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(十三)
そうは言っても、彼女は元妻であって、すでにわたしとの直接的な
関係は切れてしまった。ただ、娘を通じての間接的な繋がりでしか
ない。もはや彼女が何をしようがわたしが関わることではない。わ
たしとしては、娘がそういうものに頼らずに自分の力だけで自由に
生きて欲しいと願うばかりだ。後はミコが自分で判断するしかない。
「ボクでよかったら買いに行きますよ、町へ」
バロックがそう言ってくれたので頼むと、すぐにミコが、
「私も行きたい!」
バロックとわたしは同時に、
「大丈夫?」
と声を重ねた。
「多分」
本人が行きたいと言っているのを無理に押し止めることはできなか
った。ミコも年頃なので若い者で賑わう町の様子を見たいだろう。
さっそく被爆から身を守るための出来る限りの防備を用意して彼女
のバッグに詰め込んだ。居座る残暑を漸く追い遣った初秋の爽や
かな風が、彼女の身を気遣うわたしのせめてもの救いだった。
「行ってきまーす!」
バロックと、ミコは明るく家を後にした。
バロックが来てからわたしは独りになることが多くなった。彼に
ミコを奪われて少し妬みを覚えた。もしも、このまま二人がここを
出て行くようなことになれば、わたしは一体どうしたらいいのだろ
うか。自然循環に拘った生活をたった独りでする意味が、果たして
あるのだろうか。社会を失えば誰だって自然循環の中で暮らすしか
ないではないか。そうだ!社会だ!社会がなければならない。自然
循環に拘った、近代社会とは異なる新しい社会を創ろう。限界集落
に再び人が興味を持って戻って来るような社会を創ろう。終わりの
ないラットレースのような都会生活に疲れた人々が、再び生きる歓
びを取り戻せるような社会を創ろう。病院の待合室のような、誰も
が沈黙して自分の死ぬ順番を待っているような社会ではなく、生き
ていることさえ忘れるような気兼ねのない社会を創ろう。でも、ど
うやって?
考えているうちにソファで寝てしまった。そして、何時しか若い
頃の夢を見た。
妻の市子とは社内結婚だった。部下だった彼女は笑顔の素敵な女
性だった。笑うとまなじりから伸びた皺が歓呼に応えて優しい曲線
を描いて放射状に広がった。いさぎよい希望にあふれた笑顔は何時
まで見ていても飽きなかった。ところが、娘が生まれてアトピーを
発症したりアレルギー疾患に悩まされる頃から、彼女のまなじりか
ら優しい曲線が消え、ああ、栄冠に輝く瞳(ひとみ)が見られなく
なった。瞼(まぶた)は強い直線で描かれ、まなじりが鋭角に尖り
眼(まなこ)が三角になった。そして、まなじりにできる寛(くつろ)
かな皺は、笑わなくなって姿を消した。それはわたしの好きだった
彼女の眼ではなかった。わたしは彼女の優しい笑った顔を必死で
思い出そうとした。
すると突然、白装束の女が神棚に向かって正座して体を震わせて
何かを呟きながら、ただ一心不乱に祈りを捧げている姿が現れた。
わたしが恐る々々彼女の名前を呼んだ。
「イチコ―ッ!」
すると、彼女は頭を反して鋭い眼差しでわたしを睨んだ。その眼は
まるでもののけにとり憑かれたように血走っていた。そして厳しい
口調で、
「邪魔しないで!もう、私にはこれしかないのよ!」
と、吐き出すように言った。彼女はもう、わたしの好きなよく笑う
彼女ではなかった。わたしは彼女の変貌に驚いて眼が覚めた。わた
しは彼女を呼び戻すことが出来なかった。彼女に屈託の無い笑みを
取り戻してもらうことは叶わなかった。ああ、それにしても現実は
なんて惨(むご)いんだ、わたしはただ、家族の者と楽しく生きた
かっただけなのに・・・
「お父ちゃん、もしかしたらワタシ、CS(化学物質過敏症)、
治ったかもしれん」
わたしの心配を他所に、随分経ってからミコが楽しそうに携帯から
デンワしてきた。
「おまえ、もしかして、マスクしてないやろっ?」
「せんでも、平気やもん」
「あかん!マスクだけはしとけ!何があるか分らんねんから」
「わかった、わかった」
「買い物すんだら、早よ帰って来いよ」
「もう、買い物すんだ。これから、バロックと一緒にゴハン食べて、
それから帰る」
「ごはん食べてもええけど、マスクだけは絶対しとけよ」
「アホやな、マスクしてゴハン食べられへんやん」
「あっ、そうか」
ミコは明るかった。その明るさがわたしを暗くした。もちろん、彼
女がCSを克服して普通の暮らしが取り戻せることを願っているが、
そうなれば、何れこんな山の中で暮らしたくないと言い出すに決ま
ってる。そもそも年頃の娘が世間の流行(はやり)に無関心なはず
がない。しかし、ここでは流行など全く意味がない。何しろ関心を
示してくれる者など居ないのだから。しかし、そういう関心は我々
の本能から発する動機であって、いくら理性が軽薄さを批判しても、
我々は社会を棄てることなどできない。況(ま)して、年頃の娘が社
会と関わらずに耐えられるわけがない。つまり、社会とは性的な関
心によって繋がっているのだ。我々が人との繋がりを求めるのは本
能的な動機なのだ。理性は孤独に耐えることができても、本能は社
会との繋がりを求める。わたしはそれを考慮せずに理性的な動機だ
けで生きようとしていたのかもしれない。しかし、わたしはあの退
屈な社会へ戻りたいとは思わなかった。ミコのデンワはわたしの想
いを複雑にした。わたし自身は何時もこの本能と理性のアンビバレ
ント(二律背反)に悩まされる。
「ゆーさん、ゴメン!」
しばらく経って、今度はバロックがデンワをしてきた。彼はデンワ
の向うで頭を下げているのが分るほど神妙な声で話した。
「何や?」
「ミコが倒れた!」
「何で?」
「レストランに入ったら、急に頭が痛い言い出して・・・」
「ふん」 「でも、何でレストランで被爆したんや?」
「アロマキャンドルの臭いや言うてる」
「アロマキャンドル?」
「芳香剤みたいな、油性の粘っこい臭い」
「あっ、わかった!」
ミコは人がつけてる香水もダメで、芳香剤は特にひどかった。
「ミコがもう平気やって言うから、よう確かめんと入ってしもた」
「それで、どうしてる?」
「お母さんの実家に連れて来て、横になってる」
「ああ、それでええ」
彼女は病院へは絶対に行こうとしない。CS発症者にとって病院ほ
ど空気の悪い場所はないらしい。それにしてもこの頃は、思いもよ
らない場所で、場違いな臭いに遭遇して戸惑うことが多くなった。
しかし、臭いほど人の好みが分かれるものはない。良い香りという
のは人によって異なるのだ。昔、付き合っていた女は、わたしの超
クサイ足の臭いが堪らなく好きだと言った。あっ、それとこれとは
違うか。ただ、喫煙と同じことで、個人で楽しむ分には何の干渉も
しないが、公の場所で個人の嗜好を押し付けないで欲しい。いくら
良い香りのする場所でも長く居れば頭がおかしくなることだってあ
るのだ。我々は視力を衰えさせたように、嗅覚も退化させようとし
ている。とにかく、嗅覚が安らぐのは無臭しかない。
ミコの被爆は、恢復には到らなかった残念な思いと、それに反し
て、今までどおりここで一緒に暮せる思いがわたしを安堵させた。
わたしは再び複雑な思いに悩まされた。
(つづく)
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ゆーさんの「パソ街!」11―15
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