が差し込む窓を開けその敷
居に腰を預けてマンガを読んでいた。やがて朝礼が始まる時間に
なり、一時間目が終わろうとした頃には、毎日の習慣を逸脱して
しまった不安に苛まれマンガも読めなくなってしまった。やがて
その不安がきっかけでそれまで気付かなかった幽霊屋敷の不気味
さが増幅されて迫ってきて、恐怖のあまり大声を上げて飛び出し
た。やっぱり学校へ行こうと思い、遅くなったが登校路を歩いて
いると、パトカーがやって来ておまわりさんに乗せられて学校へ
連れて行かれた。その学校では消息が不明だといって事件になっ
ていた。やがて仕事を止めて母も駆けつけてひたすら頭を下げて
いた。そして何処に居たのかしつこく聞かれて、仕方なく吐いた
秘密基地はすぐに潰されてしまった。その後もあの「哀しげで嬉
しそう」な彼女の写真を失ったことを長く後悔した。
私は社会生活の中で日常に退屈するとあの秘密基地での自由な
時間やさまざまな世界の秘密とイカガワしい欲望のことや、それ
に反して社会を逸脱することの不安も記憶の中から蘇ってくる。
きのうはピンハネ会社に仕事を休む連絡を取ったが、さすがに
今日は気が重くなって電話もしなかった。おそらくもう仕事には
ありつけないだろう、私は本当の住所不定無職になってしまった
。
「ああっ、これからどうしよう...。」
不安が過ぎったが仕事を失ったことを後悔などしなかった、つま
りその程度の仕事だった。ただ「これから」の私は、「それから
」の代助のように「高等遊民」にはなれないと思った、遊民では
あるが。二日酔いの血流の滞った頭で考えていると不安が絶望を
連れてきて、学校をサボった秘密基地での不安が蘇ってきた。し
かし今の私に選ぶことができる選択がほとんど無いことに絶望し
た。
「そうか、高等遊民とは多くの選択から選べる者のことか。」
まるで私は役柄も台詞も知らないまま舞台の上に放り出された
役者のように、周りで演じられる日常劇に右往左往していた。役
目を得て社会で生活をしていると社会の煩わしさに嫌気が差し、
社会から遠ざかれば途端に生活が立ち行かなくなる。私はどうし
ても社会と上手くやれなかった。
「あれっ?仕事行かなくていいの?」
バロックだった。
「もうやめた!」
「ふーん、せやな、もうそんな仕事辞めた方がええな。」
「ああ。」
「俺、今から部屋探して来るから、もしよかったらその部屋の住
所でちゃんとした仕事見つかるやろ?」
「ありがとう。」
一つ選択ができた。バロックとK帯の番号を教え合って、彼はギ
ターを弾く真似をしてから、
「ほんだら、また昨日のトコで会おうや。」
そして手を上げて出て行った。寝カフェは留まっていると料金が
加算されるので私もすぐにそこを出た。
(つづく)
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「パソ街!」6―10
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