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(十七)
山道を歩き終えた後の車の運転は退屈だった。思索を繋げ止め
る視線の対象が定まらず、考えがが纏(まと)まらないうちに過ぎ
去ってしまった。思うに、意思と呼べるものは総ての生きものが獲
得していて、喩え植物であっても成長したり動くことができるという
ことは何らかの意思がなければできないはずで、その凡そを遺伝
子に支配されているにせよ、決断は個々に委ねられている。つまり、
進化とは個々に委ねられた「逸脱」した思考によってもたらせるのだ。
思考が動くことによってもたらされたとすれば、我々の思考はその身
体能力によって制限を受けている。ところが、進化を道具に委ねた人
間は、道具の著しい進化によって身体能力と思考能力のバランスが
崩れ、たとえば、時速50キロで移動できる身体に相応しい思考能力
を未だに持てないでいる。何故なら、実際にはそんな速さで走る身体
能力を獲得していないからだ。こうして、我々は身体を超えた能力を
道具によって手にした代わりに、道具を操ったり機械に身を委ねるこ
とによって自らの能力を見誤る。身体化されない超能力への依存が、
我々の身体能力の退化と同時に、それに相応しい思考能力の退化
を招いているのではないだろうか。何かを手に入れた時に、何かを失
ったことには気付かずに。わたしは、大袈裟かもしれないが、軽い時
差みたいなものを感じて車を降りた。
池本さん一家とは隣町のショッピングストアで待ち合わせた。わ
たしは早く着いて買い物を済ませてから彼らを待った。K―帯で連
絡を取り合っての待ち合わせはスムーズだった。間もなく夫妻が車
から降りて来た。わたしも車を降りて迎えた。そしてご主人に、
「どうも久しぶりです。大阪からだと疲れたでしょ?」
「どうも、ご厄介をお掛けします。いやーっ、日本って案外広いん
ですね、世界地図を見るとそうは思えないけど」
「確かに。一億二千万も居るなんて到底思えないよね」
すると奥さんが、
「でも、納得しましたよ。こんな山奥にも民家が立ち並んでいるん
だもん。あっ、ゴメンなさい」
「何のっ!わたし等が居る所はもっと山奥だから、奥さん、覚悟し
て下さい」
「ええ、娘のためなら何処だって行きますよ」
「あっ、それで、あやちゃんの具合はどうですか?」
「良くは為らないですね」
「やっぱり」
そう言って、池本さんの車に近付いて車内を覗いた。文香ちゃんは
助手席でマスクをしたまま、春風さえも断って締め切った窓にもた
れて眠っていた。車での長旅で疲れたのだろう。露出した肌は青白さ
と赤みが斑(まだら)で、一目で健康な子どものそれとは違っていた。
それでも、わたしはお母さんを励まそうと、
「ミコがここへ来た時より顔色はずっとましですよ」
事実そうだった。
「本当ですか!」
奥さんは安堵を確かめるように言った。
「あまりここに居てもあやちゃんにも良くないでしょうから、さあ、
もっと山奥に引き篭もりますか」
「はい、後を着いていきます」
「あっ!そうだ、あやちゃんは食べれないものってある?」
「ええ、いっぱいあります」
「やっぱりそうですか」
「でも、おたくの野菜は毎日食べさせてましたから大丈夫です」
「なるほど」
わたしはミコに連絡してそのことを伝えた。ミコは、それじゃあ私
が食べれるもので用意しておくと言った。わたしは、
「あやちゃんもお腹空いたでしょ、きっと。買って食べれないから」
「そうかもしれません」
「三人の食事を用意してますので行きましょう」
「あのう、実は、三人じゃなくて四人なんです」
「えっ?」
わたしは振り向いて車の後部座席を覗いた。すると、何と、妻の、
否、元妻の、ミコの母が、わたしの目を見て申し訳なさそうに頭を
下げた。
「奥さんが内緒にしてって言うんで・・・」
池本さんの奥さんは元妻が一緒に来ることを隠した理由を明かした。
「でも、奥さんが一緒に来てくれて文香も私たちもほんとに助かりま
した」
彼女は娘のミコに付き添った経験からCSのことをよく知っていた。
だから、これまでも何かと文香ちゃん家族の不安にアドバイスして
いたらしい。
「そうだったんですか」
わたしは彼女を問い詰めることなどせずに、わたしの車に移るよう
に促した。彼女は黙ってドアを開けて降り、後ろのハッチを開けて
もらって自分のキャリーバックを移し変え、池本さん夫婦に礼を言
った。それまで雲に遮られていた陽射しがその時だけ初夏を想わせ
るマンガで見るような六角形の反射を幾つも連ねた光線がギラギラ
とふたり照らして、ことさら無言でいることを際立たせた。駐車場
を出て山間の農道に出ると再び山道は春霞みに覆われた。しかし、
霞に覆われようと亀甲を連ねた陽射しが差し込もうと、ふたりの重
苦しい空気を変化させることはできなかった。
「あやちゃんの具合はどう?」
重苦しい空気に耐えられなくなってわたしが言葉を吐いた。
「ミコの時よりも軽い」
「そうか、じゃあ何とかなりそうやな」
「ええ」
思い付いた話題はわずかの会話で途切れた。それは互いに他のこと
を考えていたからだった。しかし、気兼ねしてそれを言い出せなか
った。変わり映えしない景色と相まって沈黙が続いた。すると突然、
彼女が後ろを振り返って、
「あんたっ!」
と叫んだ。一緒に暮らしている時、彼女はわたしを呼ぶときには決
まってそう言った。だから、「あんた」と呼ばれたことにたじろい
た。
「えっ?」
もちろん、彼女にすればほかの呼び方が思い付かなかっただけかも
しれないが、わたしは、これまでのように「あんた」と呼ばれただ
けで何故かそれまでのギクシャクした感情がどうでもいい事の様に
思えた。彼女は、
「・・・ちょっと速過ぎるって。池本さんら来てないで」
「えっ!」
わたしは彼女とのことに気を取られて彼らのことは全く忘れていた。
バックミラーには蛇行した道路が山肌に隠されて後を着けて来てる
はずの池本さんの車は見当たらなかった。
「忘れてた」
そう言って見通しの利く待避所に車を預けた。
離婚した夫婦が姓を別った後も子の鎹(かすがい)によって仕方な
く会わなければならなかったり、或いは話をしなければならなくな
った時、彼らはお互いを何と呼んでいるのだろうか?たとえば、そ
こに子どもも居合わせていれば、子どもを傷付けないように父親母
親を演じるのだろうか?恐らく、社会などを気にせずに二人だけの
世界に充たされていた恋人同士が、暮らしていくために社会と関わ
り、そして「夫婦」の役割を演じ始めた時に二人の世界が消滅する。
かつては、互いに運命を感じて愛を確かめ、この人のいない如何な
る人生も幸せだとは言えないとまで一途に思い詰めたかけがえのな
い人も、想いを実らせて一緒に暮らし、「夫」「妻」或いは「父親」
「母親」の社会的な役割を演じ始めた時に、恋しい人は遠ざかって
小さくなる。夫婦の役割は社会的な責任をもたらし、社会が二人の
愛を義務に変えてしまった。愛とは、相手をただ受け入れることだ
とすれば、能力によって選別する競争社会とは相容れない。わたし
は豊かな暮らしを得るために競争社会を生き抜き、そのことが彼女
を受け入れようとしなかった原因を生んだのかもしれない。しかし、
すでにわたしは社会を棄ててしまったではないか。社会的な立場や
常識といったタテマエなどもうどうだっていい。ただ、失ってしま
った彼女との二人の世界をもう一度やり直したかった。そして、
社会的な役割を忘れた寛(くつろ)かな笑顔を彼女にもう一度
取り戻してほしかった。
「じっ、実は、相談があるんや」
「何?」
「あのーっ、・・・」
「早よう!何っ?」
わたしは意を決して、
「あのーっ、おっ、おれの『セフレ』になってくれへんか」
「何や、『セフレ』って?」
「せっ、『セフレ』って言うのはやな・・・」
その時、車道を一台の車が勢いよく走り抜けた。すると、彼女が
その車を指差して、
「あっ!池本さんや、ほらっ!池本さんが通り過ぎた」
わたしは慌ててクラクションを鳴らして彼らに知らせた。彼らの車
はそれに気付いて急ブレーキを掛けて停まった。ただ、わたしは彼
女に『セフレ』という言葉が『セックスフレンド』の略語だと打ち
明ける機会を失い、それでも彼女はしつこく聞いてきたが、改まっ
て説明するにはあまりにもバツが悪かった。
「なあ、あんた、『セフレ』って何やのん?」
気付かないうちに山霞は「霞」散して再び亀甲が連なった陽射しが
差し込んでいた。
(つづく)
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ゆーさんの「パソ街!」16―20
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